Tiny garden

白と黒と赤

 先輩が、道の真ん中でびくりと立ち止まった。
 あの人は色白だから、赤くなるととてもわかり易い。今も、降り頻る雪の中に立ち尽くしたまま、耳の先まで上気しているのが見える。自分のアパートの数十メートル前で、待ち伏せしていたあたしを見つけて、まごまごと足踏みをしている。
 あたしはコートのポケットに手を突っ込んで、何となく溜息をつく。
 やっぱり色が白くなくてよかった。あんな風にされたらこっちだって照れずにはいられない。以前と比べてもあからさま過ぎる。とりあえず表情を変えないようにしておく。
 二人で過ごした夜から、ちょうど一週間が経っていた。

 距離を置いて見つめ合う。
 その間、ほんの数秒。だけど随分と長く感じたのは、言葉を探していたせいかもしれない。結局あたしは何も言えず、先輩も何も言わなかった。数秒後、意を決したらしい先輩がこちらへ歩き始めた。
 積雪をものともしないスピードで、やがてあたしの目の前に辿り着く。
 先輩の部屋のドアの前、あたしは瞬きだけを繰り返していた。言葉は未だに見つからない。気まずいと思うし、気まずく感じる自分の心を鬱陶しいとも思う。あたしと先輩はそんな仲ではないはず。もっと気楽に接していられたはずだ。沈黙の間も冷静でいようと心がけた。
 視線を彷徨わせたのもやはり、ほんの数秒。その後で先輩は呼吸を整えるように一つ、白い息をつく。
「ずっと、待ってた?」
 尋ねる口調が深刻そうだった。以前ならもっと軽く言ってくれたのに。
 あたしが黙って頷くと、先輩は気遣わしげな表情になる。
「そうだろうと思った、頬っぺたが真っ赤だ」
 言ってからあたしの頬に触れようとして、すぐにはっとした。慌てて手を引っ込めている、先輩の方が赤かった。
 過剰反応だ。あたしはぎこちなくならないように首を竦めた。
「すみません、部屋まで押しかけてきちゃって」
「別に謝ることじゃない。いつものことじゃないか」
 いつものこと。そう先輩は言ったけど、あたしたちが既に『いつも』とは違う雰囲気でいるんだから説得力がない。
 あたしも、いつもよりは素直になれそうだった。
「会いたかったんです」
 そう告げたら、たちまち目を逸らされた。声が気まずげに続く。
「その……連絡しなくてごめん。電話しようかどうか結構迷ったんだけど」
「してくださいよ」
 ――愛想尽かされたのかと思った。という本音は口にしない。以前なら一週間くらい連絡を取り合わないことも珍しくなかった。お互いそれほどマメではない性質で、向こうが会いたくなったら電話をくれるし、こっちが会いたくなったら部屋まで押しかける。そんな付き合い方で十分だった。普通の女の子みたいに会いたい会いたいとせがむ気にはなれなかった。可愛い甘え方なんて、色黒のあたしじゃ似合わない。
 そもそも、あたしも先輩も子どもじゃない。毎日会っていられるほど暇でもない。同じ大学にいても顔を合わせるのはサークルくらいで、そのサークルも先輩と付き合うようになってからは真面目に出席していない。そんな感じだから、下手をすれば一月会わないことだってあった。それでも寂しいとは思わなかった。
 なのに、この一週間はやけに長く感じた。先輩が連絡をくれないかと毎日考えていた。こっちから押しかけてやろうかと毎日逡巡していた。連絡をくれないことに落ち込んだ。そして落ち込む自分が鬱陶しいと思った。
 会いたかった。
 一週間前のこと、忘れられなかった。だから。
「すぐに連絡したら、何か……」
 先輩は言い難そうに声を落とす。
「下心丸出しって感じがするかなと、思って」
「……そうでしょうか」
 苦笑しつつ、胸の奥でほっとする自分が悔しい。何だ、そんな理由か。先輩らしいけど。
「連絡くれない方がそう思いますよ。あたし、用済みなのかと考えちゃいました」
「そんなことない」
 冗談のつもりだったのに。語気を強めて言い返されて、少し驚く。先輩が声を荒げるなんて珍しい。
 あたしが虚を突かれている隙に、先輩はコートのポケットから鍵を取り出し、手早くドアを開けた。
「とりあえず入って、寒いから」
 急き立てる言葉に更なる気まずさを覚えつつ、あたしはそれに従った。
 やっぱりいつもと違う。先輩もあたしも普通じゃない。

