Tiny garden

息を呑むような、

「……暑い」
 思わず呻いてしまうくらい、俺は夏が苦手だった。
 じりじりと照りつける陽射しのせいで、頭のてっぺんが焦げそうなほど暑い。蝉がけたたましく鳴く声は絶え間なく聞こえてくる。空気がずっしりと重い、夏の昼下がり。心なしか足取りまで重くなる。

 夏はあまり好きじゃなかった。どちらかと言えば春とか、秋とか、過ごし易い季節の方が好きだった。この辺りは冬も寒いくせに、夏になるとやたらめったら気温が上がる。季節の変化についていくのは一苦労で、夏休みを迎える頃にはばてていることも多々あった。
 今日も既にばてばてだ。本当なら心弾むべき終業式の後、俺はふらつき始めた足で帰り道を辿っている。隣を歩く彼女に、心配そうにされるくらいだった。
「彰吾くん、大丈夫?」
 理緒の問いに、一応は頷く。大丈夫なのかどうか、自分でもよくわからなかった。
 三十五センチ下まで視線を向けると、理緒は眉根を寄せて、気遣わしげな様子だった。
「暑そうだね」
「暑い」
「今日は真夏日だって聞いてるから、気分も悪くなっちゃうよね」
 そう言って、理緒は鞄からハンカチを取り出す。それを持った手をぐいと伸ばして、俺をぱたぱた扇いでくれた。風は全く届いてこなかったけど、そんなことはどうでもよかった。彼女の気持ちはありがたかった。
「ありがとう」
 気力だけでお礼を言って、それから俺は提案してみる。
「何か、冷たいものでも飲もう」
「うん」
 すかさず理緒も頷いた。どこかほっとした表情だった。

 コンビニで冷えたラムネを二本、調達した。
 その後で近くの公園まで足を伸ばす。よくある古びた児童公園は、陽射しの強さのせいかあまり人気がなかった。こんな日なら公園なんかより海とか、プールに行く方がいいに決まっている。
 俺たちは適当な木陰を選んで、地べたに直接腰を下ろした。ベンチに座るのは自殺行為だ、日陰を選ばないと本当にくたばってしまう。
 よく冷えたラムネは、渇いた喉にとびきり美味しく感じられた。俺がラムネを呷っている間、理緒がずっとハンカチで仰ぎ続けてくれていた。地べたに座ると小さな理緒とも肩を並べられて、いくらか風が送られてきた。
「ありがとう」
 大きく息をついてから、改めてお礼を言う。
「うん」
 理緒はくすぐったそうにしている。首を竦めた仕種が可愛い。
 可愛い彼女が出来て、いよいよ迎えた夏休み。――となると、普通は楽しみで楽しみでしょうがないはずなんだろう。夏はその手の、彼女がいるとより楽しくなるようなイベントが目白押しで、クラスの中にも何人か浮かれている連中がいた。
 だけど俺は浮かれている場合じゃなく、どうやら真剣に夏ばての対策を考えなきゃいけないようだった。このままじゃ夏休みを楽しむどころじゃない。せっかくの理緒のいる夏が、ばてばてのまま何となく過ごす夏になってしまう。
 悶々とする俺の隣で、ふと、理緒が口を開いた。
「彰吾くん、おでこも冷やした方がいいんじゃないかな」
「え?」
 俺が視線をそちらへ向ければ、理緒は既に立ち上がった後で、ビー玉の落ちていないラムネの瓶を、そっと俺の額に当ててきた。
 ひんやりと、心地よかった。
「理緒、飲まないのか」
 気になって尋ねてみる。冷やしてくれるのはとてもありがたいけど、ラムネが温くなりそうだ。理緒だってこの暑さじゃ、喉も渇いてるだろうに。
「ううん、いいの。家に帰ってから冷やして飲むから」
 そう言ってくれる彼女は、いつでもとても優しい。優し過ぎて、気を遣わなくてもいいのにと思うことさえある。だから俺は、彼女が気を遣ってくる前に、優しくし返してあげたいと思う。
 夏の陽射しが忌々しい。こんなに酷い暑さじゃなければ、夏休みもこの瞬間だって、気後れせず楽しめたに違いないのに。
「彰吾くんは背が高いから、仕方ないよね」
 ラムネを俺の額に押し当てる、理緒が微かに笑ってみせた。
「何が?」
 問い返すと彼女は柔らかい口調で、
「だって彰吾くんは私よりも、お日さまに近いところにいるんだもん。頭が熱くなっちゃうのも仕方ないと思うの」
「……ああ、そうかも」
 かもしれないな、と思う。
 俺が夏を苦手にしている理由も、案外そんなものなのかもしれない。陽射しが近い。無駄に伸びた背丈のせいで、余計に暑く感じるのかもしれない。
「暑苦しくない?」
 俺は、理緒に尋ねてみる。
 今度は彼女の方がきょとんとして、聞き返してきた。
「何が?」
「だから、俺の近くにいて。俺が余分に日光集めてるから、理緒まで暑苦しくなってないかって、心配なんだ」
 そう言って、本当に『暑苦しいから近寄らないで』と言われたら、へこむけど。理緒はそういうこと言う子じゃないけど、図体ばかりでかい奴に傍にいられたら、暑くないはずはないだろうと思う。
 予想通り、理緒はすぐさま首を横に振った。
 ただ、続いた言葉は予想したものと違っていた。
「暑くないよ、涼しいよ」
「涼しい?」
 まさか。いくら理緒が気を遣う子だからって、それはちょっと言い過ぎじゃないのか。
 困惑する俺に彼女は、更に続ける。
「彰吾くんの傍には、いつも大きな影が出来るんだもん」
 瞬間、息を呑んだ。
 乱れかけた呼吸をとっさに整え、俺は呟く。
「……ああ、そっか」
「うん。だからね、ちっとも暑くないよ。彰吾くんの傍にいたら」
 理緒は小さい。俺の影の中へ入ったら、すっぽり隠れてしまうくらい小柄だ。俺は理緒にとって、いい日除けなのかもしれない。
 言った後でちょっと申し訳なさそうに付け足してくる。
「何だか、彰吾くんを盾にしてるみたいで、ごめんね」
 本当に、理緒は、こういう子だ。
「いいよ。気にしないで、どんどん盾にしてくれても」
 それで夏の間もずっと傍にいてくれるなら、俺はちっとも構わない。
 額に当ててもらっていたラムネの瓶をそっと外して、彼女に笑いかけてみた。
 彼女も笑い返してくれた。その上で、持っていたハンカチで、俺の額を拭いてくれた。

 理緒のいる夏休みが始まろうとしている。
 もしかすると今年は、夏がそれほど苦手じゃなくなるかもしれない。――そんな現金なことを思いながら、俺は笑う彼女を見つめていた。
 小さな彼女は影の中にいる。目の前でふと、息を呑むようにしてみせた。
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