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この手を離さずに(1)

 マティウス邸に戻った一同は、息つく間もなく応接間に集まった。
 司祭の少年は未だ意識を失ったままで、客室の一つに運び込まれている。彼の見張りはフィービが買って出た。
 また、クリスターは別の部屋で休ませている。彼は衰弱しており、また脚の具合もよくはない為、急ぎ医者を呼ぶこととなった。

 となれば話を聞き出す相手はアレクタス夫妻の他にない。
 まだ呆然としているプラチドとラウレッタ、ダニロを中心に、ロック、エベル、グイドとミカエラが彼らを取り囲んだ。
「……取り返しのつかないことをしたと思っています」
 人の姿に戻ったプラチドが、力のない声で言う。
 彼はエベルから服を借り、乱れた髪は妻のラウレッタによって整えられていた。だが顔つきはこの数時間で一気にやつれてしまったようだ。酷く老け込んだようにさえ見える。
「我々夫婦は明らかに正気ではなかった。特に私は、妻のこととなると冷静ではいられなかった」
 そう語るプラチドの肩に、ラウレッタがひしとしがみつく。
「妻は妹を亡くしてから塞ぎ込みがちになっていた。義妹に一人娘がいたことはわかっていたが、彼女の死後はぱったりと足取りが途絶えて、そのことが一層妻を不安定にさせた」
 その頃のロックはフィービと出会い、貧民街で仕立て屋を始めていた。
 自分に非があるわけではないが、胸の痛む話だと思う。
「恐らくはその隙を、教団に突かれたのだろう」
 プラチドが続けた言葉に、グイドが片眉を上げた。
「『恐らくは』? 曖昧な仰りようですね」
 するとプラチドは顔を曇らせる。
「言い訳と取られるかもしれないが……私も妻も、教団に誘われた経緯を正確には覚えていないのです」
「……まさか」
「申し訳ない。ただダニロがいくらかは覚えていてくれたので、いつ頃からかはわかります」

 そのダニロの証言と照らし合わせるに、アレクタス夫妻が人狼教団に加わったのは三ヶ月ほど前のことらしい。
 ラウレッタの気鬱を少しでも和らげられないものかと、夫妻は足繁く神聖地区の聖堂に通っていた。そこで教団のものに声を掛けられ、あれよあれよという間にあの遺跡に足を運ぶようになってしまったらしい。
 ダニロ曰く、当初は寄付金目当てで引き入れられたのではないかとのことだった。実際、アレクタス家の資産は相当の額が教団へと流れていたようだ。
 だが、夫妻の苦悩が司祭の目に留まった時――。

「私は、旦那様をお止めしたのです」
 ダニロはその時のことをよく覚えているようだ。蒼白な顔で身体を震わせた。
「ですが旦那様のお耳には何も、どんな制止の言葉さえ届かなかったのでございます。あの司祭にそれを勧められてからというもの、まるで人が変わったように『祝福を受けねばならないのだ』と繰り返されて……」
「お前にも済まなかった、ダニロ」
 プラチドが辛そうに詫びると、ダニロは堪えきれなくなったのか、声を上げて泣き始める。
 それでロックはもちろん、エベルやミカエラまでもが辛そうな顔になった。
「もっと早くにお会いできていたら、止められたのかもしれませんね……」
 思わずそう口にしたロックに、しかしプラチドはかぶりを振る。
「君が背負い込んではいけない。全ては我々の成したこと」
 そして痛みを覚えたように、自らのこめかみに手を添えた。
「それに……たとえ君の言葉があったとしても、私はあの誘惑には抗えなかっただろう。あの声は、繰り返し頭の中に響いて私を導こうとしていた……」
「あの声とは?」
 エベルがとっさに身を乗り出す。
「あなたもあの彫像に呼ばれたと仰るのですか、アレクタス卿」
「ええ、あれは確かに彫像の声でした」
 プラチドは頷いた。
「『その血を捧げよ、我が力を得よ』と――励ますような、むしろ甘美でさえある声でしきりに語りかけてくるのです」
 その瞬間、グイドが弾かれたように立ち上がる。
「同じだ! その声を、私も確かに聞いた!」
「お兄様……」
 ミカエラが美しい顔を凍りつかせれば、グイドも悔恨の表情で呻いた。
「あの声にそそのかされ、私もあの呪いを……あんなものに聞く耳持つのではなかった!」
 そうしてうずくまろうとしたが、彼もまたエベルから借りた服を着ていた。大柄の彼にそれらは少々窮屈だったようで、すぐに顔を顰めて立ち上がる。
「エベル、もっとゆったりした服はないのか! これでは打ちひしがれるのもままならん!」
「今度からはお前の服も用意しておこう」
 エベルは少しだけ笑ってから、鳶色の髪を憂鬱そうにかき上げた。
「どうやら、我々は同じ存在によって人狼の呪いをかけられているようだ。しかし何の為に、そして何人を犠牲にすれば気が済むのか……」

