Tiny garden

君が好き。

 穏やかだった空気は一転、ぴんと張り詰めたみたいだった。
 私だけがそう感じているのかもしれないけど、――本当にそんな感じがした。呼吸が止まり、心臓が止まった一瞬。それは本当に短い間だけで、すぐに全てが動き出す。忙しなく回り出す。ぐるぐるし始める頭の中が、温室に閉じ込められたように暑い。

「え……あ、あの」
 喉が詰まって、上手く声さえ立てられない。だけど時間は過ぎていく。止まったりせず、動いていく。
 木谷くんが瞬きをする。再び唇が動いたのは、その次の瞬間だった。
「並川さんのことが好きだ」
 あまり大きな声じゃなかったけど、はっきりと聞こえてきた。
 好き、という言葉。木谷くんが言った、こと。今までだって知らなかった訳じゃないのにとても、強く響いた。
「好みのタイプとか、考えたこともなかった。他の女の子のことを気にしたこともないから、よくわからない。でも、並川さんが好きだ。それだけはちゃんとわかってる」
 そこまで言って、木谷くんは少し笑った。はにかんだような、だけどすごく男の子らしい顔で笑っていた。
「きっと俺、どんな並川さんでも好きだよ」
 どんな私でも、なんて――困る。困るよ。だって。
 木谷くんがどんな女の子が好きか、知りたかったんだ。そういう風になりたくて。木谷くんの好みにちゃんと合うような女の子でいたくて。

 私、変わりたいと思ってた。木谷くんの好みに合う女の子に変わりたいと思った。そうしたら、物怖じせずに何でも言えるようになれて、逃げ出したい気持ち、俯きたくなる気持ちも皆なくなってしまうと思っていた。だから知りたかった。木谷くんの好きな女の子になりたかった。
 私、ちびだし、きれいじゃないし、自分で嫌になるくらい引っ込み思案で、人と話すのが苦手だった。いいところなんて一つもないの、自分で知っていた。変わりたかった。こんな私でも好きになってくれた木谷くんの為に。木谷くんにもっともっと好きになってもらえるように変わりたいと思っていた。
 でも木谷くんが好きなのは、私、なんだ。
 どんな私でも好きだって、言ってくれた。

「わ、私……」
 声が震えた。
 もう、何と言ったらいいのかわからなくなっていた。
 うれしい? 幸せ? ちょっとだけ苦しい、恥ずかしい。どうしていいのか、すごく困る。喜んでいいのかな。笑った方がいいのかな。何か答えるべきなのかな。それとも、それとも。
「並川さんは」
 うろたえる私を見てか、木谷くんが先に言葉を継いでしまった。微かな笑みの浮かんだ顔は、だけどその時、緊張しているようにも見えた。
「俺のこと、好き?」
 問いかけられたのは意外な言葉。思わず息を呑む。
「え……」
 私はすぐには答えられなかった。木谷くんがそれを知らないはずはない。だって前に言ったもの。あの時はちゃんと言った。
 なのにどうして今になって、私に尋ねてくるんだろう。こんなに言いにくいこと。あの時以来言えてないような、難しいことを聞くんだろう。
 知らなかった、なんてことはないよね。私、あの時、言ったよね。ちゃんと聞こえるように言った。木谷くんも聞こえたって言ってくれた。それは確かだと思っていた。だけど――。
 一人、混乱と不安に駆られていれば、木谷くんはふと困ったような顔をした。そして低い声で言った。
「ああ、ごめん。何て言うか……不安だとか、そういうことじゃない。並川さんの気持ちは、わかってる」
 続く彼の言葉が、どこか遠くに聞こえた。
「知らない訳じゃないんだ。あの時、確かに聞いたから。でも、……もう一回聞きたくなった。あの時の言葉、もう一回言ってくれたらなって」
 深く、深く息をつく木谷くん。
 私は、その顔を呆然と見つめていた。相変わらず何も言えていない。
「俺のこと、好きなのかどうか。まだ好きでいてくれてるのかどうか。本当はいつも聞きたかったんだ。並川さんの声で、あの時の言葉を聞きたかった。言って欲しかった」
 そっか。そうだった。
 私、あの時はちゃんと言えたけど、あれからはずっと言ってない。
 言えなかった。恥ずかしくて、逃げ出したくなる気持ちのせいで、木谷くんの隣にいるのが精一杯だった。顔だって時々、まともに見られなくなってた。少し慣れたかと思えば、ちょっとしたことでまた逃げたい気持ちが強くなって、私は木谷くんの傍にいても俯いていることが多かった。だからそういう時、木谷くんがどんな顔をしているのかさえ、知らずにいた。一緒にいた時間は、もう短くなんかないのに。
 木谷くんは不安じゃないって言ってる。でも、本当はほんのちょっと、不安だったのかもしれない。どうしても心配してしまうこと、あったのかもしれない。私が家で、木谷くんのことを考えて、何だか堂々巡りばかりを繰り返してしまう時と同じように、木谷くんも私のことを考えて、結論が出なくて、どうなんだろうって思ってしまうこと、あったのかもしれない。
 この部屋で。木谷くんは私のことを、考えたりしたのかな。
 だとしたら、うれしいような、だけどすごく悪いような気がする。私がはっきりしないせいで、木谷くんを不安がらせていたんだとしたら。

