Tiny garden

それだけは言わない(1)

 いつから、なのかは私自身わかっていなかったけど、いつの間にか私も『受験生』になっていた。もちろんクラスの皆も、彰吾くんもだ。
 高校生活最後の文化祭が終わると、教室の雰囲気ごと受験モードに移り変わってしまって、ぴりぴりとした緊張感と逸る気持ちとがそこらじゅうに漂っている。友達との会話も受験勉強についてたびたび話題に上るようになったし、担任の先生はSHRの度に焦らせるようなことを言う。センターまであと何日だから予習復習も体調管理も万端になとか、そんな風に。
 しっかりしている人は一年生のうちから『受験生』の気分でいるというけど、私はなかなか実感が持てないままのんびり構えていたから、ここ数ヶ月の変化が急激なものに感じられた。追い立てられるように受験勉強に本腰を入れて間もなく、お母さんからは休日の外出禁止令が出された。覚悟はしていたけどちょっと辛かった。
 それで秋の終わり以降、彰吾くんとは学校と、登下校でしか顔を合わせていない。たまにお母さんの目を盗んで電話を掛けたりもした。だけど私も彰吾くんもあまりお喋りな方じゃないから、ちゃんとした用件がないと話題が続かなかったり、言葉に詰まったりする。二人で会う時は黙っている時間も必要だって思うのに、電話だと料金を気にしてか、上手くいかない。
 でも、受験生なのは私だけじゃない。彰吾くんだってそうなんだから、会えないって理由だけで落ち込んではいられなかった。わがままを言って困らせたり、迷惑を掛けたりしないようにと思っていた。彰吾くんにも受験、頑張って欲しいから。

 ただ、会えない間でもお互いの為、一緒にいられる時間を確保する工夫はしていた。些細なことだけど。
「理緒」
 放課後になると、彰吾くんは真っ先に声を掛けてくれる。
 まだクラスメイトの大勢いる教室で話しかけられても、昔みたいに恥ずかしく感じることはなくなった。皆の目をそれほど気にしなくなった、と思う。今でも面と向かって冷やかされたら照れてしまうし、全然知らない子に彰吾くんとの話題を振られて戸惑ったことも何度かあったけど、そういう時でも嫌な気持ちにはならない。むしろ誰かの意識の中でも彰吾くんと繋がっていられるのが、ほんのちょっとうれしかったりする。
「ね、一緒に帰れる?」
 私も、教室の中でも彰吾くんと話が出来るようになっていた。大きな声は出せないけど、ちゃんと拾ってもらえる。私たちの身長差は以前と変わらず三十五センチ、でもお互いの声は取り落とさないように気を付けている。
「帰れるよ、でも」
 彰吾くんは一度頷いたけど、その後で申し訳なさそうに言い添える。
「今日は早く帰らなくても大丈夫か? 俺、先生に呼ばれてるんだ」
「少しくらいなら大丈夫」
 すぐに答える。お母さんはいつも『寄り道しないで帰ってきなさい』と言うけど、寄り道じゃないから平気。間違ってないよね。
「多分、十五分くらいで済むと思うんだけど」
 苦笑いを浮かべる彰吾くん。
「あの先生、話長いからな。俺も脱線させないように頑張ってみる」
「うん。待ってるよ、私」
 本当言うと、どのくらい掛かっても待っていたかった。受験勉強もいよいよ佳境に入った冬休み前、二人でいられる時間はとても、とても貴重だった。彰吾くんと一緒にいる為なら少しくらいの待ち時間、どうってことない。このまま行けば冬休みも、クリスマスだってないんだから。
「ありがとう」
 極めて冷静な彰吾くんの表情が、それでも少し明るくなる。
 それから私たちはクラスの友達に挨拶をして、連れ立って教室を出ると、先生の待つ進路指導室へと向かった。
 一階の校舎の隅、廊下の突き当たり。暖房の入らない廊下はちょうど生徒玄関からの風が吹き込む位置にもあって、帰る生徒が出て行く度に、木枯らしみたいに冷え込んでいた。
 私はコートを着ていたけど、進路指導室前の廊下に辿り着いた時、吐く息が白くなったのにはびっくりした。確かに今は十二月だけど、まだ学校の中なのに。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
 引き戸の鍵が開いていることを確かめた彰吾くんが、囁き声でそう言った。そして教室で着込んだはずのコートをそこで、するりと脱いだ。被せるように私の肩に掛けてくれた。
「あ、あの、コート……」
 突然のことに慌てていれば、困ったように笑いかけられる。
「寒いから。それ、着てて」
「でも、彰吾くんは」
「平気。中は暖房入ってる」
 簡潔な言葉を穏やかに告げて、彰吾くんは進路指導室へと入っていった。失礼します、という挨拶の後で扉が閉まると、廊下は静かになる。遠く、生徒玄関の喧噪が聞こえる。
 吐く息は白い。でも、暖かい。
 肩に掛けられた――掛けてもらったコートをそっと引き合わせてみる。肩幅も身幅も、袖の丈も全部大きい。私が頭のてっぺんからつま先まですっぽり隠れてしまうようなコートを彰吾くんは着ている。すごいな、と思う。
 彰吾くんはすごい人だ。背が高いだけじゃなくて、いつでも穏やかで優しい。普段は難しいことを言ったりしないけど、頭のいい人なんだってこともわかっている。英語の歌も難なく聴きこなしているから。
 私は彰吾くんのそういうところを素敵だなと思っていたし、純粋に憧れてもいた。こんな風に私も穏やかでいられたら、人に優しく出来たら、頭がよかったらいいのになって。図書館で本を取ってもらってからずっと、私も彰吾くんの為に何か出来ないかなと思ってきたけど、私のすることはなかなか優しくはなれず、時々ただのお節介みたいになる。
 だから、受験勉強では。せめて邪魔にならないようにしようと思って。

