ついばむようなキス

「わあっ」
 声を上げるなり、理緒は俺から身を離した。後ろに飛び退いて、顔を真っ赤にしている。口元に当てた彼女の手を見て、俺は思う。
 ――まただ。またやってしまった。
「ごめん」
 こうなると謝ってもしょうがないことはわかっている。理緒も、首を横に振るに決まっているから。
「う、ううん。あの、その、ちょっとびっくりしただけ……」
 びっくりされるのは当然だ。いつもと違うキスをしたから。初めてのことをしたから。
 だけど飛び退かれたりすると、やってしまったなと思う。俺はいつもタイミングを読み誤る。自分のしたいことをいきなりして、理緒をうろたえさせてしまう。そしてうろたえさせてから後悔する。もっと、理緒の気持ちも考えなきゃいけないって。
 その時はそれで終わってしまう。失敗に終わったキスが後々まで尾を引くということもないし、理緒も気にしないようにしてくれてるのか、それ以上何か言ったりはしない。頬っぺたを赤くしながらも、俺のことを責めたり、避けたりはしない。
 だから、その度に俺は思う。
 そういうタイミングが読めるようになれたらいいのに。

 キスの仕方は誰に習うでもなく知っていた。
 不思議だと思うけど、俺に限った話でもないはずだった。好きな子が出来たらその子にキスしたくなる。唇を触れ合わせるだけのキスに慣れたら、もう少し違うキスをしたくなる。そう思うのも俺に限った話じゃないはず。まさか他人に聞ける話じゃないから、確かめたことはないけど。
 何度か繰り返して、慣れてはいた。背の低い彼女の為にどのくらい屈めばいいのかとか、彼女がどのくらいの時間を掛けて目を閉じるかとか、こっちも目を閉じても唇を外さないようにはなっていた。慣れたんだと思う。
 ただ、普通のキスに飽きた訳じゃない。――そもそも『普通のキス』って何だって話になるけど、ただ唇同士をくっつけ合って、それ以上余計なことはしないようなキスのこととする、この場合は。ともかく、この頃になって俺は、余計なことをしたくなってきた。『普通のキス』だけじゃなくて、もう少し唇の感触を楽しめるような、時間的に長いキス。それでいてもう少し、していて気持ちのいいキス。『気持ちのいい』っていうのも何となくやましいというか、やらしい感じがするけど、ともかく。
 だけど普通じゃないキスをすれば、理緒が驚く。びっくりされてしまう。理緒からすれば望んでもいなかったことなのかもしれないし、いきなり何だと思われているのかもしれない。理緒は純粋な子だから、俺みたいにキスのことでああだこうだと思い悩んだりはしないだろうし、もしかしたらいつされるのかと会う度にびくびくしているのかもしれない。
 それなら、いつならいいんだろう。いつ、普通じゃないキスを始めたら、理緒を驚かせずに済むんだろう。そういうことこそ誰かが教えてくれたらいいのにと思う。付き合って何日目でキスをして、何日目になったら普通じゃないキスをしてもいいようになって――とか、わかり易ければいいのに。
 ともかく俺は、だらだらとそんなことを考えていた。不健全だろうか。

 普通じゃないキスをした後、デートは再開された。
 理緒は何事もなかったようにしている。俺の隣で楽しそうに笑っていた。腕を組もうかと言ってみたら、恥ずかしそうにしながらも俺の肘下に手を引っ掛けてきた。俯き加減で、だけど少し笑いながら一緒に歩いてくれていた。
 腕を組むのはいいんだな、と俺は思う。これもタイミング次第なんだろうか。
 すっかり日が暮れてしまっていた。暗くなるのが早い季節だ。木々に囲まれた遊歩道を駅まで急ぐ。人気のない道だと思っていたら、途中で社会人っぽいカップルとすれ違った。それでも理緒は俺から離れなかったし、俺の下腕を掴んだままだった。何にも気にしないそぶりで、楽しそうに話しかけてくる。
「遊園地、すっごく楽しかったね。私、コーヒーカップに乗ったの久し振りだったよ」
 だから俺も、気にしないようにはしてみる。
「俺も。スリルがないかと思ったら、案外面白かった」
「ね。たまには外で遊ぶのもいいよね。今度はどこへ行こうか」
「そうだな……」
 聞かれて、俺は考えてみた。
 考えてはみたけど、違う話ばかりが頭に浮かんできた。遊園地はもちろん楽しかった。でもいいことより悪いことの方が頭をいっぱいにし易いものだ。俺の頭は既に、今日の失敗で溢れ返りそうだった。
 だからつい、尋ねたくなった。
「あのさ、理緒」
 理緒が真下で、瞬きをする。
「なあに? 彰吾くん」
 きょとんとする表情があどけなくて、俺は迷った。わざわざ気まずいことを蒸し返す必要なんてあるんだろうか。理緒がせっかく忘れようとしてくれているらしいのに、俺がだらだらと引きずっているのはいいんだろうか。
 だけど気になるものはしょうがない。やっぱり尋ねてしまった。
「キスする時って、予告した方がいいかな」
 途端、理緒はびくりとして、俺の腕から手を離してしまった。遊歩道の真ん中で立ち止まり、口元に手を当てている。水銀灯の光の下でもわかるくらい、その顔が真っ赤になっていく。
「え? え? あの、それって、その」
「……さっき、悪いことしたかと思って」
 俺も口下手な方なので、言うとしたらそんな言葉になる。格好悪い。
 理緒がうろたえているのを見ていたら、それでも、何か言わなくてはという気になった。
「嫌なら、嫌って言ってくれていいから。さっきのことだけじゃなく、他のことでも。理緒が言ってくれる方が、俺も助かる」

