Tiny garden

君を想う

 帰り際、送ると言ったら、理緒は少し迷うようにしてみせた。
 聞けば、
「雨、止んでるかな? 降ってないなら、お願いしたいんだけど」
 とのことらしい。
「俺は降ってたって構わないけどな」
 そう言い返しても彼女はいい顔をしない。
「降ってる中を送ってもらうのは悪いよ」
「でも寒い訳じゃないだろ? 理緒だって肩出してるし」
 指摘したら、ちょっと恥ずかしそうにされた。俺の為に着てきてくれたんだろうか。それならうれしいんだけどな。
「うん、暑いくらいだよ。むっとしてて。それで雨降ってたら、彰吾くんだって嫌かなって」
 理緒がそう言うから、俺は首を竦める。
「嫌じゃない。理緒と少しでも長く一緒にいられる方がいい」
 それで彼女は頬を染めて、じゃあ、と小さな声で言ってくれた。

 幸い、雨はすっかり止んでいた。むっと立ち込めるような熱気と湿気の中、俺は理緒の隣を歩く。彼女の家まで歩いていく。
 空っぽにした鍋はきれいに洗って、スーパーの袋に入れていた。こうして提げれば手を繋げた。俺はどうしても彼女と手を繋ぎたかった。壊れてしまいそうな手を、ぎゅっと握り締めていたかった。
「手のひら、べたべたしてない?」
 恥ずかしそうにしながら、理緒が尋ねてくる。
「汗かいてるから……ごめんね」
「俺もそうだよ、気にすることない」
 フォローにもならないようなことを言った後で、逆に問い返してみる。
「暑いのに、手を繋いでてもいいのか?」
「うん」
 彼女は即答してくれた。
「暑くてもちっとも気にならないよ」
「よかった。俺もだ」
 どんなに蒸し暑い夜でも、どんなに湿っぽい空気でも、理緒とは手を繋いでいたかった。これからはずっと繋いでいこうと思った。
 こうしていると幸せなんだ。夏の暑さなんて気にならないくらい、幸せだった。彼女の細い手に触れて、彼女と繋がっていることに、何よりも満たされた気分になる。
 夏が苦手だった。暑いのが嫌で、この季節が来るのが毎年憂鬱だった。どうやって暑さをしのごうかということで頭が一杯で、楽しんでいる余裕なんてなかった。暑い思いをするのが嫌で、外に出るのも億劫だった。
 だけど――今、思う。理緒がいる夏は特別だ。そんなもやもやした不安や悩みはどこかへ吹き飛んでしまって、今は彼女に寄り添いたいと強く思う。彼女の熱を感じていたい。彼女と片時も離れずにいたい。
 そうして二人で過ごす初めての夏を、じっくり味わいたいと思う。

 アスファルトの道の上、ところどころに水たまりが出来ていた。俺たちの影を映して、微かにさざめき立っている。
 それを手を繋いだまま飛び越えた。二人で、子どもみたいにはしゃぎながら飛んだ。飽きるまで何回もやった。その度ごとに鍋の入ったビニール袋ががさがさ言って、夜道で声を潜める俺たちの分まで賑やかしてくれた。
 街灯がもう点っている、夏の夜。
 雨が上がってすぐだというのに、どこかから虫の声もしていた。
「夏って感じがするな」
 俺が思わず呟くと、理緒が頷いてくれた。
「そうだね。すごく、夏っぽい」
「それにいい夜だ。何だか、風情があって」
 風情なんてものをちゃんと理解しているのかどうか、自分でもあまり自信はない。だけどこういう時間のことを、風情があるって言うんじゃないかって漠然と思う。静かで穏やかな夏の夜、隣には彼女、お腹はいっぱいで気分もいい。何もかもが満ち足りている。
「うん」
 理緒がもう一つ頷く。
 細い、滑らかな肩に、街灯の光が落ちていた。白く、輪郭のぼやけた丸い光を見下ろしていた。触れたくなるようなその肩に、どうしたらもう一度触れられるだろうって、考えてしまった。
 思いついたのは少し強引な手段。
「理緒」
「え? なあに?」
「腕、組もうか」
 肩を、と言わなかっただけ、俺は良識的なつもりだった。
 だけど理緒はたちまち赤くなって、慌てたようにもごもごと答える。
「え、でも、だって、暑くない? あの、そういうのって……嫌じゃない、けど、でもあの、身長の差だってあるし」
 口ごもっているのがまた可愛いなと思う。
「何とかなるよ」
 根拠もないのに俺は言う。三十五センチメートルの差は今更だ。そんなもの何の支障もないって、十分にわかってる。
 夏の暑さもそうだ。何の支障もない。いや、この夏のうちに、支障のないようにしてみせる。身長の差も気温もどんなものだって、俺と理緒の間に立ちはだかることは出来ないってわからせてやる。
「もっとくっついていたいんだ」
 そう言って促すと、理緒は俯き加減で応じてきた。
「わ、私も……そう、なの」
 幸せだ。
 しみじみと噛み締めつつ、俺は理緒と腕を組む。すべすべした肌の感触が心地よかった。肩にも触れられた。身長差のお蔭で、ちょうど俺の上腕に、彼女の肩がぶつかってきた。彼女の手は下腕に引っ掛けられている。夏だっていうのに、やたらくっついて歩いている。悪くない。
 夏も、案外悪くない。
 好きになりそうだ。隣に理緒がいてくれたら。

 腕を組んで歩くのは結構難しかったけど、慣れないうちだからかもしれない。きっとすぐに慣れるだろう。秋が来る前には慣れておきたい。
 ちょっと不格好に歩きながらも、俺は彼女に言ってみた。
「俺、理緒を幸せにしたい」
 背伸びした願い事を、理緒は笑わずに受け止めてくれた。返ってきた答えは、望んでいたものとは違っていたけど。
「もう十分過ぎるくらい幸せだよ、彰吾くん」
 理緒なら、そう言うだろうなと思った。でも駄目。こんなもんで満足されてちゃ困る。
「じゃあ、もっと幸せにしたい」
 俺の言葉に彼女はかぶりを振る。
「今でもすごく幸せだもん、気持ちだけでうれしいのに」
「それならもっともっと幸せにする。今以上に、ものすごく」
 子どもみたいに頑迷に言い張ってみた。彼女には、遂に笑われた。
 だけど笑いの中でも、
「そこまで言うなら、お願いしようかな」
 遂に了承もしてくれた。
「でも、私も彰吾くんを幸せにしたいな。それも、いいよね?」
 聞き返されて俺はちょっと困った。今でも十分幸せだ、そう答えたかったけど――俺の時と同じ問答の繰り返しになりそうだ。
 だから、素直に答えることにした。
「うん。二人で、幸せになろう」
 今でも十分幸せだ。蒸し暑い夜に腕を組んで歩いて、時々水を撥ね上げながらも幸せだ。それ以上の幸せは、二人がかりで掴み取るものだと思う。

 俺は何にも負けない。理緒をこれからもひたすらに想う。
 そうして幸せな夏を過ごしたい。初めて好きになれそうな、彼女が傍にいてくれる夏を。
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