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いつか、どこかで(4)

 ロックとエベルは市警隊の詰め所を飛び出し、辺りに皇女の姿がないかと探した。
 時刻は陽射しの強まる昼下がりで、長い間屋内にいたふたりは眩しさに思わず顔をしかめた。それでも目を凝らして街路を見回してみたものの、まばらな通行人の中に件の彼女は見当たらなかった。
「本当にあの方がいらっしゃったのか……」
 呆然とつぶやくエベルは、まだ現実として捉えきれていないようだ。
 ロックとて信じがたいという思いはある。雲の上の存在だと思っていた皇女が自分の目の前に現れたなど、今まで想像すらしたことはなかった。だが先程会った相手が皇女だという確信もあり、それは数々のやり取りを反芻すればするほど疑いようのないものになっていく。
「もう少し探してみますか?」
 ロックの問いに、しかしエベルはかぶりを振った。
「私がこの帝都であの方を探し当てれば、必ず人目について騒ぎになる」
 そうだろう。ロックはエベルの美しい横顔を見上げながら同意した。だがその表情は依然しかめられたままだ。
「あの方がどのように人目を避けているのか、不思議だな……」
「道案内に優れた護衛でもいたんでしょうか」
 ロックはそう口にしてみたが、なんとなく違うような気がしていた。詰め所の食堂に現れた彼女はひとりきりだったし、護衛がいるなら目にもついてしかるべきだろう。ましてロックの身分が貧民街の仕立て屋と知られている以上、護衛が何の策もなしに皇女を近づけるとは思えない。
「少し歩くが、近くに公園がある。そこまで移動しよう」
 エベルは当たりに目を配りながら言い、ロックもうなづいた。

 詰め所前の道は少し進むと賑やかな商業地区へと続いている。買い物客が多く見られるその通りを早足で抜けると、その向こうに一回り開けた広場があった。ここがエベルの言う公園のようだ。
 そこには石畳が敷かれ噴水が置かれていたがが、貴族特区のものとは違い、彫刻や花壇などで飾られている様子はない。ただ木陰で休めるように並んだ長椅子があり、石畳の上では商品を並べる行商人がおり、噴水では交易商の馬たちが咎められることなく水を飲んでいる。その横では吟遊詩人と思しき二人連れが竪琴と縦笛で曲を奏でていて、近くの長椅子に座る数人の観客が耳を傾けていた。
 静けさとは無縁の公園の中、ふたりはやや噴水から離れた長椅子に並んで腰を下ろした。ここにも木陰があり、そして公園の喧騒からはいくばくか遠ざけられている。そしてずっと歩いてきた身には、緑の匂いがする風が何よりのごちそうだった。

 長椅子に座ってすぐ、エベルは長い溜息をついた。
「あの方とは何度かお会いしたことがあるが、思えば私に対しては、いつも哀れむような眼をされていた」
 人目を避けてもなお潜められたその声に、ロックもここまで連れてこられた理由を察した。
 彼の秘密はやはり公にはできないものだ。
 だが皇女は、その事実を知っていた。
「父を亡くし、若くして爵位を継いだ私を気づかってくださったのだと思っていたが……呪いのことをご存じだったとはな」
 そう語るエベルの表情はやや険しい。
 相手が皇女と言えど、秘すべき事実を知られていたとなれば警戒して当然だろう。人狼の呪いが実在すると白日の下に晒されれば、エベルやグイドは多くのものを失い、人々は未知の存在に恐怖を抱く。そして帝都には不信と偏見がはびこるようになり、今の平穏は失われるに違いなかった。
「でもあの方は、ご自分も同じだとおっしゃっていました」
 ロックも小声でそう応じる。
 するとエベルは眉間に皴を寄せた。
「あの方の瞳の色は?」
「灰色でした、間違いありません」
 きちんとこの目で見たから確かだ。ロックの記憶の中にも残っている。
「では、私とまったく同じというわけではないのだろう」
 不可解そうに首をかしげたエベルは、その後で物憂げに続けた。
「他にもあるということなのか。あの方を蝕む違う呪いが……」
 皇女がどのような呪いにかけられているのか、そこまでは本人も語らなかった。
 だが人によっては『祝福』なのだとも言っていた。そして彼女自身はその力を得ることを望んでいなかった、とも――そうした扱いも人狼の呪いとよく似ている。
 人狼の呪いを新たな力として言祝ぐ人々と、ロックはこれまで何人も出会ってきた。彼らは皆、何かに操られたようにその力を欲していたが、ひとたび正気に返れば自ら望んで人狼になりたかった者などいなかった。
 皇女も同じような目に遭ったのだろうか。
 この帝都で、いや帝国全土で誰よりも庇護され大切にされているはずの彼女が――。
「あの方に不幸な災いが降りかかったのなら由々しきことだが、そんな話はついぞ聞いたことがなかった。どういうことなのか……」
 木陰の穏やかな薄暗さの中、エベルはしばらく考え込んでいた。心地よい風が何度か彼の鳶色の髪を揺らしていったが、結局答えは生まれなかったようだ。ゆっくりと目を伏せた。
「いや、わからないのはそれだけではないな。なぜあなたの前に現れ、そのお話をなさったか。なぜ帝都の、市民すら寄りつかぬような場所にいらっしゃったか。解せぬことばかりだ」
「あの場所にいらっしゃった理由なら」
 彼の疑問にロックはわかることだけ答える。
「帝都を見て回っているのだとおっしゃっていました。もうじきここを離れるから、と」
 たちまちエベルが面を上げ、金色の瞳でロックを見た。
 その目にロックは深くうなづき、続ける。
「帝都の景色を心に刻んでおこうとしていらっしゃるのかもしれませんね。名残を惜しんでおられるのかも……」
「……そうだな」
 ふたりの間にしんみりとした空気が落ちた。

