Tiny garden

きっと当たり前のこと

 いつもの通学路に、背の高い姿を見つけた。
 途端に私の足は止まって、そこから進むのが難しくなる。
 朝早く、皆が登校していく時間帯。同じ制服姿の子たちが何人か、足を止めた私を不思議そうに振り返った。私がまごまごしている間に、たくさんの人が脇をすり抜けていく。
 木谷くんはまだこちらを見ない。電信柱の傍に立って、ぼんやり地面を見つめている。誰を探すでもなく、何をするでもないそぶり。でもわかっていた。――きっと、私を迎えに来たんだ。普段は通らないはずの、私の通学路を選んで。

 私の家と木谷くんの家は、学校から向かうと同じ方角にある。だから帰り道は一緒にしていた。だけど木谷くんの家は私の家よりももう少し、学校から遠くにあるらしく、帰りは同じ道でも、朝、登校する時に一緒になったことはなかった。足の長い木谷くんはいつも私より先に学校へ着いている。実は何度か、登校時間を早めてみたことがあったのだけど、それでもこの道で木谷くんの姿を見かけることはなかった。
 でも、どうして今日に限って。私は俯いて、鞄を提げた手を見遣る。温かくて大きな手が、私の手を引いてくれたのは昨日のことだった。それから、……初めて、唇に触れられたのも。
 嫌じゃなかった。初めてのことでもちっとも嫌じゃなくて、むしろ幸せな気持ちになれた。あんな風に気持ちを伝える手段があるんだって、初めてわかった。木谷くんが私をどのくらい強く想っていてくれたのか、はっきりとわかった。
 だけど、ふと我に返ると無性に恥ずかしくなった。おかしなことじゃなく、恋人同士ならきっと当たり前のこと――そう思ってみても、恥ずかしくてしょうがなかった。ようやく慣れてきた木谷くんの存在が、また遠くなってしまったようだった。木谷くんは多分、私よりも少し大人だ。当たり前のことを、当たり前だとちゃんと知っているのだろうから。

 どのくらい、突っ立ったままでいただろう。
 ふと背高の姿が動いて、こちらを見た。表情が動く。笑ったか笑わないか、曖昧な顔つきで私を見た。
「並川さん」
 躊躇いなく、木谷くんが私を呼んだ。それで私も立ち尽くしている訳にもいかず、ふらふらと不安定な足取りで木谷くんに近づいた。寒い朝なのにもう頬が熱かった。
「おはよう」
「お……おはよう」
 声を掛けられて、ぎくしゃく頷く。だけど挨拶は返せた。木谷くんがほっとしたのがわかった。
「迎えに来たんだ」
 私の隣にそっと並びながら、彼は言う。
「ちょっと早く起きられたから、並川さんと一緒に学校行こうと思って、待ってた」
「そ、そうだったんだ……」
 答える声が上擦った。じゃあ一緒に行こうか、そう言えたらよかったのに、言葉が続かなかった。
 木谷くんが少し笑った。
「ごめん、待ち伏せしてて」
 穏やかな笑い声とその言葉とに、思わず俯いてしまう。
「ううん……大丈夫」
 大丈夫って、何が大丈夫なんだろう。せっかく待っててくれたんだから、お礼くらい言ったらいいのに。迎えに来てくれたこと自体はうれしくない訳じゃないのに。
 木谷くんはごく自然に歩き出す。覚束ないステップを踏む私の足に合わせて、ゆっくりと通学路を進み始める。私もそれには抗わないつもりでいたけど、木谷くんの態度には拍子抜けしていた。こんなに意識しているのって、私だけ?
 昨日のこと、木谷くんは何とも思っていないんだろうか。いつもと同じように話しかけられて、いつものように隣り合って歩いていて。交わす言葉が少ないのも普段通りだったけど、今日は何だか不安さえ感じた。ぎこちなく思っているのは私だけなの? 木谷くんが普通にしているなら、私だって普通にしてなきゃいけない。でも、そうするのってすごく、難しい。昨日の出来事が初めてのことだから、とてもとても難しい。
 こっそり盗み見た木谷くんの横顔は、やっぱりいつもと同じだった。極めて冷静で、穏やかで、手の届かない高さにある。昨日は至近距離から見たその顔も、普段通りの距離に戻っているけど――。
「並川さん」
「えっ」
 急に呼び掛けられて、思わず喉から声が漏れる。
 木谷くんは歩きながら、ちらと私を見た。冷静な眼差し。
「英語の宿題、やってきた?」
 落ち着いた口調で問われた。
 不意を打たれた私は、問いの意味を理解するまでに時間が掛かってしまった。別にどうってことない質問なのに。
「う、うん、一応……。木谷くん、は?」
 聞き返すと、木谷くんも頷いてみせた。
「俺も一応。でも一箇所、訳文に自信がなくてさ。学校着いたら、並川さんの答えも見せてくれないか」
「うん、いいけど……」
「ありがとう。助かる」
 控えめに笑う顔が見えて、また俯きたくなる。木谷くんはびっくりするほどいつも通りだ。昨日のことなんて、まるで何もなかったみたいに。
 でも何もなかった、なんてことはない。確かにあった。昨日まではとても居心地がよくて、一緒にいるのに悪いことなんてなかった木谷くんが、あっという間に顔を合わせづらい相手になってしまうような出来事があった。傍にいるだけで胸がどきどきして、どうしていいのかわからなくなってしまうようなことが、私たちには起こってしまった。あれは夢じゃなかった。本当に起こったことだったはず。
 それとも、木谷くんのようにしているのが正しいんだろうか。あんなことがあった次の日でも、何事もなかったように平然と振る舞うのが正しいやり方なんだろうか。どんな恋人同士でもそういうもの? いちいち意識して、真っ赤になってしまう私の方が、変なの?
「並川さん」
 歩きながら、また名前を呼ばれた。
 今度は答えることも出来ずに、視線だけを彼へと向ける。やはり落ち着いた表情の木谷くんは、何気ない調子でこう言った。
「今日の放課後、本屋に行くんだけど、付き合ってくれる?」
「え? ええと……」
「取り寄せてた参考書が届いてるはずだからさ。出来れば、一緒に来て欲しいんだ。昨日ほどは待たせないから」
 木谷くんはきっと、何でもないつもりで言ったんだろう。でも今の言葉で、私は昨日の出来事をまざまざと浮かび上がらせてしまった。
「う……ん、あの、私」
 舌が縺れて、もう満足に返事も出来ない。どうしよう。どぎまぎし過ぎている。木谷くんだって、こんな私を見たらおかしいって思うに違いないのに。
「あ、無理にとは言わないけど」
 隣を歩く、彼の声のトーンが落ちる。
 慌てて視線を上げると、ちょうど目を逸らされたところだった。ぎくしゃくと空を見上げた木谷くんが、低く呟いた。
「……ごめん。出来るだけ、普通にしていようと思ったんだけど……難しいな」

