Tiny garden

目線の高さはフェンスを越えて

 木谷くんの身長は、百八十四センチもある。
 私は百四十九センチしかない。だから木谷くんがとても羨ましい。
 背が高いといいことずくめだと私は思う。本棚の高いところにも手が届くし、人混みの中でも埋もれてしまうことがない。外で待ち合わせをしても木谷くんのことはすぐに見つけられるし、私服でも制服でも、何を着ても似合うような気がする。
 木谷くん本人に言わせると、背が高いのはそういいことばかりでもないらしい。
「家でも、よく頭をぶつける。ドアを潜る時は身を屈めなきゃ危ないんだ」
 控えめに笑う木谷くんは、いつも身を屈めているせいか、猫背気味だった。そう言えば教室の戸口でも、何度か頭をぶつけているのを見た。
 だけどそれでも私は、木谷くんが羨ましい。

 今みたいに、お弁当を食べた後の昼休み、屋上のフェンスに寄り掛かってぼんやり空を見ている時間にもそう思う。
 私はフェンスの網目越しに、夏の空や校庭の緑を見ている。そうしていたって景色はちゃんと見えるけど、やっぱりフェンスがなければもっとよく見えるのにって思ってしまう。金網が風に揺すられ、軋む音を立てるたび、指先を挟まないかとはらはらしてしまう。
 すぐ隣にいる木谷くんはその点、大丈夫だ。両肘をフェンスのてっぺんに乗せている。組んだ腕の上に顎を乗せ、フェンスを乗り越える目線で景色を見ている。きっと、網目越しに見るよりも広々とした景色を見ている。
 木谷くんの目にはこの景色、どんな風に映っているんだろう。
 私には見えないものが見える、木谷くんのことが、私はとても羨ましかった。
「どうかした?」
 フェンスの上に肘を乗せたまま、木谷くんがこっちを向いた。
 見上げていた私は少し恥ずかしい思いをしながら、答える。
「背が高くて、いいなあって」
「まだ言ってる」
 苦笑した木谷くんは、三十五センチも下にある私の顔を見て、
「背が高くて得することなんて、あまりないよ」
 と言った。
 そうかなあ。私は納得が行かない。
「背が低いよりはいいと思う」
 だって、ちびでいいことなんてないもの。得したことなんてなかった。あまり、どころか全然、一つもいいことがなかった。
「高いところに手が届かないし、子どもっぽく見られるし、人混みに紛れ込んじゃうと出られなくなっちゃうし……」
 ぼそぼそと言った言葉に、木谷くんは肩を揺らして笑った。その度にフェンスが小刻みに揺れた。
 私はフェンスから手を離して、隣にある木谷くんの横顔を見上げる。ぐんと首を伸ばして。
「笑わないで」
「ごめん」
 木谷くんは口元を押さえた。だけどまだ、目が笑っている。
 私も別に怒った訳じゃないから、つられて笑いながら言う。
「私、木谷くんみたいになりたい」
「俺みたいに? 背が高くなりたいの?」
「うん」
 勢い込んで頷くと、今度は困ったような顔をされた。
「そんなに高くならなくてもいいよ。並川さんは今くらいがちょうどいい」
 ちょうどよくない。
 もうちょっと、せめてあと五センチは身長が欲しかった。
 出来ればそれよりもたくさん、木谷くんの肩くらいまで。今のままだと背伸びをしても、木谷くんの肩まで頭が届かないから。木谷くんと同じくらいになるのは大き過ぎるかな。でも憧れてしまう、百八十四センチ。
「この景色、木谷くんの目にはどんな風に見えるのか、見てみたいの」
 きっと私よりもたくさんのものが見えてるに違いないんだ。フェンス越しじゃない景色、金網の網目越しに見るのとは違う夏空の色、校庭の緑。クラスの皆の顔だって、木谷くんの目からは違って見えてるんじゃないかと思う。もちろん、私の顔も。
「どんな風にって……」
 木谷くんは息をつきながら、フェンスを乗り越える視線を巡らせた。いつも穏やかで落ち着いた目が、空の色を映してちらと光る。
 不意に身を起こした木谷くんが、フェンスから腕を離した。
 こちらに向き直って私を見下ろす、きわめて冷静な眼差し。
「並川さんの背は伸ばしてあげられないけど」
 と、おもむろに彼は言った。
 口元はちょっと笑んでいて、楽しそうな顔にも見えた。
「俺が見てる景色を見せてあげることは出来るよ」
「本当?」
 聞き返した私は、でも、どうやってだろう、とすぐに首を傾げた。
 木谷くんが小さく手招きをする。
「じゃあ、こっち来て」
「え? こっち?」
 もう十分に近いところにいたけど、私はもう一歩、隣の木谷くんに歩み寄る。
 隣にいた木谷くんは一歩こちらに踏み出して、私の後ろ側に回った。
「ちょっとごめん」
 断る言葉の意味を確かめる前に、お腹がぎゅっとなって、上履きが屋上の床から離れた。
 目の前で、さあっとフェンスの網目が下がっていく。あっと言う間にフェンスのてっぺんまで、視線が辿り着く――ううん、私の目線が上がってるんだ。フェンスの高さよりも上に。
「ふう」
 木谷くんが息をつく。その吐息が耳たぶをかすめて、もっと下へと落ちていった。
 私の目に見えているのは、フェンスを乗り越えて覗く夏空の青さだ。
「え、ち、ちょっと、木谷くん」
 だけど景色どころじゃない。夏の陽射しが近付いて、頭がかっと熱くなる。
 息が詰まった。だって、木谷くんが私を持ち上げているんだもの。お腹のところに腕を回して、子どもを抱くみたいに後ろから持ち上げている。
 そんなので容易く持ち上がってしまう私も私だけど、いきなりこんなことをする木谷くんには、呼吸が止まるくらいびっくりした。
 お腹の辺りが苦しいけど、木谷くんの腕は温かい。制服越しに触れてる背中が温かい。首筋に柔らかい木谷くんの前髪を感じて、くすぐったいような、逃げ出したいような気分になる。
「見える?」
 木谷くんが聞いてきた。
 その声はすぐ耳元で聞こえた。
「え、あの、私」
 上手く答えられずにいると、もう一回、
「この目線の景色、見える?」
 と尋ねてきた。