 皇女が結婚を控えていることは帝都の誰もが知っている。
 彼女の嫁ぎ先が、はるか遠い北方であることも。
 ロックは『北方』がどんな場所かよく知らない。雨の少ない帝都では冬が来てもめったに雪など降らないが、北方では冬が来るたびに大地は凍てつき、一面真っ白な雪で覆われるものらしい。人々は毛皮の服を着込み、毛織物の技術も発達していると聞く。その程度の知識があるだけで、そこに住む人々の暮らしぶりまでは想像もつかなかった。
 もちろん皇女はロックよりも多くの情報を知りえていることだろう。だが二年前まで社交界にも顔を出していなかった彼女が北方を訪ねる機会はなかっただろうし、行ったこともない土地で、親元を離れ、皇女としてではなく伯爵夫人として過ごすことになる日々がどんなものかは――。
 彼女の胸中に思いをはせると、不思議とロックの胸も痛むのだった。

「北方の第一伯爵――ユスト伯でしたっけ、どんな方なんですか?」
 ロックが問うと、エベルは少しおかしそうに笑った。
「どんな、か。難しいな、私も姿をお見かけはしたが話をしたわけではない」
 ユスト伯もエベルも同じ『伯爵』のはずだが、彼の口調からはどことなくの距離が感じられた。北方で内乱を沈めた功績により爵位を与えられたばかりのユスト伯と、帝都で生まれ育ち、父親から爵位を継いだエベルとではその地位も違うのだろう。
「無論、皇帝陛下が認められた相手だ。長らく戦に乱れていた北方を平定した功績もある、間違いなく皇女殿下の婿となるにふさわしい方だろうな」
 エベルはきっぱりと断言した後で、気づかわしげに続けた。
「だが……北方は遠い。帝都から馬車で半月もかかる上、山越えもある。一度嫁がれれば皇女殿下が帝都に戻られる機会はそうないだろう」
「そんなにですか、それは寂しいでしょうね」
 ロックも先日、故郷の村を訪ねてきたばかりだ。
 歓迎される身ではなかったし、会いたい顔があるわけでもなかったが、それでも見覚えのある山林の景色を目にした時は懐かしさに打ち震えた。
 故郷とはそういうものだろう。その記憶は心の奥深くに刷り込まれ、たやすく消し去ることはできない。そしていい思い出の有無にかかわらず、蘇るたびになぜか胸を締めつける。
「前にも話したが、私も帝都が故郷だ」
 同情を寄せるような、複雑そうな微笑と共にエベルが言った。
「帝都以外の土地で暮らしたことはないし、考えたこともない。だからここを離れるとなれば――」
 目をすがめて見上げた先には、少し霞んだ白亜の城がある。
 商業地区からはやや距離があるものの、それでも目視することができた。皇帝が皇子たち、そして皇女と共に暮らすあの高い城は、帝都の象徴でもある。帝都の壁の中にいれば、あの城はどこからでも見えるという。
「――きっと、寂しいだろうな」
 エベルはぽつりとつぶやいた。
 それでロックも、改めて皇女のことを考える。結婚を間近に控えた彼女が、婿となる北方の第一伯爵について、そして北方という土地についてどのような印象を持っているかはわからない。ただどんな思いがあったとしても、故郷から離れるという事実にはいくばくかの切なさがあることだろう。
 それを埋めるために、彼女はあえて危険を冒してまで帝都の中を歩き回っているのかもしれない。
「『またいつか、どこかで』っておっしゃってましたよ」
 ロックは彼女とのやり取りを思い出しながら、エベルに告げた。
「だからまたお会いすることもあるかもしれません。僕の店のこともご存知だったようですし」
 厳密には、彼女ははっきりと『壁の外でロックに会ったことがある』と言っていたのだが――エベルに対してもそれは少々言いにくかった。皇女殿下が貧民街をうろついていたらそれこそ由々しき事態だ、彼女には人狼の力もないのだろうし。
 だが詳細を伏せてもエベルは驚いたようだ。
「あの方は、あなたが仕立て屋だとご存知だったと?」
「そのようです。僕にはお会いした覚えもないんですけどね」
