Tiny garden

三十センチメートルの距離

 買い物を終えてスーパーから出ると、空には丸い月が出ていた。
 煌々としているお店の前と、薄闇の広がる駐車場とを見回して、私は少しの寂しさを覚える。
 彰吾くんはまだ、来ていない。
 今日は定時に上がれそうだからと、駅前のスーパーで待ち合わせをしていた。一緒に夕ご飯の買い物をして、それから一緒に帰るつもりでいた。それが『ちょっと遅れる』と連絡を貰ったのついさっきのことで、だったら買い物は済ませておこうと思い、そうした。仕事帰りの格好で買い物袋を提げて、お店の入り口、自動ドアの脇に立つ。彰吾くんが来てくれたら、すぐに目につくように。
 ガラス戸を透かした店内の光が、私の足元に影を作り出す。
 それほど長くない影。昔と比べて、それでも五センチは伸びているはずの影。
 昔も、こんな風に彼を待っていたことがあったっけ。――放課後の公園で自分の影を見つめていた記憶がよみがえる。あれは高校時代、まだ彼と付き合い始めたばかりの頃だった。あの頃の私は酷く子どもじみていて、そして大人という存在に憧れの念を抱いていた。その気持ちの強さはむしろ盲目的だった。今となってはおかしいくらいだ。

 ハイヒールをごく普通に履くようになった。
 だから私は、大人になったのだと思う。
 子どもの頃の感覚なら、ハイヒールは大人の、お姉さんのものだった。背の低かった私は、背が高くなれるハイヒールにとても憧れていた。高くなれると言っても大したものではなくて、せいぜい五センチ目線が上がるくらいだったけど、その五センチさえありがたく思えていた。でも、お姉さんが履くような靴が自分に似合うとも思っていなかったし、うちの母は服飾品に関しては大変厳しい人だったから、それこそ大学に上がるまで縁もなかった。
 今の私は、毎日のようにハイヒールを履いている。いつだったか熱に浮かされながら購入した雑誌みたいに、『大人のお姉さん』の格好をしている。スーツを着て、化粧をして、結婚指輪も身につけて、ハイヒールをこつこつ言わせながら街を歩いている。そういう自分をごく当然の現実として受け止めていて、あの頃のような憧れや畏れはまるで存在していなかった。大人でいることにすっかり慣れてしまった。そして、なってみてわかったけど――大人というのも案外、大したことないものだった。
 そして五センチのヒールもまた、思っていたほど大したものではなかった。

「――理緒!」
 名前を呼ばれてはっとする。
 顔を上げれば、昔と変わらず背高の彰吾くんが駆けてくるのが見えた。一瞬だけ重なった高校時代の面影は、すぐに最近の記憶へと取って代わる。彰吾くんも私と同じく、すっかり大人になっていた。ネクタイを締めていようと、左手の薬指に指輪をしていようと何もおかしくない。
 私は軽く手を振った。買い物袋を掲げてみせると、目の前で立ち止まった彰吾くんが、何だか済まなそうな顔をする。
「遅くなってごめん」
「気にしないで、そんなに待ってないよ」
 一緒に帰れるだけでもうれしいくらいだ。私は笑って、少しくたびれた様子の彼を見上げた。大分長い距離を走ってきたのか、額に汗を浮かべていた。私がハンカチを取り出せば、彰吾くんもちょっと笑って身を屈める。彼の額を押さえるように汗を拭いてあげる。
「ありがとう」
 彼はそう言うと、私のハンカチをそっと攫って、自分のスーツのポケットにしまった。その後で私の手から、今度は買い物袋を持っていってしまう。
「俺が持つよ」
 遠慮をしても意味のないことはもう知っている。だから私も素直に告げる。
「ありがとう、彰吾くん」
「うん」
 ほんの少し彼が笑んだ。そして空いた方の手で、私の手を取ってきた。大きな手に包まれると、今はとても温かい。
「帰ろうか、理緒」
「そうだね」
 頷き合い、歩調も合わせて家路に着く。手を繋いだ二人分の影は、継ぎ目のないままスーパーを離れ、ゆっくりと静かな夜道へ伸びていく。

