言葉を誘う、緩やかな空気
不思議な空気だった。二人でいるのにあまり、どきどきしない。――ううん、どきどきはしている。木谷くんと一緒にいる時はいつだって、心臓の音が賑やかになる。
だけど不思議だった。どきどきしているのに、いつもの逃げ出したくなるような、それが無理なら俯いていたくなるような、そんな気持ちが現れない。まるで心が切り替わったみたいに、今の私は落ち着いている。
しばらく、お互いに黙っていた。音楽を聴きながら、ほとんど口を利かなかった。聴き入っているからか、何かを考えているからなのか、自分でもよくわからない。でもこんな沈黙も怖くない。それどころか居心地の良ささえ感じている。
初めて来たおうちなのに。木谷くんの部屋なのに、どうしてこんなに過ごし易いんだろう。
木谷くんはいつもの冷静な眼差しを、何気なく部屋のあちらこちらへと向けていた。何かを探しているという風ではなくて、ただぼんやりとしているみたいだった。退屈している訳じゃないってことも、木谷くんは一言も口にしなかったけど、私にはわかった。どうしてか、わかった。
時々目が合って、私も木谷くんも何となく笑った。目が合う瞬間も、笑い合う時間もごく短くて、すぐに掻き消えてしまう。なのにちっとも寂しくない。それどころか、恥ずかしくない。
ずっとここにいたくなるような、緩やかな時間が続いていた。
「……あのね、木谷くん」
気が付いたら、私は口を開いていた。
どうしてだろう、今はすごく、気持ちが楽だった。羽根みたいにふわふわ軽くて、今なら言いたいこともちゃんと、言えるような気がしていた。いつもは言えないような思いでも、言えるかもしれないと思った。
木谷くんの部屋で、木谷くんの好きな音楽を聴きながら、二人だけで過ごす穏やかな時。それは不思議なくらいに居心地がいい。言葉が自然と外へ出ていく。
「私ね、もっと木谷くんのことを知りたかったんだ」
打ち明けたくなる。思っていること、思っていたこと。
「知りたかった?」
木谷くんが怪訝そうに聞き返してくる。
目が合って、やっぱりまだちょっとだけ照れた。でも逸らさずに答えた。
「うん」
私たちが一緒にいた時間はそれほど長くないけど、でも、もう短い付き合いって訳でもない。それなのに私は木谷くんのことをあまり知らない。表情とか、声とか、どんな時にどんなことを言うのか、知っているつもりでいたのに――知らないことがたくさんあった。
たくさん、ある。木谷くんの好きな場所は、ついこの間まで知らなかった。誕生日もまだ知らない。好きな音楽も、部屋の様子も、日曜日の過ごし方も今日初めて知ったこと。
知りたい。私、木谷くんのことをもっと知りたい。他にもいろんなことを教えてもらって、木谷くんを誰よりも知っている存在になりたい。
「今まで、一緒にいてもあんまり話、出来なかったから」
私はおしゃべりが得意な方じゃない。木谷くんといても静かにしていることが多くて、それでも居心地いいって思ったりもした。
「話すの苦手だから、私からは滅多に話しかけられなかった。でも」
やっぱり、今は『知りたい』気持ちの方が強いんだ。
俯きたくなる心、恥ずかしがる思いよりもずっと強くて、私の背中を押してくれる。木谷くんの傍で、こうして穏やかに過ごしていられるからこそ、そう思える。知りたい、教えて欲しい。
「木谷くんと、いろんなこと、話したいの」
自分でもわかるくらい、たどたどしい私の言葉。
だけど木谷くんはじっと聴き入ってくれていた。私を見つめて、冷静な眼差しで。
「それで私、木谷くんのこと、もっといっぱい知りたい。だから教えて。木谷くんのこと、いろんなこと、私に教えて」
お願い、してみた。木谷くんに、私から。
すると木谷くんは、あまり考えないうちに答えてくれた。
「うん」
その後ではにかむように笑った。
「そうだ、そういえば、なかったよな。こういうこと、お互いのこととか話したり、聞いたりすること」
そうだった。今まではあまり、なかった。何となく、話さなくてもいい、話せなくてもいいって思っていた。木谷くんの傍にいられたらそれだけで温かくて幸せだから、それでいいんだって。
でも、今の気持ちは違う。
「ちょっと、照れるけど」
目を伏せた木谷くんが言う。
