Tiny garden

優しい時間のはじまり

 木谷くんが住んでいるのは、マンションの四階らしい。
 エレベーターに乗って四階まで行くと、すぐに着いた。開いた扉の向こうには、人気のない、静かな通路が伸びていた。風の音だけがしている。
 通路にはドアが何枚か並んでいて、そのうちの一枚の前で木谷くんは足を止める。ポケットから鍵を取り出し、素早くドアを開けた。
「どうぞ」
 短く促されて、私はおずおずと玄関へ入る。
「あの……お邪魔します」
「気にしなくていいよ。本当に誰もいないから」
 そう言って木谷くんは笑ったけど、気にしない訳にはいかなかった。
 脱いだ靴を揃えると、木谷くんも中に入ってきて、ドアを閉める。かちり、鍵を掛ける音が響いた。

 誰もいない木谷くんの家は、しんと静まり返っている。お父さんもお母さんも仕事に出ているんだって聞いていたから、本当に木谷くん一人きりなんだろう。……今は、私がいるけど。
 まだ目が慣れなくて、壁の白さだけしかわからない。お花の香りみたいな、爽やかないい匂いがしていた。自分の家とは違う、よその家の匂い。どきどきする。
 先に立って玄関を離れた木谷くんは、入ってすぐのところにあるドアを示して、私に告げる。
「そこ、俺の部屋。すぐ行くから、入って待ってて」
「え?」
 思わず聞き返したけど、木谷くんは奥へと歩き出してしまう。
「あの、木谷くん……」
 戸惑いながら呼びかけたら、ちらっと振り向いてくれた。
「飲み物持ってくる。何でもいい?」
「う……うん」
「わかった。座って、のんびりしてていいよ」
 頷いた木谷くんは、また奥へと向かう。
「あ、お構いなく……」
 後から気付いて、私が掛けた言葉は、ちゃんと届いただろうか。特に返事はなく、木谷くんの姿は廊下の奥、リビングらしき部屋へと消えてしまった。
 残された私は仕方なく、示されたドアを開ける。

 木谷くんの部屋は大きな窓のある、きれいな部屋だった。窓から明るい光が射し込んでいて、外に慣れてしまった目に優しい。クリーム色の壁紙の、過ごしやすそうな部屋。
 家具はあまり置かれていなかった。本棚が一つと机が一つ、あとはクローゼットのドアが見えるだけのシンプルな部屋。本棚も机もきちんと片付いていたし、床に物が落ちているということもなかった。
 本棚には本よりもCDの方が多く収められていて、音楽が好きなんだなあってすぐにわかる。中央あたりの段には立派なコンポもあった。一番下の段には雑誌がいっぱいに詰め込まれていたけど、それも全部音楽雑誌だ。
 学校にいる時でもよく、一人で音楽を聴いている木谷くん。一体どんな音楽が好きなんだろう。後で質問してみよう。
 あんまりじろじろ見ているのも失礼かと思って、私は床に座ると、そのまま俯いた。それからじっと、木谷くんが戻ってくるのを待つ。
 でも、ここが男の子の部屋なんだな、と思う。考えていたよりもずっときれいで、整頓されていて、驚いた。それに木谷くんらしい。あまり物を置いていないところも、ちゃんと片付けられているところも。

 やがて、足音が近づいてきた。
 私が視線を上げた時、ちょうどドアが開いて、おぼんを手にした木谷くんが戻ってくる。おぼんの上には麦茶の入ったコップが二つ、それにおせんべいの袋があった。
「お待たせ。麦茶でいい?」
 木谷くんの問いに、私はすぐに頷いた。
「うん、えっと、ありがとう」
「いや、ごめん。何かあるかなと思ってたのに、大した物もなくて。せんべいくらいしか出せないけど」
 床に腰を下ろした木谷くんは、先に座っていた私との間に、おぼんをそっと置いた。それからちょっと困ったように笑う。
「私、おせんべい好きだよ」
 かぶりを振って私が言えば、木谷くんはほっとしたようだった。
「そっか、じゃあどうぞ」
 おせんべいの袋を開けて、私に差し出してくる。私はおじぎをして、それを受け取った。
「ありがとう、いただきます」
「たくさん食べて。麦茶もおかわり、あるから」
 いただいたおせんべいは美味しかった。
 でも、私も何か持ってくるべきだったかな、と後から思う。せっかく招いてくれたのに、手ぶらで来たのは失礼だったかもしれない。次の機会には――もし次があったら、だけど、その時は必ず、何か持ってくるようにしよう。その為にも木谷くんの好きな食べ物、聞いておかなくちゃ。
 私と木谷くんはしばらく、黙っておせんべいを食べていた。
 食べるのに夢中になっていた訳じゃないけど、何か話すにしても、何から切り出したらいいのかわからない。木谷くんも同じように思っているのか、しばらく口を開かなかった。