 その謎は、今なお全く解けないままだ。
 誰が、何の為に、どれほどの人間を人狼にしようとしているのか。

 ロックは当初、教団こそがその元凶であると思っていた。
 だが遺跡の外にいたミカエラによれば、エベルとグイドが騒ぎを起こした後、飛び出してきた信者たちは一様にこう唱えたという。
『自分が何故あそこにいたのかわからない。もう少しで呪いをかけられるところだった』

「念の為、彼らの名前と住まいは大方聞き出しておきました」
 ミカエラは浮かない顔つきで続けた。
「ですが……正直なところ、彼らからも有益な証言が聞けるかどうかはわかりません。何せ誰もが遺跡の外へ出た途端、詐欺師にでも遭ったような顔をしていたからです」
「彼らもまた、自らの意思で教団に入っていたわけではないということですか?」
「そういうことのようです」
 ロックの問いに彼女は頷く。
「彼らの多くは帝都に住まう平民で、寄付金を納められない者は遺跡の中で教団の為の労働に従事していたようです」
 ロックが見かけた、遺跡内の居住区画はそういう信者たちの為のものだろう。
 恐らくは彼らもアレクタス夫妻と同じ経緯で導かれ、教団に引き込まれたに違いない。
 だが彼らの誰もが自らの意思で動いていなかったとなれば、真相究明への残る手がかりはわずかだ。
「あの仕立て屋の男はどうなんだ」
 グイドが苛立った声でロックに尋ねた。
「攫われたとはいえ、あの場所で寝起きしていたのだろう。何も知らんわけではあるまい」
「もちろん尋ねてみるつもりです」
 ロックは頷いたが、過度の期待はしていない。
 あの遺跡で会った時でさえ、クリスターは酷く怯え、また疲弊していた。遺跡の中で見たものを逐一覚えていられるような精神状態だったとは思えない。
「あとは、例の司祭しかないか」
 エベルが天井を仰ぐ。

 この応接間の階上、客室の一つに彼はいる。
 マティウス邸に運び込まれ、フィービによって寝台に横たえられてもなお目を覚ますことはなかった。
 頭の怪我が響いたかとロックは恐々としたが、当然ながら父たちには一笑に付された。

「しつこいようだが、あれはただの子供にしか見えん」
 グイドは彼が司祭だという事実からして疑ってかかっている。
「本当に彼奴が教団を率いていたのか?」
 するとここで、ラウレッタが口を開いた。
「ええ。間違いありません」
 夫の気遣わしげな眼差しを受けながら、記憶を手繰るように語る。
「確かに彼は幼い少年でした。身体つきも小さく、口調もあどけなくて……でも教団の教えについて語る時、その口調はいつでも自信に満ちていました。まるで全てを知っているかのように」
 それはロックの記憶とも合致する。
 子供そのものの話しぶりでありながら、あの司祭の言葉には淀みがなかった。迷いどころか、考え込むことすらなかった。すぐ傍で誰か大人に耳打ちでもされているようにさえ見えた。
「それなら、何より有益な手掛かりということになるが――」
 ラウレッタの話に、エベルが興味を示した時だ。

