Tiny garden

会いたい衝動

 家の中はがらんとしていて、風通しがよかった。
 外のうだるような暑さが嘘のように過ごし易い。蝉の鳴く声は相変わらずやかましいけど、涼しいところでならそれほど気に障らなかった。
 うちの両親は共働きで、しかも二人揃って土日が休みにならない仕事と来ている。一家三人の休みが合うことなんて滅多になく、家族旅行なんてした覚えもなかった。当然、俺が夏休みに入っても、両親は相変わらず仕事だ。俺は一人きりでぼんやりする時間を過ごしている。
 三人暮らしだとそう広くもない家は、一人きりだとやけに広く感じられた。まさかこの歳になって、そういう状況が寂しいだなんて思わない。だけど――。
 一人きりでいると、ふと、理緒に会いたくなる。

『あ、彰吾くん。どうしたの?』
 電話越しにも理緒の声を聞くのは三日ぶりだった。
 夏休みになってから連絡したのは初めてだ。昨日までは暑さにばてていて、電話を掛ける余裕もなかった。ようやく少しは慣れてきたので、理緒に会いたくなった。
「理緒、どうしてるかと思って」
 俺がそう告げると、理緒は小声でくすくす笑った。すごく女の子らしい笑い方をする。あまりに可愛くて、何で出来てるんだろうと時々思ってしまう。理緒みたいな女の子はきっと、男とは違うもので作られているに違いない。
『あのね。私も、彰吾くんがどうしてるかなって思ってたところなの』
「そうなのか。何とか、元気にしてるよ」
 答えた俺に、彼女はまた笑った。そして小首を傾げた顔が想像出来る声で、続ける。
『ね、彰吾くん。それなら明日の夕方は暇?』
「明日の夕方?」
 カレンダーなんか見るまでもなく、当然、暇だった。明日は両親のどちらも仕事だ。今日と同じだ。
「空いてるよ。何かあった?」
 俺が問い返すと、理緒も更に続けてきた。
『うん。駅前の方の神社で縁日があるんだって。知ってた? 毎年、たくさんの露店が出るんだよ』
「聞いたことはあったな」
 いつ、とまでは把握してなかったけど、あるって話は聞いてた。俺は行ったことなかったけど。去年までは行きたいと思う相手もいなかったし、夏場は日が落ちても暑い。夏だけはいつでも出不精だった。
 だけど今年は理緒がいる。
 行きたいと思う相手は、そういえばいる。暑いだの面倒だのと言ってる場合じゃないし、そんな気持ちを乗り越えてくる、会いたい気持ちが強く胸にある。
『もし、迷惑じゃなかったら、だけど』
 急に慎重な口ぶりになって、理緒は俺に尋ねてきた。
『一緒に行かない? お祭り』
 言われて俺は、しみじみと思う。彼女がいるって、こういうことなんだな。把握もしてないイベントごとでも自然と耳に入るようになる。そうして誘ってくれる相手がいる。これはよく考えなくても、幸せなことなんじゃないだろうか。
『ほら、夕方だから、日中よりはいくらか涼しいと思うの。彰吾くんは暑いの苦手そうだけど、どうかな……?』
 おずおずとした問いが続き、俺ははたと我に返る。
 幸せを噛み締めてる場合じゃない。慌てて答えた。
「もちろん、いいよ。迷惑なんかじゃない」
 すると、電話の向こうでほっと息つくのが聞こえた。
『よかった。ありがとう、彰吾くん』
「お礼を言うのはこっちの方。誘ってくれてありがとう、理緒」
 本当に彼女の存在がありがたい。俺をここから連れ出してくれるのが。
 一人きりのがらんとした家は、電話の声さえよく響いた。自分の声を遠くに聞くようにして、俺は理緒との会話を続けている。今は近くにいないのに、俺の声よりも身近にいるように感じる彼女。
『私、浴衣着ていくから』
 理緒がはにかむように言った。
 それで俺は、ふと眉を顰めて応じる。
「え? 浴衣?」
『う、うん。まずいかな?』
「まずくない」
 とっさに、言ってしまった。
 その後で更に急いで言い添える。
「まずくないけど、俺は何を着ていこうかと思って」
 俺は浴衣なんて持ってないし、あったとしても一人で着られたかどうか。理緒の浴衣姿は楽しみだけど、あんまり釣り合わない格好をしていくのもな、と思う。
『えっと、多分、普通でいいんじゃないかな』
 理緒は、少し考えるような間の後で言った。
『あの、私も浴衣じゃない方がいいなら、そうするけど』
「浴衣がいい」
 それは基本。絶対見たい。
 彼女は浴衣でいいとして、俺は……やっぱり、普通の格好が無難かな。理緒の隣で、あまり浮かないような服にしよう。
『男の子はあまり、浴衣とか着ないよね』
「うん。俺も着たことないな」
『彰吾くんの浴衣姿も、いつか見てみたいな。背が高いからすごく格好いいと思うんだけど』
 どうだろう。自分ではあまり想像出来ない。
 それよりも何よりも、理緒の浴衣姿の方が気になる。間違いなく可愛いに違いない。理緒なら絶対似合いそうだ。
「俺は適当に服選ぶから、理緒は構わず浴衣着てきて」
『そう? じゃあ、お言葉に甘えるね』
「楽しみにしてる」
『……楽しみにされるほどのものじゃないよ』
 恥ずかしそうな口調で理緒が言った。
『去年なんて、中学生と間違えられちゃったくらいだもん。ちびだから、浴衣着ると余計に子どもっぽく見えるのかもしれない』
 その後で、笑い声が続いた。
『だけどこんな時じゃないと浴衣なんて着られないから。夏のお祭りって言ったら、やっぱり浴衣だもん』
 耳元で、傍で聞こえた。理緒の笑う声。

 待ち合わせ場所や時刻など、明日の約束をしてから電話を切った。
 風通しのいいがらんとした家に、急に静けさが戻ってくる。しんとした一人きりの空間は、さっきまで近くにいたように思えた理緒のことを、鮮明に浮かび上がらせる。
 ここにいると理緒に会いたくなる。
 彼女のいる夏は幸せだと、染みるような心で思う。
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