「……話そう、いろんなこと。聞きたいこととか、知りたいと思うことがあったら、いつでも聞いてくれて構わないから。並川さんが知りたがってることなら、何でも話すよ。何でも聞いて欲しい」
少しだけ赤い頬っぺたが見えている。私の方がずっと、赤くなってるだろうけど。
「その代わり俺も、並川さんのことで知りたいと思うことがあったら、聞くから。俺も並川さんのこと、もっとよく知りたいから……差し支えなければ、答えてくれないかな」
木谷くんの言葉に、今度は私が頷いた。やっぱり考えないうちに、すぐに答えた。
「うん」
だって答えなんて、とっくに決まっていた。
木谷くんのことを知りたいと思うのと同じように、私だって、木谷くんに知ってもらいたかったんだ。いろんなこと、たくさんのことを。
それから、私は木谷くんにいくつかの質問をした。
誕生日、聞いた。忘れないように手帳に書き留めておいた。
「そんなに覚えておかなくてもいいから」
なんて言って、木谷くんは笑っていたけど、私は絶対に忘れたくなかった。その時が来たら、せっかくだから何かプレゼントしたいもの。あと、相性占いも試してみたかったし……こっそり、ちょっとだけ。だから血液型も一緒に聞いてしまった。
それと、好きなアーティストも聞いてみた。予想はしていたけど、木谷くんは音楽のことには詳しくて、びっくりした。木谷くんが好きなのはイギリスのアーティストらしくて、何人かずらずらっと名前を教えてもらったけど、さすがに覚え切れなかった。でも、今掛かっているのは好きって言ったら、貸してあげようかと言ってくれた。他のCDも何枚か貸してくれた。
「こういうのが好きなら、多分好みに合うと思う」
私に貸すCDを選ぶ時も、木谷くんはほとんど迷わなかった。きっとすごく、詳しいんだろうな。私には知らない、注意して見ることもなかったようなアーティストばかりだったけど、家に帰ったら聴いてみようかなって思った。木谷くんの好きな音楽、もっと知ってみたいから。
それに、もう一つ気になっていたこと。
どんな女の子が好きなのかも、聞いてみた。
「――え?」
尋ねた瞬間、木谷くんが大きく目を見開いて、あ、と思う。
あ、まずかったかな。こんなこと、聞いちゃいけなかったかな。
慌てて私は説明を添えた。
「あの、ち、違うの。変な意味じゃなくって……その」
変な意味じゃないって、どういうことだろう。自分で言っておいて妙な言い種だと思う。
「こ、この間ね。雑誌、買ったんだ。一緒に行った本屋さんで、買ったの……覚えてるかな」
「ああ、うん。買ってたな」
木谷くんが頷く。少し怪訝そうに。
私は焦りながら、必死に言葉を続けた。
「それでね、いろんなお洋服とか、きれいなモデルさんとか見てて、思ったの。木谷くんってどんな女の子が好きなんだろうなって」
一口にきれいな人って言っても、人によってタイプが全然違うんだ。あの雑誌に載っていたモデルさんは皆、本当にきれいだったけど、やっぱり個性的でそれぞれが全然違っていた。
人の好みだってきっと、それぞれ全然違うものなんだと思う。デートの為の必勝メイクとか、必勝ファッションって言ったって、誰にでも通用する訳じゃないと思う。だから私、木谷くんの好みを知りたい。木谷くんの好きな女の子だけ、知っておきたい。
他のことよりもずっと、聞くのが恥ずかしかったけど。
「どう、……かな? 教えてくれない?」
恐る恐る、もう一度尋ねてみた。
私の問いに、木谷くんは戸惑ったようだった。目を伏せて、
「うーん……」
短く唸る。そのまましばらく考え込んでいた。私はその間、黙って待っているだけだった。
難しい質問だったかな。木谷くんならそんなこと、今までに考えたこともないんじゃないだろうか。それか、私が質問するの、恥ずかしかったみたいに、答えるのだって結構恥ずかしいのかもしれない。悪いこと、聞いちゃったかな。
もじもじしながら待っていた私は、やがて顔を上げた木谷くんとばっちり目が合ってしまった。
木谷くんがすっと目を逸らす。一度、ためらうようにした。その後でぽつりと言った。
「俺、さ」
「う……うん」
相槌を打ったつもりの私に、彼は呟き声で教えてくれた。
「……並川さんが、好きなんだ」
瞬間、あんなに賑やかだった心臓が止まってしまったような気さえ、した。