 はっとして、私はようやく景色に目を向ける。
 フェンスを乗り越えられる目線が、捉える情景の広さ。夏空の青、校庭の緑、眼下に広がるグラウンドの、真っ直ぐな白線までよく見えた。
 グラウンドを越えた先に町並みが見えた。どこまでもどこまでも続いていく建物の列。奥の方まで見える色とりどりの家々の屋根。
 これが、木谷くんがいつも見ている景色なんだ。
 木谷くんの、あのきわめて冷静な目が映している景色。
「見えたよ」
 私は、溜息混じりにそう告げた。
「すごく、きれい」
 驚くほどきれいだった。素敵だと思った。木谷くんの目が捉えている景色は、広くて、きれいで、優しかった。
 木谷くんに支えられ、持ち上げられて見た景色。夏の陽射しが近くにあって、頭がじりじり焦げてくる。足が宙に浮いているから、落ち着かない気持ちになった。
 でも、嫌じゃなかった。素敵だと思った。木谷くんをより近くに感じられることが――木谷くんの優しさに触れていることが。

 どのくらい持ち上げて貰っていたのか、やがて木谷くんは、ゆっくり私を下ろしてくれた。
 足が着いた時、ほっとした。木谷くんの顔をいつもみたいに見上げた時も、ちょっとだけほっとしてしまった。
「ありがとう」
 夏の陽射しは遠ざかったのに、まだ頭が熱かった。私はもごもごお礼を言う。
「木谷くんの目線の景色、ちゃんと見えたよ」
「うん」
 笑って、木谷くんは頷いた。
 それから一つ息をついて、告げてきた。
「やっぱり並川さんは今くらいがちょうどいいかな」
「そう?」
 私は首を傾げる。木谷くんの目線で見た景色はとてもきれいだったから、背が高いのはいいことだと思うのに。やっぱり、もうちょっとは大きくなりたいのに。
 だけど木谷くんは言う。
「抱っこする時、楽だから」
 高いところから私を見下ろしながら、言う。
 多分呆気に取られた顔をしている私を、いつもみたいに、きわめて冷静な眼差しで見下ろしている。
「だから俺も、背が高い方がいいな。これからも並川さんを抱っこしてあげられるし」
「え……」
 お腹に手を回された時の息苦しさが甦る。
 つっかえるように私は、
「これから、も?」
 と尋ね、木谷くんは平然と、淀みなく答えた。
「これからも。いつでも見せてあげるよ」

 木谷くんの目線から見えないように、かっと熱くなる頬を隠してみる。
 ちびのままでもいいかなって、ちょっと思ってしまったのは秘密。
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