 多分、木谷くんは私よりも大人だ。少なくとも昨日の出来事が、恋人同士なら当たり前のことなんだって知っている。当たり前のことをして、それを平然と受け止めようとするだけの強さを持っている。それから、そんなごく当たり前のことで、だけどとてもわかり易く、私を想ってくれていることを伝えてくれた。木谷くんは私よりもずっと大人なんだ。
 私は、すぐに木谷くんのようにはなれないと思う。でも私も、木谷くんに想いを伝えたい。恋人同士ならそんなことだって当たり前なんだ。いちいち不安にさせたり、困らせたりしないで、いつだって好きという気持ち、伝えていかなくちゃいけない。
 私、もっと木谷くんのことを好きになりたい。その気持ちを私に合ったやり方で、ちゃんと伝えられるようになりたい。

 深呼吸をした。私は、その後で言った。
「木谷くん、……む、迎えに来てくれて、ありがとう」
 たったそれだけの短い言葉でさえ、相当の覚悟が必要だった。でも言えた。木谷くんに聞こえるように言えた。
 木谷くんは私を見た。虚を突かれたような顔をしていた。
「あの、今日、付き合うから」
 私はたどたどしく続ける。
「……うん」
「えっと、一緒に行こうよ、本屋さんに」
 いくらでも待つよ。木谷くんのこと。ずっとずっと待っていられる。
 だから私のことも待っていて欲しい。時間は掛かってしまうけど、こんな些細なことですら躊躇って、覚悟して、ようやく言えるような私だけど。
 いつか必ず、追い着くから。
「うん、わかった」
 ゆっくりと、木谷くんが頷く。その後で視線を私から外して、彼は少しだけ笑んでみせた。
「こちらこそ、ありがとう」
「ううん」
 かぶりを振って、私は一つ、息をつく。

 最初の一歩は踏み出せた、かもしれない。でもまだまだこれからだってわかってる。
 私、もっと木谷くんを好きになりたい。好きって気持ちをちゃんと伝えられるようになりたい。それだって恋人同士なら当たり前のことなんだから、いつか私にとっても当たり前のことになっていたら、いいなと思う。
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