 いつの間にか音楽が終わっていた。
 リピートにはしていなかったのか、部屋の中が静まり返る。二人きりの空気はどこか気まずくて、さっきまでの穏やかさが嘘みたいだった。身じろぎするのさえためらわれた。
「……ごめん」
 どうしてか、木谷くんが項垂れていた。一言も発さない、発せない私の前で更に続けた。
「無理強いするつもりもないから。本当に、並川さんが傍にいてくれることに不安とか、疑わしい思いがある訳じゃない。こうして傍にいてくれるだけでうれしいって、本当に思ってる」
 どうしてか、私の目の奥がじんとした。急に泣きたくなってしまった。
「でも、聞きたい。やっぱりもう一度、並川さんの気持ちが聞きたい」
 木谷くんも気まずそうだ。すごく悪いことでも打ち明けるみたいに言ってくる。でも、悪いことじゃない。おかしなことでもない。知りたいと思って当然だって、私も思う。
 私だって知りたかった。木谷くんのこと。だから木谷くんが私のことを知りたいと思ってくれるのも当たり前なんだ。
「今じゃなくて、いいから」
 そう、言ってくれた。
「いつか……もし出来たら、言ってくれないかな。聞きたい、ただそれだけなんだけど」
 緊張をあらわにした表情で、木谷くんが言ってくれた。私を見て、あまり冷静ではない眼差しで、もう一つ告げてきた。
「俺は、好きだ。並川さんのこと。俺もちっとも言えてないけど、こんな風に言ったのも初めてだけど、でも本当に好きだ」
 奥歯を噛み締めた。泣かないように。せめて、笑っていられるように。
 緊張していても、そういう風にはっきりと言える木谷くんが、今はとても羨ましいと思った。
 私は言えない。言えなかった。
 好き。
 好き、だよ、もちろん。
 でもその『好き』を、私は同じように口には出来ない。問いかけられた瞬間から、喉の辺りの水分が全部吹っ飛んでしまったみたいで、からからの空気が通り抜ける音だけ、聞こえていた。何も言えなかった。
 せっかく勇気が出せたと思ったのに。少しだけでも前に進めたような気がしていたのに、まだ足りなかった。ちっとも足りていなかった。もっと前に進まなきゃいけない。逃げたい気持ちも、俯きたくなる心にも負けないように、もっともっと強くなりたい。
 手が届かないままなんて嫌だ。
 せっかく、ここまで来れたのに。もう少しだって気がしているのに。

「ごめん」
 もう一度、木谷くんが言った時、私は慌ててかぶりを振った。
 だけどそれだけだった。首を動かした途端に涙が零れ落ちそうになって、歯痒くて、苦しくて、結局何も言えなかった。
「無理強いするつもりは、本当にないから。いつか、言えたらでいい。言えなくても……いい。俺は並川さんがいてくれるだけでうれしいから」
 弁解するように木谷くんが、言葉を続ける。
 そんな言葉を言わせていることに、私は堪らなく悔しくなった。なけなしの勇気を振り絞って、その時、声を出した。
「私、言うよ、言えるよ、ちゃんと」
 そう告げたつもりだったけど、上手く言えていただろうか。かさかさした不恰好な声になっていた。ただ呻いたようにしか聞こえなかったかもしれない。
 木谷くんは微かにだけ笑って、頷いた。
「今じゃなくていい」
 押し留められた。
 それで私も、泣かないようにしているのがやっとだったけど、ぎくしゃくと顎を引いた。
 私、言うから。ちゃんと言えるから。今は手が届かなくて悔しいだけだけど、でもいつかきっと。

 あの時の言葉をもう一度、木谷くんに。
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