Tiny garden

繋ぎ目の見えない恋人たち

 木谷くんは私のことが好きだと言った。
 それは、今の私のこと、みたいだ。今の、臆病者で、引っ込み思案で、どうしようもなく逃げたがりで、想いを言葉にすることさえ出来ないような私を、好きだと言った。どんな私でも好き、だって。
 でも私は、今の私のことが好きになれない。言えないんだもの、木谷くんに、好きだって。そう思ってるのにちっとも言えない。声にならない。こんな手に負えない私なんて嫌いだ。変わりたいって思ってるのに。
 木谷くんにも、変わった私を好きになってもらいたい。胸を張って想いを伝えられるような私を。木谷くんのことを好きって、木谷くんに聞こえるように告げられる私を。そういう私の方が、きっと私も、好きになるだろうから。

 私、馬鹿かな。きれいになりたいとか、大人っぽくなりたいとか、――背が高くなりたいとか、そんなことばかり考えてた。木谷くんがどういう、見た目の女の子が好きなのか、知りたいと思ってた。目に見えるものばかりに心が向いて、もっと重要で、もっと難しいことには目が留まらなかった。
 きれいになったって、大人っぽくなったって、背が伸びたって、私は私を好きになれない。木谷くんに好きでいてもらうのに、どんな見た目になったって中身が変わらないままじゃ、恥ずかしい。
 だから、いつか言うから。絶対に言う。もう一度、言えるようになる。
 木谷くんが好き。
 とても、好き。


 帰り際は少し気まずい空気になった。
「送っていくよ」
 玄関を出てから、木谷くんがそう言ってくれて、私は答えに詰まった。
 この辺りはあまり詳しくなくて、一人で帰るのは不安があった。でも木谷くんへ感じる引け目が、申し出を拒ませた。まだ陽は沈んでないし、何とかなりそうな気もしていた。
「ううん、大丈夫」
 私がかぶりを振ると、だけど木谷くんも首を横に振る。
「送るから」
「でも……」
「送らせて」
 いつになく、木谷くんは強硬だった。木谷くんの部屋で交わした会話のことを、気にしているんだろうと思った。
 私も少し、気にしていた。でもそれで一緒にいたくなくなったとか、そういうことはなかった。ただ、引け目があっただけで。
 気持ち一つも伝えられない私が、そこまでしてもらう理由なんてないのに。
「め、迷惑、じゃない?」
 恐る恐る聞いてみた。間を置かずに木谷くんは答えた。
「俺は迷惑じゃない。送りたいんだ」
「う、うん……」
「並川さんは、迷惑?」
 そんなことない。またかぶりを振ると、木谷くんはほっとしたみたいだ。それでもまだ硬い顔つきをして、私に手のひらを差し出してきた。
 木谷くんの手は大きい。背が高い分、私よりずっと大きいみたいだった。その手がぎこちなく宙で止まる。
「手」
 そう、木谷くんが言った。私が瞬きをすると、ためらいがちに続いた。
「繋いでいってもいいかな」
 私はまた、言葉に詰まる。もちろん嫌だってことじゃなくて――恥ずかしかったけど、でもそれ以上に心配があった。
 男の子と手を繋いで歩いてるところ、お母さんに見られたらどうしよう。怒られるかもしれない。もしくは近所の人に見られて、お母さんの耳にも入ってしまったら? あとは、クラスの子たちに見つかって、冷やかされるのも困る。全部困る。
 でも、迷った。木谷くんの手は大きい。私の手がすっぽり隠れてしまいそうなくらい、大きかった。どうしてか、とても心が惹きつけられた。
 木谷くんの手に触ってみたい。手を、繋いでみたい。
「……うん」
 ようやく言えた答えは、消え入りそうだった。
 意を決して持ち上げた手が、木谷くんの大きな手に触れる。少し冷たくてかさかさした手のひらに触れる。ごつごつした指が折りたたまれて、私の小さな手は、そっと優しく握られる。繋いだ手が出来上がる。
「じゃあ、行こう、か」
 ぎくしゃくした声の木谷くんは、多分、笑ったんだと思う。唇の両端がほんの少しだけ動いた。
 私は笑えなかったけど、笑いたいとは思った。


