Tiny garden

チョコレートカラー

 大学の構内で、偶然、先輩を見つけた。
 解け残った雪があちらこちらに残っている歩きにくい道。チョコレートみたいな色をしていて、見栄えはよくない雪解け道。それを物ともせずにざくざくと、進んでくる。表情が判別出来ないほど遠くからでもわかってしまった。見慣れたブーツ、見慣れたコート、あの歩き方。
 あたしはこの時期があまり好きじゃなかった。二月にチョコレート色のぬかるみなんて、押し付けがましいにも程がある。でも、今は雪が降っていなくてよかったと思う。雪景色の中ならどうだっただろう。あの人に気付かれる前に、色白のあの人を見つけられていただろうか。わからない。

 ちょうど、アパートへ寄っていこうかと思っていたところだ。あたしは荷物を後ろ手に隠し、一つ息をつく。それから先輩へと近づいていく。
 雪解け道は余計に歩きにくい。歩くスピードは先輩の方が早く、数メートルも行かないうちに顔がはっきり見えるようになった。意を決し、先んじて声を掛けた。
「先輩」
 はっと、先輩が面を上げた。色白の顔は寒さのせいで真っ赤だ。両目であたしを認めるなり、表情が優しく綻ぶ。
「ああ、君か」
 言うなり駆け寄ってくる。あたしは立ち止まって、ひとまずは従順そうにそれを待つ。
 目の前に立った先輩が、笑顔で言った。
「こんなところで会うなんて偶然だね」
 事実、先輩の言う通りに『偶然』だった。だけどその言葉に、あたしは妙につんとしたくなる。
「同じ学校にいるんですから当たり前でしょう」
 澄まして答える。
 内心では、別のことを思う。――ここで会えたのは偶然だけど、今日のあたしはずっと先輩を探していた。学食やら図書館やら、果てはサークル室までを覗いてきて、先輩と会えないものかとうろちょろしていた。バレンタインデーは大学に通う人間にはいろいろと不都合だと思う。チョコレートを入れておく靴箱も、教室の決まった席もないんだから。
 だから、部屋まで押しかけてやろうと思っていた。
「君は、帰るところ?」
 先輩が聞いてくる。そわそわして見えるのは寒さのせいだろうか、それとも、今日が何の日かわかっている? だとしたら困る。期待されるようなものはない。
「はい」
 顎を引き、次の瞬間あたしは隠していた紙袋を突き出した。手をうんと伸ばして先輩の鼻先に。中身がちゃんと見えるように。
「これを先輩に受け取ってもらえたら、帰ります」
 ゆっくりと瞬きをして、先輩が紙袋の中を覗いた。それから、ちゃんと両手で受け取ってくれた。表情が、今度は緩んだ。
 でれでれの顔で聞いてくる。
「もしかして、チョコレート?」
「さあ。爆発物かもしれないですよ」
 あたしは素直になれなくて、そんなことを答える。どうせ何を言ったって先輩の笑顔はもう打ち崩せないんだろうけど。今もあたしの答えなんか聞いちゃいない。さっさと紙袋に手を突っ込んで、中身の箱を引っ張り出している。道の真ん中で。
「開けるなら帰ってからにしてください」
 無駄かなと思いつつ釘を刺す。
 先輩が締まりのない笑顔をこちらに向けた。
「君がチョコレートをくれるなんて思ってもみなかったよ」
 目を伏せながら、自分でも思う。どう考えたってあたしのキャラじゃない。バレンタインデーに好きな人の為にチョコレートを用意してくるなんて、可愛らしいことは似合わないとわかっている。
 でも、今年はそうしたかった。そうすれば喜んでくれる人がいるということもわかっていたから。
「そりゃ、このくらいはしますよ。高いもんじゃないですし」
 言いながら横目で先輩を見遣る。先輩はやっぱりこっちの話なんか聞いちゃいない。でれでれしながらチョコレートの箱を引っ繰り返したり匂いを嗅いだり、ためつすがめつ観察している。自分の彼氏とは言え馬鹿みたいだと思ってしまう。
 こんなに馬鹿だと知ってたら、もっと考えたのにな。――クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントもあげておくんだった、とか。
「ありがとう、うれしいよ。最高だ」
 相好を崩す先輩がそう言って、あたしは目を逸らした。市販のチョコレートで喜ぶなんて、先輩って本当に馬鹿だ。こんな可愛げのない女に引っ掛かるくらいなんだから手の施しようもない。
「別に気にしないでください。あ、ホワイトデーは欲しいファンデがあるんでよろしく」
「いいよ。後で商品名教えて」
「すっごくお高い奴ですよ。先輩、無理しなくていいですよ」
「買って欲しいのか欲しくないのか、どっち?」
 たしなめるそぶりさえうれしそうな先輩。今日は何を言っても無駄みたいだ。あたしも寒さのせいか、上手く口が回らなくなっていた。それで視線は外したまま、首を竦めることにした。
「とりあえず、渡せてよかったです。じゃああたしはこれで」
「え? 帰るの?」
 踵を返そうとすると、先輩の声。
「さっき『帰るところ』って答えましたけど。もう学校に用事ないんで」
 もう五時限が終わる頃だ。本当なら講義もなかったし、こんな時間まで残っている理由もなかった。サークルだって最近じゃ顔も出してない。先輩がいなければ大学に留まる理由はなかった。散々、探した。
 偶然でも会えてよかったと思う。先輩を見つけられて。
 後は逃げ帰るだけ。だからあたしは踵を返そうとした。
 なのに先輩は、あたしの手を捕まえてしまった。
「今日はこれから暇? 俺も帰ろうと思ってたんだけどさ」
 ぎゅっと握って、ストレートに尋ねてくる。
「よかったら、俺の部屋においで」
 上機嫌の笑顔はためらいもなく、下心ありありの言葉を告ぐ。部屋に招かれただけじゃないってわかっている。恋人同士なんだから、そんなことを言われたところでどうってこともない。ないはずだった。
 でも、今日のあたしはそうじゃない。どうってことなくない。
「いや……いいです。今日は帰ります」
 捕まえられた手を振り解こうとしてみる。外れない。先輩の方が手も大きいし、力も強い。
「どうして? せっかくだし一緒に食べよう、チョコレート」
「あんま好きじゃないんです」
「へえ、そうだったっけ」
 目の端で見た、先輩が怪訝そうにしていた。知らなかったっけ、とあたしも思う。もっとも、あたしの顔を見ればチョコレートが好きじゃない理由なんて一目瞭然だろう。
「あたしとチョコレートって、似てませんか」
 ホワイトデーに欲しいものは、美白効果のある新作ファンデ。
 そんなあたしが、チョコレートの色なんて連想しようのない色白の先輩に告げる。
「だからチョコレートは嫌いです。バレンタインも好きじゃないです」
 先輩が眉を持ち上げる。すかさず尋ねてくる。
「バレンタインが好きじゃないのに、どうして俺にチョコを?」
 もっともな質問だった。
 先輩が好きだからです、って答えるのが可愛い子のベストアンサー。でも可愛くない奴はこう答える。
「何か、だから、今日はもう駄目なんです」
「駄目って、何が」
「緊張し過ぎて、溶けちゃいそうなんです。バレンタインデーとか、慣れてないから」
 さっきから足ががくがくしていた。寒さのせいだろうか、それとも。