 思えば、初めてのキスの時からそうだった。理緒はされるがままで、嫌だともいいとも言わなかった。だけどその後でしばらく気まずかった。目も合わせてもらえなかったくらいだ。きっと望んでいなかったんだろうし、びっくりさせたに違いなかった。
 出来ることなら、俺がしたいと思う時、理緒にもそう思っていて欲しい。お互いのタイミングが合った時に、びっくりされ過ぎないようにキスしたい。それが原因で一瞬でも気まずくなるのは嫌だった。何事もなかったようにするのも、それこそ不健全じゃないかと思う。

 俺の言葉に、理緒は視線をぐるぐると泳がせていた。お湯が沸かせそうなくらいに顔を赤くして、俯かないようにしているのか、頬を両手で押さえていた。そして上目遣いに言ってきた。
「あ、あの、彰吾くん」
 こういう時の彼女は、いつもたどたどしい口調になる。言いたいことを上手く言えないのは俺と一緒だった。きっと歯痒いことだろうと思う。
「何て言うか、えっと、私」
「うん」
「別に、その、嫌とかじゃなくって」
 だけど、以前よりははっきりものを言ってくれるようになった気がする。
「さっきも嫌がったつもり、なかったの。すごくびっくりしたって言うだけで」
「そうなのか」
 ならよかった。内心ほっとする俺に、理緒はちらと複雑そうな視線を向けてきた。
「でもね、……ひ、一つだけ、嫌じゃないんだけどお願いしたいこと、あるの。全然、嫌じゃないんだけど」
 ためらいがちなその口調。俺は黙って理緒を見下ろし、その言葉の続きを待つ。
 お願いしたいことって何だろう。あまり難しいことじゃないといいけど。難しいというか、例えば『キスしないで』って言われたら、無理だと答えてしまうかもしれない。だって無理だ。出来るなら悩んでいない。
 あれきり人の通らない遊歩道で、理緒はたっぷり俺を待たせた。待たせてから、ようやく教えてくれた。
「あのね、外だと、びっくりするから」
「……ああ」
「するなら、その、外じゃないところが、いいかなって」
 そこまで言って、理緒はもごもごと口ごもってしまう。
 俺も合点がいった。なるほど、外でしたから駄目だったのか。人気のない遊歩道を選んだつもりだったけど、気にするものなんだな。女心は難しい。
「じゃあ次は気を付ける」
 予告するように言った俺を、何か信じがたいものでも見るように理緒が見上げてくる。やがてぼそりと答えた。
「彰吾くんってすごいね」
「ん?」
「あの、何て言うか、そういうこと、普通に言えて……」
 俯いた理緒に、俺はちょっと笑ってしまった。
「すごくはないよ」
 キスの話については俺にも言いにくい内容だったから、別にすごくはない。でもこういうことはちゃんと話し合わなきゃいけないなと思う。他でもない、理緒が相手なら。

 次は外ではないところで、唇を触れ合わせるだけじゃない、普通じゃないキスをしよう――しかしこの『普通じゃない』、余計なことをするキスに、名前があればいいのになと思うこの頃。
 理緒は気付いてないらしいけど、俺だって気恥ずかしいことはあるんだ。


お題:かやのそと様 「キスで5のお題:A」

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