Tiny garden

それだけは言わない(4)

 背の高さはこの場合関係ないのだろうけど、やっぱり私と彰吾くんは見ているものが違っていた。
 私は本当に近くの、目の前にある事柄しか見えていなくて、好きな人と一緒にいられたらそれだけでよかった。先のこと、例えば高校を卒業してからとか、あるいは大人になってからのこととか、そういう未来をまるで考慮していなかった。だから、いざ離れてしまうと決まってからは戸惑うだけで、前に進めなかった。どうやって残り時間を過ごそうか、そればかりを考えていた。
 彰吾くんは遠くを見ている。目の前のことだけじゃなく、ずっとずっと先の事柄を考えている。少し離れてしまっても、今までみたいに隣にはいられなくても、気持ちだけは一緒にいられるように。私が見えていなかった残り時間のその後のこともちゃんと考えていたし、一緒にいたいと思ってくれていた。私はその想いに応えたい、必ず。
 離れても、並んで歩けない時間も、気持ちはいつも彰吾くんの傍に。――それから彰吾くんを心配させないように。恋愛以外のところでも。

 きっとすごく心配させてしまったんだろう。クリスマスイブにくれると言っていたプレゼントを、彰吾くんは終業式の日に持ってきてくれた。
 その頃には私もお母さんに謝り直して、ひとまず受験勉強に集中する約束を改めてしていたから、気遣ってくれたのは確かにうれしかったし、少し申し訳なくも思う。もし私が受験生らしくないことを言い出さなかったら、イブの日には五分間くらい、時間を貰えていたかもしれない。今となっては多分、無理。
「俺も早く渡したかったから」
 彰吾くんはそう言って、私のごめんねの言葉を封じてしまった。だから謝るのは止めて、精一杯、お礼だけを告げる。
「ありがとう」
 終業式のあった日。帰り道は普段よりも明るく、真昼の日差しが暖かかった。時折冷たい風は吹いたけど、彰吾くんが鞄を開けて紙包みを取り出す間も、素直にどきどきしながら待っていられた。
 手渡された包みは薄い紙袋で、中身は厚手の柔らかい生地みたいだった。袋の表面にはスポーツ用品店の名前だけがシンプルに印字されている。歩きながら袋を開くと、手のひらに乗るサイズのタオル地が出てきた。
 カーキ色に白いラインの入った小さな布。私は最初、ミニサイズのハンドタオルなのかと思った。
「それ、リストバンド。手首にはめる奴」
 眺めているうちに説明されて、ようやくわかった。こういう品物を自分で買ったことはなかったから、彰吾くんが選んでくれたのがすごく新鮮に思えた。
「身に着けるものの方がお守りっぽいかなと思って」
 彰吾くんが控えめに笑い、私はくすぐったさに首を竦める。
「うん。きっと受験勉強もはかどるよ、ありがとう」
 それから、ちょっとだけ照れながらも、試しに貰いたてのリストバンドをはめてみる。私の手首の辺りに止まったカーキ色の生地は、柔らかく肌触りがよかった。プレゼントだからだろうか、こうして初めて目にするものを身に着けていると、何だか自分の手じゃないみたいに見えてくるから不思議。
 本当に頑張れそうな気がした。彰吾くんの気持ちがここにあるから。
「気に入った?」
 尋ねられて、大きく頷いた。
「とっても。素敵な色だね」
 それで彰吾くんはほっとしたのか、見てわかるくらい表情を和らげる。
「そう言ってもらえてよかった。理緒にはちょっと地味かなって、心配だったんだ」
「ううん、いい色だと思うよ。服にも合わせ易そうで」
「ありがとう」
 くれたのは彼の方なのに、なぜかお礼を言われてしまった。私が思わず少し笑うと、彼はコートのポケットに手を差し込んですぐに何かを取り出してみせる。
 開いた大きな手のひらの上、見覚えのあるリストバンドがあった。
 カーキ色だった。
「お揃い、にしてみた」
 ぼそっと呟いてから、彰吾くんはそのリストバンドを自分の手首に通す。フリーサイズなんだろうか、生地は伸びながらがっしりした手首に留まった。それからすごく恥ずかしそうな顔を向けてくる。冬空の下らしい赤い頬を、私も落ち着かない思いで眺めていた。
 無言のままでしばらく歩いた。
 静かな住宅街の一角にある、いつもの分かれ道が見えてきた頃、ぽつりと尋ねられた。
「こういうのって、変?」
「う、ううん。全然」
 変じゃない。と思う。……いいよね、お揃いのものを身に着けてたって。
「それならいい」
 彰吾くんは言って、ためらうような間を置いてからまた、
「じゃあ思い切って、もっと変かもしれないこと、お願いするけど」
 そういえば、プレゼントの代わりに頼みがあるって言っていたっけ。どんなことだろう、三叉路の真ん中辺り、私がどぎまぎと立ち止まった時、彰吾くんも足を止め俯き加減で続けた。
「お互い受験が終わって、進路が決まって、もうじき離れるってことになったら」
「うん」
「その……理緒のしてるリストバンドを、俺にくれないか」
 視線が横に動き、私を見下ろしてくる。真剣な眼差しをしている。
「代わりに俺のを、理緒に渡すから」
 真面目な口調でそうも言った。
「そしたら、離れてる間も繋がっていられるだろ?」
 私は驚いて彼を見つめ返しながら、でも、変なことじゃないって繰り返し思う。
 好きな人とは繋がっていたい。その為の手段として、こういうのもいいんじゃないかなって。本当に、彰吾くんの気持ちを貰えるんだから、うれしい。
 だからもちろん、頷いた。

