君が好きだと言ってしまった
あと五センチ。せめてあと五センチあれば良かったのにと思う。
整列の時に『前へ倣え』をしたことがない私は、例えば今みたいに図書館の本棚から本を取ろうとする時にも苦労する。
読みたい本まで手が届かない。爪先立ちでも指がかするだけ。届きそうなのに、ぎりぎり届かない。
踏み台を探したら、向こうの奥で司書さんが使っていた。お仕事中のようだったから声は掛けられなかった。だから諦めようか、それともいちかばちかジャンプで取ろうかと迷っている。図書館はいつだって静かだから、声を出すのも音を立てるのも躊躇われた。
「んっ」
ぎゅっと結んだ唇の奥で、ごく抑え込んだ声だけが漏れる。うんと伸ばした腕と爪先立ちの足がそろそろ限界だった。
「……どれ?」
ふと、ぼそりと低い声が響く。
必死で手を伸ばしていた私に、大きな影が落ちて来た。
そのままの姿勢で振り返る。振り返ってから、手を引っ込めたくなった。どうして声だけで気付けなかったんだろう、と思った。
私の真横に立っていたのは、同級生の木谷くんだ。
教室でもいつも見上げるしかない顔が、きわめて冷静に私の手の位置を見ていた。木谷くんからは、ほとんど視線を上げなくてもその本の背表紙が見えることだろう。足元から伸びる影もぐんと長い。
「あ……」
驚きに私が声を出せずにいれば、木谷くんは小首を傾げてもう一度、
「どの本? 俺、取るよ」
と抑えた声で尋ねて来た。
私は慌てて伸ばした手を引っ込める。無様なところはもうばっちり見られていて、今更隠す必要もないのに背中に隠した。
それから、口の中でもごもごと答えた。
「あの、二段目の、緑色の本……」
言ってから頬がかっと熱くなる。
この図書館は西日がきつかった。日が暮れる頃になってじりじりと室温を上げている。
「これ?」
造作もなく木谷くんは手を伸ばして、本棚の上から二段目に触れた。
私は後ずさりしてから、その段に緑色の表紙の本がたくさんあったことを思い出し、説明を添える。
「ううん、あの、そのシリーズの四巻なの」
「ああ、こっちか」
木谷くんの手が少しずれて、本を掴んだ。
緩く伸ばした長い腕と、猫背気味の高い背丈、それにいついかなる時でも冷静な眼差しの木谷くんは、私にないものばかりを持つとても羨ましい人だった。だから私は、いつも木谷くんを見ている。木谷くんがこちらを向いていない時だけ。
今も、本棚を見ていて私の視線には気付かない木谷くんが、本を容易く抜き取った。
そしてすぐに腕を下ろして、私の鼻先に差し出す。
「これで良い?」
「う、うん」
私は伏し目がちに、それでも顎を引いて答えた。
その後で、手を伸ばして本を受け取る。
「ありがとう」
お礼もちゃんと聞こえるように、辛うじて声と勇気を振り絞った。
「うん」
木谷くんは頷いたんだろう、長い影が僅かに動いた後で、くるりと背を向けて私の傍を離れた。すぐに、背高の本棚の向こうに見えなくなってしまった。長い影まで一緒に見えなくなった。
ほっとして私は溜息をつく。
受け取った緑の表紙の本を抱えて、しばらく本棚に出来た空白を見上げていた。
すごいな、木谷くん。あんな高さにも簡単に手が届いてしまうなんて。
私には見えない世界が見えて、私の届かないところにも手を伸ばせて、本当になんてすごい人なんだろう。
それに、とても優しい。困っていた私に声を掛けてくれて、私の為に本を取ってくれた。何でもないことみたいに親切にしてくれるから、私はますます木谷くんが羨ましい。
お礼、もっとたくさん言えば良かった。上手く言えっこないと思うと、私の舌は余計動きが鈍くなる。木谷くんの前ではいつもそうだった。
だけど、木谷くんがいない時には言えた。
「好き、だなぁ……」
静かな図書館の中でも、ごく声を潜めた呟きは、辺りに全く響くことがなかった。
