Tiny garden

うわのそらの昼下がり

 朝からずっと、木谷くんの様子が変だった。
 変、って言ったら失礼かもしれないけど……いつもと違っていた。少しぼんやりしているみたいで、ずっと何かを考えているような顔をしている。普段はきわめて冷静な眼差しも、今日は遠くの方を見るばかり。話しかけたらちゃんと答えてくれるけど、木谷くんからはあまり口を利かなかった。

 授業中もぼうっとしていて、先生に注意されていた。
「木谷、余所見をするんじゃない」
「……すみません」
 素直に答えて頭を下げた木谷くんは、だけどその後も度々ぼうっとしていた。教室にいる間だって、ずっとうわのそらだった。
 私は教科書の陰からそれを盗み見て、一人ではらはらしていた。自分のことみたいに落ち着かなかった。私が気にしていたってどうなるって訳でもないのに。
 でも、私のせいかもしれない、とも思っていた。
 もしかすると昨日のデートが原因なんじゃないかな、って。


 昼休みに入っても、木谷くんはまだぼんやりしていた。
 二人で過ごす、午後の図書館。今日も天気がよくて、校舎の隅にあるこの図書館にもたっぷり陽の光が射し込んでいる。暖かくて過ごしやすかった。
 でも、木谷くんの様子は変だった。いつもみたいに音楽を聴いたり、或いは私を気にしたりはしないで、テーブルに頬杖をついている。どこか遠くの方を見ながら、何かを考えているような顔をしている。何を考えているのかはもちろん、わからない。何も考えていないのかもしれない。
 私は本を開こうとして、止めた。隣にいる木谷くんが気に掛かってしょうがなかった。しばらく迷っていたけど、遂に聞いてしまった。
「木谷くん、どうしたの?」
「え?」
 びっくりしたようにこちらを向く木谷くん。話しかけられるなんて思ってもみなかったみたいだ。大きく見開かれた目が、やがてゆっくりと元に戻る。
「どうかした、並川さん」
 逆に、そんな風に聞かれてしまった。
「う、うん。どうかしたって言うか……」
 どうしたのって聞いたのは、私の方だったんだけどな。
 やっぱりちょっと違うみたい。いつもの木谷くんとは。
「木谷くん、今日はぼうっとしてるね」
 私の言葉に、木谷くんはちらと目を逸らした。
「そう、かな」
 そうだよ。私は頷く。
「ほんの少しだけど、いつもと違う気がする」
 別に、木谷くんがぼんやりしていたっていい。うわのそらでいる日があったって、そんなのは構わない。隣にいられたらそれでよかったから、黙ったまま、何にも話してくれなくたってちっとも嫌じゃない。何もしないでいる時間があったっていいと思ってる。
 でもそのぼんやりが、私のせいだったら。
「何か考え事?」
 予感があったから、そう尋ねてみた。
 木谷くんは頬杖をついたままで、答えた。
「昨日のこと、考えてた」
 予感の通り。
 途端に私は複雑な気持ちになって、木谷くんの、こちらを向かない横顔を見ていた。

 昨日は木谷くんとの、初めてのデートだった。
 学校以外で、私服姿で会った最初のデート。木谷くんのおうちにお邪魔した。
 緊張もしたし、楽しい話もした。気まずくなったりもしたし、思っていたことを口に出せない時もあったけど、最後には手を繋いだ。いろんなことがあった。一言で、どういう風だった、なんて表せないくらいにたくさんの気持ちを抱いた。
 果たして昨日のデートは成功だったんだろうか。それとも、失敗? 私はあまり自信がなくて、家に帰ってから今日登校するまで、ずっと落ち着かない気持ちでいた。私は嫌なことなんてちっともなかったけど、もし木谷くんがそう思っていたら。知らないうちに木谷くんを傷つけていたらどうしようと、そのことばかり考えていた。