 こうしていると、すごく静か。
 私たち二人しかいないんだ。今、木谷くんの家の中には。
 いつもは木谷くん、一人きりなんだっけ。お父さんもお母さんもお仕事に出ているから。こんなに静かなところに一人で、寂しくなったりしないのかな。木谷くんなら一人でも、上手に過ごしていそうだけど。
 日曜日の午後は陽射しも柔らかくて、木谷くんの部屋はぽかぽかと暖かかった。明るい部屋の中で二人、黙っているのは少しもったいない気もする。緊張のせいで気まずくて、何も言えずにいるのがもどかしい。ためらっている時間も惜しいのに、私はおせんべいをかじりながら、どうしようどうしようとそればかり考えている。
 何から話そう。何から聞いてみよう。木谷くんのこと、いろいろ知りたい。今日は初めてのデートだから、いろんなこと、たくさん話したい。

 私が口を開こうとした時、だった。
 さっと立ち上がった木谷くんが、本棚の方へと歩み寄る。そしてこっちを振り返って、慎重に尋ねてきた。
「何か、掛けてもいい?」
 手を伸ばしているのはコンポのボリュームだった。私は一瞬戸惑ったけど、すぐに答えることが出来た。
「うん」
「曲、何でもいいかな。並川さん、どんなのが好き?」
 どんなの、だろう。今度はすぐには答えられなかった。私は家にいる時、音楽を聴いたりはしない。どっちかって言うと、本を読んでいる方が好きだったから。だから好きな曲を聞かれても、ちゃんと答えられない。
 少し考えてみて、ふと、思いつく。――そうだ、こういう時こそ。
「木谷くんの好きな曲がいいな、私」
 思い切って、そう告げてみた。
 知りたい。私、木谷くんのこと。木谷くんの好きな音楽ってどういうものなのか、聴いてみたい。せっかく木谷くんの部屋に来ているんだから、木谷くんが普段聴いているような曲を、一緒に聴いてみたい。
 木谷くんはびっくりしたようだった。目を見開いて、私に尋ね返してくる。
「え? いいの?」
「うん。私、あまり詳しくないし、それに」
 口にするのは少し、恥ずかしい。でも、そっと言ってみた。
「木谷くんがどんな曲を好きなのか、知りたいんだ」
「……わかった」
 少し笑って、木谷くんは棚からCDを選び始める。あまり迷わず、一枚を抜き出した。コンポにセットすると、動き出す微かな音がする。
 それから間を置かずに、部屋の中にはゆっくりとしたメロディと、優しい歌声が流れ始めた。
「これ、洋楽?」
 歌詞が日本語じゃなかったから、聞いてみた。床に座り直した木谷くんが、すぐに答えてくれる。
「そう。好きで、いつも聴いてる。並川さんは苦手じゃない?」
「ううん、こういうの好き」
 音楽はちっとも詳しくないけど、こういう穏やかで、優しい曲は好き。聴いていて気持ちが落ち着いてくるから。
 二人きりの静けさにも、こんな曲はぴったりな気がする。部屋の中に満ちていく歌声が、気持ちまでゆっくり解きほぐしてくれるみたいだ。
「いいな、こんな過ごし方も」
 木谷くんが呟くように言う。
 私も本当にそう思ったから、しばらく目を閉じて、木谷くんの好きな音楽に聴き入っていた。
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