背が小さくて声も小さい私には、だけどこんな利点があるのかもしれない。心の中に閉じ込めておけない声をそっと外へと逃がすことが出来る。本人を目の前にしては言えない言葉を、遠くへ放り投げて、忘れてしまうふりが出来る。
最後に残るのは良かった、と言う思いだけ。良かった、木谷くんの優しさに触れられて。木谷くんのことを好きでいるのが誇らしい。
本を抱き締めて、本棚の前を離れようとした私は、胸を張った拍子にきわめて冷静な眼差しと出くわして思わずびくりと足を止めた。
立ち去ったと思っていた木谷くんが、本棚の陰からこちらを覗き込んでいた。
僅かに微笑んだような表情で彼は言った。
「良かったね」
え、何が。
胸の内を読まれたようで私が目を見開くと、木谷くんは低く抑えた声で続ける。
「好きな本が読めて。本、大好きなんだろ」
穏やかな言葉だった。
だけど、私の心臓を跳ね上がらせるには十分な言葉でもあった。
聞こえていたんだ。――私はすぐに察した。さっきの呟き、十分に声を潜めてこっそり零したつもりだったのに。静まり返る図書館の中でさえ響かなかった声なのに。木谷くんはすぐ近くにいたんだろうか、私の声を拾ってしまった。聞こえてしまったんだ。
そして彼は、私が本を好きだと言ったのだと思っている。それは事実と違っていた。
真っ白になってしまった頭を振って、私は、
「ち、違うの」
と言った。声が奇妙に震えた。
本棚の陰から覗く木谷くんの顔が、訝しげになる。
「違ったの? 本が?」
「ううん、あの、そうじゃなくって。さっきの」
「さっきの?」
「好きって言ったの、本のことじゃなくて――」
そこまで言い掛けて、はっとする。
本のことじゃなくて、私が好きなのは何か。誰のことか。そんなこと、木谷くん本人に打ち明けられるはずがなかった。
我に返るのが遅過ぎた。
視線を上げれば、木谷くんはぽかんとしている。私が咄嗟に彼の言葉を否定してしまったから訝しく思っているに違いない。
どうして否定したんだろう。真実を知られるくらいなら、まだ誤解されたままの方が良かったのに。誤魔化すにはどうしたらいいのか、もうわからない。
「あの……」
差し込む西日のせいで、頬だけじゃなく全身が熱かった。
「その……」
渇いた喉から絞り出す声もがさがさとかすれた。
次の言葉が続かない。何と言って弁解していいのか全くわからない。
耳が痛くなるほど静かな図書館の中で、私はそのまま俯いていた。声を出すのは諦めた。俯き続けたままでいた。
木谷くんが私に興味を失って、どこかへ行ってくれればいいのにと思った。
だけどそうはならず、代わりに私の上に影が落ちた。長い長い影が伸びて来た。
視線を落としていてもわかる、木谷くんの足元から繋がる影。
「あのさ」
不意に躊躇いがちに切り出された声は、ごく低い木谷くんのものだった。
少し、奇妙に震えていたけど。
「あんまり思わせぶりにされても、……困るんだ」
木谷くんはそう、言った。
思わず私は顔を上げ、木谷くんの目が、泳ぐように宙を彷徨っているのを見つけた。
やがてそれが止まる。ぴたりと、私を正面に見据えて。
彼は意を決した表情で私に尋ねた。
「さっきの、あれはつまり、俺、期待していいってことなのかな」
私は木谷くんを見上げていた。
今までになく、真っ直ぐに見上げていた。
ここで逸らしてはいけないと思った。それから、そう、この時に口篭もってもいけないと思った。逃げたい衝動はいつものようにあったけれど、それに従っては駄目だ。
今度は私が意を決する番なのだから。
答える時に声がかすれて、彼に聞こえないことがあっては困る。聞き返されてももう言えない。だからありったけの勇気を振り絞って告げよう。声だけは図書館の中に響かないように――だけどはっきり、彼にだけは聞こえるように。
私は、誇らしい気持ちを言葉にする。その気持ちに見合った声を出そうと、思った。
「あのね、私は――」
木谷くんは後で、ちゃんと聞こえた、と言ってくれた。