「……昨日のこと、気にしてる?」
 私は恐る恐る、木谷くんに聞いてみた。
 言えなかったんだ、昨日は。木谷くんに。――好き、だって。
 きっと言わなきゃいけなかった。思ったとおりのことを言えばいいだけのはずだった。なのに言えなかった。木谷くんは言ってくれたのに、私は何も言えなかった。
 思ってない訳じゃないのに。好きなのに。その通りには言えない気持ちがもどかしくて、苦しくて、悔しかった。
 木谷くんはどう思っているんだろう。私が言えなかった、言わなかったことで、寂しかったり不安になったりしてないだろうか。
 そんな風に考えていたから、
「うん」
 隣で木谷くんが小さく頷いた時は、ああ、と思った。
 ああ、やっぱりそうなんだ。私が言わなかったからだ。
「木谷くん、あの――」
「並川さん」
 言いかけた私を遮るタイミングで、木谷くんが私を呼んだ。
 視線はまだ遠くに。並んだ本棚の先を見通すように、遠くへ投げられていた。
「昨日はごめん」
 木谷くんの声がそう続けた。
 瞬間、私はどきっとした。予想していなかったことを告げられたせいでもあったし、今の『ごめん』がどういう意味か、とっさに判断し切れなかったせいでもあった。
 だけどそれ以上に、木谷くんの声が落ち込んでいたから。
「俺、余計なこと言ったなって、思って」
 浮かない横顔。彼がこんな表情をするのを、今まであまり見たことがなかった。
「余計なこと……?」
 私には覚えがなかった。木谷くんは何も、おかしなことは言ってない。昨日木谷くんに言ってもらったのは、全部うれしい、幸せなこと。少しは戸惑ってしまったけど、それは上手な応え方がわからなかっただけ。
「並川さんを困らせるつもりはなかったんだ」
 そう言って、木谷くんは前髪をかき上げた。昨日は繋いだ大きな手が、どこか苛立ったように短い髪を掴んでいる。
「なのにどうしても、あの時は……言ってしまった。言わずにはいられなかった。むしろ伝えたくて堪らなかったんだ。並川さんの気持ちを一つも考えずに、俺だけが言いたいことだけ言って、結局並川さんを困らせただけだった」
 木谷くんのその言葉を、私は不思議な思いで聞いていた。
 言いたいことを言えない私と、どうしても言わずにはいられなかった木谷くん。私たちの気持ちはきっと同じなのに、伝え方は全然違う。だから私は木谷くんの言葉に戸惑い、木谷くんは私の言葉を待ってる。
「ごめん」
 もう一つ、彼は繰り返した。
「思ったままを言うべきじゃなかった。もう少し、優しい言い方をするべきだった。そうしたら、並川さんを困らせることもなかったのに」

 でも、木谷くんは優しい。私はそう思う。
 十分なくらい優しいから、このままでもいいのに。
 私は木谷くんみたいになりたかった。背の高さも、優しさもそうだけど、『言わずにはいられなくなる』気持ちが欲しかった。言いたくて、伝えたくて堪らなくなる瞬間が、私にも来て欲しいと思った。その瞬間が欲しい。そうしたら私だって、この想いを全部伝えられるはずなのに。
 いつか、来る? 臆病な私にも、そんな時が。
 来るとしたら、いつ? いつまで待てばそうなれる? それとも、待ってるだけじゃ駄目、なのかな。

「木谷くん」
 私は沈む横顔に向かって、そっと声を掛けた。
「次の日曜日は、……空いてる?」
 ちらと木谷くんが私を見る。目が驚いているようだった。
「空いてる、けど。どうして?」
「また、行ってもいい?」
 尋ねた。
「木谷くんのおうちに。木谷くんの部屋に、行きたい」
 待つだけじゃ駄目。そう思ったから、私は言った。
 見開かれた目がじっと私を映している。木谷くんは一度唇を結んでから、ゆっくりと解き、答えてくれた。
「いいよ」
 それから、視線をふと落として、囁きほどの声で言ってきた。
「並川さん、手を」
「手?」
「……もうすぐ昼休み、終わるけど」
 図書館の大きな机の下、木谷くんの手が下りていく。膝の上に置いていた私の手に、触れてくる。
 私はそちらを見ないようにしながら、少しだけ手を動かした。木谷くんの手に近づけた。大きな手に繋がれて、静かに力を込められて、図書館の室温が上がる。
「ありがとう」
 木谷くんがぽつりと言って、私はぎくしゃく頷いた。
 残り少ない昼休みの間、私たちはずっと、机の下で手を繋いでいた。  
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