 駅前のスーパーから、二人で暮らす部屋までは徒歩で十分程度。
 急ぐ必要もないならのんびり歩く。私のスピードに、彰吾くんはいつも合わせてくれる。スニーカーとローファーが、革靴とハイヒールに変わった今も、それだけはまるで変わらない。
「今日の夕飯、何?」
 歩きながら、彰吾くんが私に尋ねた。見下ろす視線は三十センチメートルの距離。私はその距離越しに答える。
「カレーにしようと思って。どうかな」
「あ、いいな。ちょうど食べたかった」
「すぐ作るからね。ご飯たくさん炊いてあるから、たくさん食べて」
「そうする」
 彰吾くんが笑う。背が高くて、うんと首を伸ばして見上げる必要があった笑顔は、ハイヒールくらいじゃそうそう届きもしなかった。
 それでも、初めてハイヒールを履いた時はうれしかった。五センチでも彼に近づけたことがすごくうれしくて、わざわざ遠回りしてまで、長い距離を並んで歩いてもらった。私を見下ろす彰吾くんが『いつもとそんなに変わらないよ』と言ったから、そのうち私もハイヒールの高さに慣れてしまったけど。
 憧れていた頃は確かにあった。
 私より三十五センチも高いクラスメイトに。彰吾くんに。
「あ」
 ふと、彰吾くんが声を上げた。足は止めず、軽く口を開けて空を見る。視線の先には夜空と月。ぴかぴかの丸い月が出ていた。
「今夜は満月か」
 しみじみとした言葉の後で、更に情感こもった呟きが続く。
「満月ってチーズに似てるな。外国にあるような、あの丸いやつ」
「……そうだね」
 私は笑いを堪えるのに精一杯で、それしか答えられなかった。彰吾くんはよっぽどお腹が空いているみたいだ。家に着いたら大急ぎで晩ご飯の支度をしよう。まずはジャガイモの皮むきから。
「今ならつまんで食べられそうな気がする」
 彰吾くんは買い物袋を持った方の手を、夜空へと真っ直ぐに伸ばした。がさりと袋の揺れる音がしたけど、その手は月には届かなかった。私から見たら、もしかしたらと思えるくらい彰吾くんの背は高いのに。
「月までって遠いよね」
 呟いて、私は視線を彼へと移す。ちょうど彼も私を見ていて、目が合った。極めて冷静な眼差しは月よりも近いところにある。現にちゃんと、手が届くことも知っていた。
「だからもし月がチーズだったら、本当はすごく大きいんだと思うよ」
 きっと、つまんで食べられるようなサイズじゃない。ここからはそんな風にしか見えないけど、月までの距離はすごくすごく遠い。だから本当の大きさはわからない。
 そう告げると、彰吾くんももっともらしい顔をする。
「かもしれないな。だとしたら、俺一人じゃ到底食べ切れない」
「半月にもならないうちにお腹いっぱいになっちゃうね」
「それは困る、理緒の作ってくれるカレーが入らなくなるから」
 肩を竦めた表情が、好きだな、と思う。今でも首を伸ばして見上げている顔。でも三十五センチも三十センチも、どちらにしたって大した距離ではなかった。
 ちゃんと届いた。私が俯かずに、真っ直ぐ、胸さえ張っていれば。
 背が小さいことに引け目を感じる必要なんてなかった。大人に憧れて、何とも言えない焦燥感を抱いている必要だってなかった。彰吾くんのことが好きなのに、上手く伝えられなくて、逃げるようにまごついてばかりいたあの頃――今から思えば、ほんの些細なことでばかり思い悩んで、戸惑っていたような気がする。
 全部、大したことじゃなかった。身長の差も、自分の見た目も、子どもっぽさも、気恥ずかしさも。二人で一緒にいるうちに、何もかも自然になっていった。大人になった私は、もうあの頃と同じようには悩まない。大人になるということすら、ごく自然に受け入れてしまっている。
 左手の薬指にある指輪だってそうだ。まだ身につけ始めてから一年も経っていないのに。存在を意識する機会もないくらい、すっかり指と、生活に馴染んでしまった。
 好きだな、と思う。
 彼の全てと、彼と一緒にいることで味わえる感覚の何もかもが。
「ね、彰吾くん」
 歩きながら、私は囁く声で彼を呼ぶ。
 繋いだ手にぎゅっと力を込めると、彼のしている指輪が、私の指先に触れる。存在を意識するのはこんな時だけ。彼への気持ちをふと募らせて、言葉にしようと思う時だけだった。
 彼が怪訝そうに小首を傾げたから、その顔へと告げる。
「愛してる」
 人気のない夜道にひっそりと溶けていく私の声。言葉自体にためらいはないけど、彰吾くんが立ち止まってはにかむのを見ると、私まで一緒になってはにかみたくなる。
 好きという言葉が口に出来なかったあの頃、こんな大それた言葉を告げるようになるなんて思いもしなかった。でも、今はもうわかっている。告げるだけなら大したことじゃなかった。だからたくさん、たくさん言おうと思っている。
 彰吾くんはちらと頬を赤らめた。夜道でもそれははっきりわかった。僅かな間を置き、照れ笑いと共に答えてくれる。
「俺も、愛してる」
 自分で言うより、言われる方が照れた。ふふっと笑いが零れたら、彰吾くんも笑い声を立てた。
 高校時代から比べたらずっと自然に言えているように思うし、まだぎこちないような気もする。そのうちにもっともっと自然になっていくだろうか。それとも次は、別の言葉で照れるようになるだろうか。――例えば私たちが、お父さん、お母さんになったりしたら、その時は照れずにいられるだろうか。
 先のことはわからないけど、でも思う。彰吾くんと一緒にすることは、したいことはたくさんある。その全部を私たちは、ちゃんと出来ると思ってる。彼と一緒なら全てが楽しいことばかりだ。今までだって本当にそうだった。楽しい気持ちで大人になれた。
 大人になるのも大したことじゃない。難しくもないし、無闇に憧れるほど素晴らしいものでもなかった。ただ、悪くもなかった。ずっと大人でいたんじゃないかと思えるくらいに自然で、心地良かった。そう思えたのは絶対に彰吾くんのお蔭だ。

 それから再び歩き始める。二人の部屋まではあと少し、だけどその距離を惜しむみたいにゆっくり、ゆっくり歩いていく。
 手を繋いだ影は足元から伸びて、アスファルトの上、今の私たちを描いていた。
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