 ――志望校、この街じゃないんだ。
 彰吾くんからそう打ち明けられたのは、三年生に進級してすぐのことだった。
 この街はとびきり都会という訳じゃないから、ここに留まったまま上の学校を目指すには条件が乏し過ぎた。クラスでも半分以上の子が市外の大学を受けると聞いていたし、そのうちで県外を選択した子も決して少なくはなかった。想像は、十分につくべきことだったと思う。
 私の志望校は市内の大学。両親からは『出来れば』家を出なくて済む進学先をと熱望されていた。私自身、希望の学科さえ受けられればいいとのんびり考えていたくらいだったから、自然と近場で結論が出た。今の成績を維持出来れば難しくないと先生にも言われて、やっぱり気が緩んでいたんだろう。
 彰吾くんが選んだ第一志望は隣の県にある大学だった。もし志望通りに受かれば家を、この街を出て行くことになると言っていた。市内の大学は受けないんだ、とも。つまり志望先のどこを通っても彰吾くんはこの街を出て行くし、ここへ留まるつもりでいる私は一緒には行けない。
 打ち明けられた時はショックだった。離れてしまうことももちろんだけど、その話をしてくれた彰吾くんが落ち着き払っていて、寂しそうにも物憂げにも見えなかったことが余計に。
 ――大体、電車で三時間ちょっと。遠距離恋愛って言えるほどの距離でもないけど。
 いつも極めて冷静な彰吾くんの表情が、その時は少しだけはにかんでいた。二人きりの彼の部屋で、ものすごく慎重に抱き寄せられてから、三十五センチの距離をほんの数センチまで縮めて、言われた。
 ――もし受かったら、少し離れることになるけど……大丈夫だよな? 俺、浮気なんてしないから。
 私はその言葉にもショックを受けた。彰吾くんの口からまさか浮気なんて単語が出てくるとは思わなかったし、二年ほど一緒にいて、そんな不安や疑いを抱いたことは一度としてなかった。彰吾くんはそういうことをする人じゃない。でも距離を置いて、一緒にいられなくなったら、そういうことも考えてしまうようになるんだろうか。なりたくない。
 そして、大丈夫だよなと問われた以上、私も大丈夫って答えたかった。
 大丈夫。
 わがままなんて言わない。困らせたり、迷惑を掛けたりもしない。寂しいとも言わない。彰吾くんが平気なら、私だって平気でいたい。
 打ち明けられた春のうちは、先のことをあまり考えないようにしていた。昔はよくそうしていたように、目を逸らしていたかったのかもしれない。夏休みが終わり、文化祭が終わり、受験生であることを強く意識するようになってから、私は残り時間をも気にするようになっていた。なるべく一緒にいたかった。デートは出来なくなったし冬休みもクリスマスもないまま過ごすんだろうけど、だからこそ彰吾くんといられる時間は大切にした。
 言えない気持ちは、こればかりは、絶対外へは逃がさない。

 十五分を過ぎても寒くなかった。
 暖かい二十分間の後で、ようやく進路指導室の扉が開いた。
「お待たせ、理緒」
 現れた彰吾くんは後ろ手で戸を閉めながら、物珍しそうな目で私を見る。初めて見たという訳でもないのに。
「やっぱり、大きかったな。ぶかぶかだ」
 脱いで返そうとする私を押し留めて、大きなコートごとしげしげと眺めてくる。その視線にくすぐったさを覚えた。
「お蔭で暖かかったよ。ありがとう」
 なかなか脱がせてもらえなくて、先にお礼を言ったら、すごくうれしそうに笑ってくれた。
「こちらこそ」
 笑い方もその言葉も、彰吾くんは優しい。
 私も同じように優しくありたかった。
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