「ではあなたが花嫁衣裳を仕立てると知り、その腕を見極めにいらしたのではないか」
「まさか!」
 エベルの指摘をロックは笑い飛ばそうとしたが、彼はあながち冗談でもない様子だった。
「この出会いが偶然だとは考えにくい。あの方はすでにあなたの技術を買ってくださっているのかもしれない」
「そうかなあ……だとしたら、もっと服飾についてお尋ねになると思いますよ。そういう話はちっともしませんでしたから」
 やはりロックには、エベルの言うようには思えない。
 ただ、引っかかっていることはある。彼女の身に宿る呪いがどのようなものかは結局わかっていないし、初対面でないというなら一体いつ、どこで会ったのかも思い出せない。ロックは物覚えは悪くない方だし、立ち居振る舞いの上品な、だがフードを目深にかぶった少女など、貧民街ではよく目立つだろう。一度会ったら忘れられない相手だと思うのだが。
「ドレス作りの構想はまとまったのか?」
 エベルが尋ねてきたので、ロックは肩をすくめた。
「いえ、あまり。お会いしたことのない方のために服を仕立てるのは、やはり難しいです」
「だが今は違う。その点で、あなたは好敵手たちを一歩出し抜いていると言える」
「そう思いたいです、せっかくの機会でしたから」
 直に皇女の顔を見られたことは、この膠着状態を打破するまたとない好機と言えた。今なら彼女に似合う色合いを思いつけそうだ。ロックは忘れないよう、しっかりと記憶に留めておく。
「この商業地区に、フォーティス服飾店がある」
 長椅子から立ち上がったエベルが、ロックに向かって笑顔で告げた。
「以前私に手紙を寄越した仕立て屋だ。覚えているだろう」
「ええ」
 いち早く皇女の花嫁衣裳を仕立てると宣言し、帝都内の仕立て屋に『宣戦布告』をしたと話題になった、あの店のことだ。
「あなたさえよければ、これから敵情視察というのはどうかな」
 彼の誘いに、もちろんロックは即答した。
「ぜひ行きたいです。あの店には一度入ってみたいと思っていて」
「では行こう、ここからそう遠くない」
 そう言って、エベルが手を差し伸べてくる。
 何気ない仕種ではあったが、ロックは少々照れながらその手を握った。そして長椅子から腰を上げる。
 ただ立ち上がった後もエベルは手を離さず、そのまま歩き出そうとする。
「あの、手を繋いだままですよ!」
「せっかくだからこのまま行こう、天気もいいしな」
 エベルは楽しそうに声を弾ませ、とびきりの笑顔を向けてきた。
 浮かれているようにも見える彼の態度に、ロックもつられたようにはにかんだ。気恥ずかしさはありながらも、彼に引かれるままついていく。

 公園の中には相変わらず多くの人がいた。行商人の露店にはぽつぽつと客が寄り、交易商たちは情報交換なのか話に花を咲かせている。吟遊詩人はちょうど一曲終わったところのようで、次々と投げかけられるおひねりと歓声が広場を一層賑わせている。
 貧民街では見ることのない景色を、ロックはエベルと手を繋いだまま眺めて歩いた。胸が無性に高鳴るのは物珍しさのせいか、それとも彼の手の温かさのせいだろうか。落ち着かない気分では判別もつかなかったが――。
 ふと、ロックの目が見覚えのある人物を捉えた。
 帽子を掲げる吟遊詩人の前でかわいらしく控えめな拍手を送っていたのは、フードを目深にかぶった小柄な少女――あの皇女殿下だ。
「あっ……」
 思わず声を上げかけたロックに、彼女の方も気づいたようだ。フードの中であどけない口元がちらりと微笑み、唇の前に指を立ててみせる。
 黙っていて、ということらしい。
 ロックが戸惑いながらうなづくと、小さく手を振ってくれたのが見えた。そのこともエベルには言えないまま、ロックはそっと彼女から視線を外す。

 あの方はむしろ純粋に街歩きを楽しんでやしないだろうか。
 そんな思いが胸をよぎった。
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