 応接間の扉が叩かれ、ヨハンナが顔を覗かせた。
「閣下、フィービ様からの伝言でございます。かの少年が目を覚ましたと」
 途端、応接間に居合わせた全員が立ち上がった。

 司祭の元へは、エベルとロックだけが向かうことにした。
 アレクタス夫妻はまだ落ち着いておらず、また司祭と顔を合わせればどうなるかもわかったものではない。グイドは『彼奴と冷静に顔を合わせる自信がない』とのことで、ミカエラも当然のように兄の傍に残った。
 二人が客室へ向かうと、部屋の前にはフィービが待っていた。
「……来たか」
 出迎えた彼は何とも言えない表情をしている。苦笑と忌々しさと苛立ちが入り混じったような――。
「何か問題でもあった?」
 気づいたロックが小声で尋ねると、父は溜息まじりに扉を指差す。
「会えば、わかる」

 三人は客室の扉をくぐり、揃って中に立ち入った。
 室内にはランタンが灯り、温かい光で照らし出されている。例の司祭は寝台の上で半身を起こしていたが、三人を見るなり小さな身を竦ませた。
「ひっ」
 それは恐怖に引きつるただの悲鳴だった。
 人々をあんな目に遭わせておいて、今更怯えるとは――ロックは内心腹を立てたが、エベルは至って紳士的に声を掛ける。
「気がついたかな、司祭殿。気分はどうだ」
 ところが彼はそれに答えず、毛布を引き上げて顔を覆い隠してしまう。がたがた震えているのが毛布越しにわかった。
「ちょっと、隠れるんじゃないよ」
 ロックはすかさず噛みついたが、フィービがそれを手で制する。
 そして大きな手で毛布を被る背中をさすってやっていた。
「さっき話したことを、もう一回説明してくれ」
 フィービに促され、少年は恐る恐る毛布から顔を出す。

 赤茶色の瞳は涙に潤み、この場に詰めかけた三人を代わる代わる見上げていた。
 これがあの司祭とは信じがたい。幼いながらに堂々たる態度を思い返し、ロックもようやく疑問を覚える。

「え、えっと……」
 少年は、聞き覚えのある声を発した。
「実はその、遺跡に住んでた時のこと、あんまり覚えてなくて……」
「何だって!?」
 愕然とするロックに、少年は身を竦ませる。
「あ、あの、少しだけならわかります。傍でずっと声がしてて、その言う通りにしていたら安心だって思って……『司祭』だって呼ばれてたこともうっすらと、覚えてはいるんです」
 まさか、司祭さえもが操られていたとでもいうのだろうか。
 それではこの一件の真相を知る者は、誰もいないということになってしまう。
「何でもいい、覚えていることだけでも話してくれないか」
 エベルも血相を変えて訴える。
 しかし少年は困ったように目を泳がせるばかりだ。何も言おうとしない。
「君の名前は? あの遺跡にはいつから? ご家族はいるのか?」
 簡単な質問をぶつけられても、なぜか答えられないようだった。
「本当に、何にも覚えてないの?」
 落胆と戸惑いで、ロックもすっかり脱力していた。
「僕があんたをぶん殴ったことは? あの仮面越しに……」
「――『僕』?」
 少年が目を瞬かせる。
 次の瞬間、彼は大きく息をついた。
「『僕』……」
 どこか懐かしむようにその単語を繰り返したかと思うと、はっと面を上げる。
「そうだ! 僕、カートっていいます」
「カート、それが君の名前か?」
 エベルの問いかけに、カートはしっかりと頷いた。
「はい。どうしてだろう、自分の名前さえずっと忘れてて……」
 そして小さな手をそばかすの浮いた頬に添え、しばらく呆然としていたようだ。
 やがて、ぽつぽつと語り出す。
「思い出しました。あの仮面を、僕は畑仕事をしている時に拾ったんです」
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