 歩く足元から影が伸びている。
 背の高い影と、夕暮れ時でも背の高い人には敵わない小さな影。二人分の影も手を繋いでいた。繋ぎ目の見えない、一つになってしまったような影。まるでそこから溶け合って、くっついて離れなくなってしまったみたいに見えた。
 木谷くんの手はひんやりしていた。でもずっと繋いでいるうち、ぬるい温度になってきた。大きな手の中、私の手は完全に隠れてしまっている。でも溶けてはいない。くっついて、離れなくなったなんてこともない。
 手を繋いでいると、胸がどきどきした。いろんなことがわからなくて、無性に落ち着かない気分になった。誰かが通りがかって見つかりはしないか、心配になった。歩きながら、木谷くんに何と言って話しかけたらいいのか、ちっとも思いつかなかった。木谷くんの横顔を見る勇気もなくて、黙ったままの木谷くんがどんなことを考えているのか、全然わからなかった。
 言葉にしないと、何もわからない。声に出さなきゃ伝わらない。こうして手を繋いでいたって、私の気持ちも木谷くんには何も届かない。言えるようになりたかった。木谷くんに伝えたかった。

「もし、よかったら」
 歩きながらふと、木谷くんが言った。
 人通りの少ない住宅街は静かで、木谷くんの声よりも、足音の方がよく響いた。それでも私はびくっとしてしまって、反射的に木谷くんの手を握った。彼の手もその時びくっとした。
 それからぎゅっと、強く握られた。
「……また、おいでよ」
 この上なく優しい言い方だった。大きな手に込められた力とは対照的に優しくて、だけどどこか覚束ない言い方。
「いいの?」
 私は聞き返す。声がかすれた。不格好に裏返ったようだった。
「うん」
 木谷くんが頷いたのが、背の高い影の動きでわかった。
「日曜日は大抵、一人でいるから。並川さんが来てくれるとうれしい」
 でも、いいのかなって思う。
 今日、木谷くんは楽しかったんだろうか。私といて楽しいって思ってくれただろうか。あんなふうに気まずくなっちゃったのに。思っていること、何にも言えないような私なのに。
 それとも、チャンスをくれたのかな。次のチャンス。次はちゃんと言えるように。その時は木谷くんの部屋で、あの穏やかで優しい時間の中で言えたらいいなと思う、けど。
「毎週でもいいよ」
 木谷くんがそう言ったから、私は少し慌てた。
「え、そんな」
「本当に、そのくらいでも構わないんだ。ほとんど空いてるから。それに」
 一呼吸置いて、
「そのくらい、会いたいから」
 と、聞こえた。
 それで私も、思い出した。忘れていた訳じゃなかったけど――今日はデートだったんだ。初めてのデート。学校で会うのとはやっぱり違った。普段は出来ないような話もしたし、普段とは違う過ごし方をした。普段と違う、木谷くんと会った。
 一度気まずくなってしまったけど、今の私たちはすごく、恋人同士っぽい気がした。初めてのデートの帰り道、手を繋いで歩きながら、次の約束をしようとしてる。私は心の中で、次こそは、と思っている。まだ弱くて、臆病な心で、でも思う。いつかは――もし出来たら次は、言いたい。言えるようになりたい。
「うん。また行くね」
 精一杯声を立てて、私は告げた。
 繋いだ手の体温が、今はちょっとだけ熱かった。

 一つに繋がったような二人分の影が、帰り道に伸びている。黙って歩き続ける影を眺めながら、私は思った。
 次に木谷くんの部屋へお邪魔する時は、お菓子を作って持っていこう。借りたCDも聴いてみて、もう少し音楽の話が出来るようになろう。それからもう少し、強くなろう。
 初めてのデートは静かに終わろうとしていた。大きな手と離れてしまう時間が近づいてくる。寂しかった。
 木谷くんはどう思っているんだろう。私の手を握り締めたまま、その後はずっと黙っていた。繋がった影は歩き続けるばかりで、お互いの方を向くことはまだ出来なかった。
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