Tiny garden

クラクラする

 お祭りの日の夜は、生温い風が吹いていた。
 いつもの通り、待ち合わせ場所は住宅街の一角、帰り道の途中で理緒と別れる場所。俺の家からは大した距離でもないのに、歩いていくだけで汗を掻く。相変わらず涼とは縁遠い。それでも陽射しがない分、日中よりはずっとましだった。
 どうせ一人きりだから、夕飯はそうめんで軽めに済ませた。その分お祭りで何か食べてやろうと思った。理緒は縁日をどう過ごすんだろう。彼女なら何か食べたりするよりも、露店を覗いて歩き回る方が好きだというかも知れない。
 通い慣れた道を歩きながら、俺は少し緊張していた。浴衣を着てくると言った理緒が果たしてどんな姿になっているのか、ちっとも想像がつかないからだった。可愛いのは間違いないと思う。だけど、どんな風に、どのくらい可愛くなっているだろう。いつも見ている顔なのに、ちっともイメージが浮かばない。
 楽しみでしょうがなかったけど、一方でこうも思った。――別人みたいになっていたら、どうしようか。上手く話せないかもしれない。


 風の温度がぐっと上昇したのは、道の向こうに理緒の姿を見かけた時だった。
 ほとんど陽の沈みきった時分、はるか遠くの空に、ほのかな朱色が残っている。その朱色と同じ色をした、浴衣姿だった。白と薄い水色の蝶が一面に飛んでいた。いつもは肩の丈すれすれの髪を、今日は二つに結んで、それこそ蝶の羽根みたいに風にひらひらさせている。
 見つけた瞬間に、思わず立ち止まってしまった。
 急に風の温度が上がって、汗が噴き出るほど暑くなった。のぼせたみたいに眩暈がする。すぐ傍の街灯が光を瞬かせていて、余計に頭がくらくらした。
 本当に、あの子が、俺の彼女なんだろうか。――ふとそんな疑問さえ芽生えてくる。可愛いだけじゃなく、着る物ひとつであんな風にきれいになってしまう、理緒ってそういう女の子だったのか。本当に別人みたいだ。どうしよう。どうやって声を掛けたらいいんだろう。
 どうして、あんなにきれいなんだろう。

 理緒はしばらく伏し目がちにしていた。いつものように俯き加減でいて、だけどふとした時に顔を上げて、こちらを見た。探し物をするような顔だった。その目が俺を捉えたようで、表情がぱっと綻ぶ。
「彰吾くん」
 俺の名前を呼ぶと、わざわざこちらへ向き直る。朱色の浴衣の裾と、蝶の模様と、結んだ髪とがいっぺんにひらひらして、また眩暈がするようだった。すぐには返事が出来なかった。暑い。喉が渇いた。
「彰吾くん……?」
 理緒が怪訝そうにした。
 下駄の音を鳴らしながら駆け寄ってくると、立ち尽くしている俺の顔を見上げる。すぐに眉根を寄せて、心配そうに言ってきた。
「大丈夫? やっぱりすごく暑そうだけど……具合、悪くない?」
 近くで見ても理緒は、きれいだった。長い睫毛に縁取られる、潤んだ瞳。頬から首筋にかけての白く、つるりとした肌と、片腕だけで抱き締められそうな細い肩。唇はほんのり赤い。巾着袋を握り締めた小さな両手は、きっとそれより重いものは持てないに違いなかった。
 いつもよりもぐっと大人っぽく見えたし、俺の手で触れたらそこからひびが入って、崩れ落ちてしまいそうだった。華奢で、儚く、完璧に見えた。絶対に壊しちゃいけないと思う。俺みたいな武骨な手で、不用意に触っちゃいけない。
 だけど堪らなく、触れたい、とも思う。
「あの、どうか、したの?」
 おずおずとTシャツの袖を引かれて、ようやく我に返った。
 理緒は片手でも巾着袋を提げていたし、小首を傾げた表情はあどけなく、いつもの理緒と同じようにも見えた。だけどきれいなのには変わりない。俺は返事に詰まる。
「いや、どうってこともないけど……」
「うん」
「きれいだな。理緒の、浴衣」
 俺がそう告げると、理緒は少し照れた様子で、だけどとてもうれしそうに笑ってくれた。
「ありがとう。あのね、お母さんが選んでくれたんだ」
「へえ、そうなのか」
「いい柄行でしょう。私も気に入ってるの」
 控えめな口調で理緒が言う。
 浴衣の柄だけ誉めた訳じゃないんだけどな。俺はそう思いながらも、他にどんな言葉を付け足したらいいのか、すぐには考えつけなかった。きれいだなと思うけど、そのまま言うのは何だか、大味な誉め言葉にしかならないような気がした。
 きれいなのは当然、そうなんだ。
 だけど、それだけではないと思ってる。
「本当に具合、大丈夫?」
 理緒が話題を戻してしまう。俺は少し笑って、答えた。
「大丈夫。蒸し暑くて汗掻いてるだけ」
 眩暈はする。今でもすごく。頭に、くらくら来るようだ。
 それでも理緒と一緒にいたかった。むしろ、くらくらするからこそ、理緒と一緒にいたかった。
 本当にこの子が、俺の彼女でいいんだろうか。こんなにきれいなのに。こんなに壊れ易そうなのに。
「じゃあ行こうか、お祭り」
「うん」
 俺たちは頷き合ってから、陽の沈みきった道を歩いていく。下駄の音をころころ鳴らす、理緒の歩調に合わせて、慎重に歩いていく。
 巾着を提げた小さな手を、握ろうかどうかしばらく迷った。だけどどうしても出来なかった。俺が握ったりしたら、呆気なく壊れてしまいそうに思えた。すぐ近くにあるのに、触れたいと思うのに、俺は何も出来ずにただ理緒の姿を横目で見ている。
 俯き加減で歩く理緒は、結んだ髪のせいで白いうなじを露わにしていた。他の人にまで見られるのが嫌で、俺は少し後ろを歩いていた。本当は隠してしまいたくてしょうがなかった。

 理緒を壊さずにいたい、と思う。
 だけど俺の手は武骨過ぎて、きっといつか壊してしまうだろうとも思った。触れないようにしているのも、いつまでもは出来ない。その時はせめて優しく、ばらばらになってしまわないよう、繋ぎ止めていられたらいい。
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