 気を張らなくちゃ、いつもの自分が保てそうになかった。
 緊張していた。好きな人の為にチョコレートを用意した初めてのバレンタインデー。今日中に渡してしまわなくちゃいけないと思って、先輩の姿を探した。五時限まで粘って探した。見つからなくて焦った。
 ばりばりに緊張して歩いていたせいで、この道をやってくる先輩の姿に、先輩よりも早く気付いてしまった。
 やっぱり、バレンタインデーなんて柄じゃなかった。見慣れた顔の人にお菓子を上げるだけなのに、どうしてこんなにどぎまぎするんだろう。オーバーなくらいに喜んでもらって、どうしてこっちまでにやけてしまうんだろう。

「緊張してるって?」
 先輩は笑っている。あたしの頭を、ぽんぽんと叩く。
「可愛いなあ、君は」
「……可愛くないです」
「何言ってんの、可愛いよ。本当にチョコレートみたいだ」
 色白じゃないあたしの頬にも触れてくる。先輩の指先は冷たい。あたしの頬が熱いんだろうか。よくわからない。でも、チョコレートみたいに見えるのかもしれないな、と思う。
 先輩が少し屈んだ。耳元に囁きかけてくる。
「つまり、チョコレートと一緒に持ち帰ってくれってことだろ?」
 この人はあたしみたいな可愛くない子相手に、よくもそんな、歯の浮くような台詞を。
 違いますよ、と言い返すのが僅かに遅れて、その時にはもう、先輩はあたしの手を捕まえたまま歩き出していた。ざくざくと、力強い足取りで、チョコレートカラーの雪解け道を。
 一方あたしの足は、震えるばかりで上手く歩けない。先輩に引きずられるようにして進んでいく。
「ちょっと、先輩! ゆっくり歩いてくださいよ!」
 自棄気味に怒鳴ると、思いのほか真剣な顔が振り向いた。
「急がないと駄目だ。君が溶けたら困る」
 もう既に溶けかかっている。慣れないことをするから、すっかりどろどろになってしまった。締まりのない顔だ、なんて先輩のことは言えない。さっきからうれしくて、どぎまぎしていてしょうがない。
 あたしがずっと目を合わせずにいたこと、先輩は気付いていたんだろう。隠そうとしていたこの表情も見つけていたのかもしれない。
「先輩!」
 せめてもの仕返しに呼びかけてみた。
「今日は、ちゃんと靴脱ぐまで待っててくださいね」
 先輩は答えなかった。代わりにもう一度振り向いて、赤くなるとわかりやすい顔を見せてくれた。

 結論から言うと、先輩はチョコレートよりも先にあたしに噛り付いた。
 靴を脱ぐまでは待っていてくれたけど、脱いで、上がってから、リビングへ行く前に抱き締められた。
「溶けかかってる君も可愛いよ」
 唇を離してから、そう囁かれた。
「むしろ、いつもこうだと扱い易いんだけどな」
 可愛げのなさはいつも通りですよ、と言い返す余裕はもうなかった。溶けかけのあたしはそろそろ歩けない。このまま抱きかかえて連れて行ってくれないかな、と先輩の腕の中で思っている。
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