 それから。
 リストバンドのご利益があったからか、プラス受験勉強を二人で、離れていても一緒に頑張れたお蔭か、私と彰吾くんは第一志望の大学にそれぞれ合格することが出来た。
 晴れて『受験生』じゃなくなった私たちは、十二月の約束通りにリストバンドを交換した。もうじき本当に離れてしまうけど、彰吾くんはこの街を出て行ってしまうけど、こうして繋がっていられるから大丈夫。目の前で外されたばかりの、少しだけ体温の残ったリストバンドを受け取りながら、私は強くそう思った。
 ところで、彰吾くんは当たり前だけど私よりも手首が太い。交換したものをはめてみたら、私の手首には少し余ってしまっていた。肘の手前で留まるカーキ色の布地を見つめていたら、やがて彰吾くんが小さく笑った。
「ぶかぶかだった?」
「うん。でも、大丈夫だと思うよ」
 気持ちの込められた大切なプレゼントだ。多少ぶかぶかだろうと気にしないつもりでかぶりを振ると、言いにくそうに付け加えられた。
「俺としては、生地がちょっと伸びてた方が、貰い物っぽい感じがするかなと……」
「どういうこと?」
「だからその、いかにも男から貰ったんだって、見た目でわかりそうだろ」
 いつもより早口気味のその言葉に、私は改めて肘の手前のカーキ色を眺める。明らかに私に合わないサイズのリストバンドを、誰かが見て、それを男の子からのプレゼントだって思うだろうか。格好つけた言い方をするなら、恋人から贈られたものなんだ、って思ってもらえるだろうか。
 だとしたらまるで結婚指輪みたいだ――そんなことを一瞬でも考えてしまった自分に照れた。
「洗ったら縮むだろうと思うけど」
 彰吾くんは、どきっとするほど真剣な顔で続ける。
「その時はまた交換すればいい。……そのくらい、何度でも帰ってくるから」
 直後、私はうんと頷くべきか、無理しなくていいよと答えるべきか迷ってしまった。彰吾くんにはどこへ行っても頑張ってもらいたいし、新生活や大学での勉強の邪魔にはやっぱりなりたくない。それに、離れてしまっても大丈夫だって信じている。
 でもたくさん会いに来てくれたら、それはもちろんうれしいし、幸せになれる。彰吾くんの大学生活に支障のない程度には、会えたらいいなとも思う。
 どちらにしても寂しいとは言わない。それだけは言わない。
 私もこれからは未来を見て、もっと先のことを見据えて、その為になる言葉だけを口にしていたい。目の前のことしか見えない自分じゃ嫌だ。寂しいなんて絶対、言わない。
 代わりになる言葉はもう知っている。
「――あのね、彰吾くん」
 彰吾くんが面を上げる。がっしりした手首には、さっきまで私のしていたリストバンドがある。それに大切そうに片手を添えた彼と、三十五センチメートルの距離を置いて目が合った。
 声がかすれて、彼に聞こえないことがあっては困る。聞き返されたら今でも恥ずかしい。だからありったけの勇気を振り絞って告げた。
「大好きだよ、これからも」
 聞こえた、と答える代わりに彰吾くんははにかむ。落ち着いた声で言ってくれる。
「俺も理緒が好き。これからも、ずっとだ」
 言わないことの代わりに、未来に続く約束をした。
▲top