 玄関に入り、背後でドアが閉まった瞬間。
 抱きすくめられた。後ろから。
「わ、先輩っ!?」
 あたしはブーツを脱ごうと屈んでいたところで、思わず声を上げてしまった。先輩は何も答えず、不安定な姿勢のままでぎゅうと抱き寄せられた。振り向く隙も与えられずに視界がぐるりと転回する。肩を押しつけられて、背中が冷たいドアに当たった。慣れない目で見る薄暗い視界の中央、先輩の顔がすぐ前にあった。
 赤い頬の、色白の、だけどいつになく険しい先輩の顔が。
 唇を奪われた瞬間は、素直に目を閉じた。抗う気もなかったし、望んでいない訳でもなかった。ただ背にしたドアが本当に冷たかった。寄り掛からずにはいられないから余計にそう感じた。触れてくる唇はかさついていたけど、温かった。対照的に舌先は熱かった。
 唇が離れて、お互いについた息が白かった。ここも寒い。外と変わらないくらい。
「連絡、したくなくてしなかった訳じゃないよ」
 荒い呼吸の先輩が言った。
「迷ったんだ。君に電話を掛けようかどうか。すごく迷った。君が帰ったその日のうちから迷っていた」
 笑ってやろうと思ったのに、笑えなかった。
 向けられた眼差しが真剣過ぎた。
「あの日から、君のことを考えない日はなかった。毎日のように考えてた。夢にも見た」
 歯の浮くような台詞も、いつもなら呆れてやることも出来たのに、出来なかった。ただただ享受するより他なかった。顔に掛かる吐息の熱さも同様に。
「でも……日も経たないうちから会いたいって言ったら、それこそ見え透いた態度のような気がして」
 あたしの肩はまだドアに押しつけられている。先輩の手は白いのに、とても力強かった。
「どんな顔をして会えばいいのかもわからなかった。いつも通りにしていられる自信、なかったから」
 さっき、顔を合わせた時からそうだった。先輩もあたしもまるでいつも通りではなかった。お互い様だとしても、そういう雰囲気が気まずくて、鬱陶しかった。
 こんなのって、まるで恋人同士みたいだ。
 事実、恋人同士なんだけど。――改めて認識する。あたしたちはとっくにそういう関係だ。大人だからとか、似合わないとか、色の白さ黒さなんかでは誤魔化し切れなかった。言いたいことも言わないで、勝手に迷ったり悩んだりして、それで大人だなんて言えるだろうか。恋人同士だって言えるだろうか。
「用済みなんてことないよ」
 先輩はまだ強い口調で続ける。
「会いたかった。君が来てくれると思わなくて、とっとと連絡しなかったのを後悔してるくらいだ」
 あたしだってそうだ。自分から会いに来ればよかった。もっと早くに。似合わないなんて思わないで、会いたいってせがめばよかった。可愛くなくても、ちゃんと甘えればよかった。
 こんなに気まずくなっても、会えてうれしいって思ってる。鬱陶しい気まずさの中でも思う、好きになった人が先輩でよかった。
「会いたかったです、あたしも」
 二度目の素直な言葉がついて出た。
「新記録ですよね、一週間で会いに来るなんて。あたしにしては意地を張らなかった方だと思いません?」
「確かにね」
 先輩が頷く。ようやく少し、笑ってくれた。
「君のことだから、放っといたらずっと会いに来ないんじゃないかと思った。いつも、素直じゃないし」
 それであたしも、つられるみたいに笑った。
「あたしもこの一週間は、先輩のことばかり考えてました」
 毎日考えてた。毎日迷ってた。今思うと馬鹿みたいだ。
「今度からは、もっとたくさん会うようにしませんか?」
「俺は構わないよ、君さえよければ」
 落ち着いた返答の割に、先輩の表情は嬉々としていた。うれしい時も照れた時も気まずい時も、いつだって先輩の頬は赤い。あたしといる時はずっとそうなのかもしれない。
「じゃあお願いします。もっとたくさん連絡をください」
 あたしの懇願には、キスで返答がされた。今度はごく短いキス。それでも律儀に目を閉じてみる。
 玄関は寒くて、吐く息が白くなった。
「先輩」
「……ん。何?」
「そろそろ、靴を脱いでもいいですか」
 尋ねたら、白い頬は更に赤くなった。慌てたように手を離すそぶりがおかしい。ともあれ、脱ぎかけのブーツで立っているのは辛くて、あたしは素直に先輩の肩を借りた。
 大体、玄関先で抱き合ってるのは酔狂じゃないかと思う。靴を脱いで、部屋に入るまで待ち切れないなんて。だけど現にそうだった。一週間も待ったんだから、これ以上待てるはずがなかった。

 一週間ぶりの先輩の部屋は、今でもほんのちょっと気まずい。いろいろと思い出してしまうからかもしれない。
 でも、気まずいからって黙り込んでいるのもよくない。そのくらいなら恋人同士らしく、包み隠さず打ち明ける方がいい。だからあたしは単刀直入に告げた。
「先輩、今日も泊めてもらっていいですか」
 酔っ払ったみたいに赤い顔をした先輩が、途端にもごもごと声を発する。
「い、いいけど」
 この間とは違う答え方。そういう態度を取られると、こっちが照れる。
「別に、下心があってもいいですよ」
 ぎこちなくならないように応じたつもりだったけど、そう告げたら、先輩はじっとこちらを見た。それから何かを追いやろうとするみたいに溜息をつく。
 次の瞬間、抱き寄せられた。もちろんあたしも抗わない。
 耳元で、先輩が言う。
「そんなに必死になって言う台詞じゃないだろ。言われなくたって、こっちも、帰す気なんかないよ」
 あたしはその顔を見上げて反論した。
「……必死になんてなってませんよ」
「素直じゃないな。頬っぺた、真っ赤だ」
 照れ笑いの先輩が、わざわざあたしの頬に触れてくる。白い手はひやりと冷たかった。あたしは出来る限り冷静でいようとしたけど、出来てなかったみたいだ。
 大体この先輩は、色黒のあたしの頬の赤さに、どうして気付けるって言うんだろう。
 ――それも恋人同士だから、なのかな。
▲top