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未来への契り(4)

 ロックの部屋まで辿り着いた時、エベルは既にずぶ濡れだった。
 それでもドアの前までロックを庇い抜き、最後には優しく下ろしてくれた。

「ほら、濡れずに帰ってこられただろう」
 鳶色の髪から雫を滴らせ、得意げな顔をしている。
 だからロックは手巾を取り出し、背伸びをしてその雫を拭った。
「あなたがびしょ濡れじゃないですか……風邪を引いてしまいますよ」
「この程度、どうということはない」
 エベルは思いのほか大雑把に濡れた髪をかき上げる。
「あなたが無事ならそれでいい。では私は、これで失礼しよう」
 そして案じるロックを宥めるように一度笑った後、立ち去ろうと背を向けた。
 ロックは慌てて呼び止める。
「待ってください、拭くものを持ってきますから!」
 それでエベルは振り返り、今度は苦笑いを浮かべた。
「心遣いは嬉しいが、これからまた雨の中を帰らねばならない。今拭いたところで変わりはなさそうだ」
 雨は今なお降り続き、貧民街の屋根という屋根に打ちつけている。
 夜空も雲に覆われたまま、しばらく晴れる見込みはなさそうだった。
「でも……」
 ロックは目の前に立つエベルを見上げた。

 鳶色の髪はもちろん、着衣だって水を吸って色が変わってしまっている。ロックを見つめ返すその顔にも今まさに一筋、また一筋と水滴が伝い落ちていた。
 一方、自分は庇ってもらったおかげで服の裾が少し濡れた程度だ。持ち出してきた売上台帳も無事だった。
 エベルの好意もわかってはいるが、このままお礼だけ述べて帰すというのはあまりにも――自分の気が済まない、と思う。

 それでロックはためらいがちに切り出した。
「では、熱いお茶を入れます」
 必死になっていると自覚しつつ、早口気味に続ける。
「少し温まってからお帰りになっては? 急いで用意をしますから」
 するとエベルはどう答えようか迷ったらしい。金色の瞳を一瞬だけ泳がせた後、やはり苦笑してみせる。
「言いにくいのだが、ロクシー」
「どうしました?」
「あなたは男の格好をしているのに、男心を理解してはいないようだ」
 思わぬ指摘にロックは目を瞬かせた。
「僕がですか?」
「ああ」
「そうかな……確かにわかると言い切れるのは、僕自身の心だけですが」
 男の姿に憧れはありつつも、上手く真似られている自信はないのがロックだ。それが逆に功を奏し、軟弱者の男として振る舞うことには成功している。
 だがエベルはそんなロックをたしなめるように言い切った。
「先日の私なら嬉々としてお招きにあずかっていたが、今宵はあなたのお父上に頼まれている。このまま上がり込んでしまえば、あなたを無事に送り届けたことにはならないからな」
 遠回しではあったが、彼の言わんとするところはロックにもわかった。
 思わず頬を赤らめつつ、それでも食い下がりたくなる。
「そんな、お茶を飲むだけですよ」
 ロックはそう口にしてから、あたかも誘っているような自らの物言いに気づき、動揺した。
「べ、別に引き止めてるわけじゃ――あ、引き止めてるのかな、これ……あの、本当に変な意味じゃなくて、ただ僕もあなたの為に何かしたくて……」
 弁解しつつ、どんどんしどろもどろになっていく。
 そんなロックを、エベルは薄い笑みを湛えて眺めていた。しばらくして、笑うように息をついてからこう言ってくれた。
「そこまで言われては仕方ない。少しだけお邪魔しようか」
「少しだけ……?」
「そう、ほんの少しだ。挨拶をする間だけ部屋に入れて欲しい」

 ロックは部屋のドアの鍵を開け、エベルを中に招き入れた。
 滴る雫はたちまち床に水たまりを作り、彼は申し訳なさそうに足元を見下ろす。
「ああ、床が汚れてしまった」
「大丈夫、後で拭けばいいだけです」
 それをロックが笑い飛ばすと、次にエベルはこう言った。
「あなたの服も濡れてしまうだろう。私が帰ったら着替えてくれ」
「え?」
 聞き返すより早く、エベルの腕がロックの身体を捕まえた。
 ずぶ濡れの胸に抱き込まれて、早くもロックの服が雨水を吸い始める。じわじわと伝染するように濡れていく。それでも冷たい着衣越しにエベルの温かさが感じられ、ロックは決して不快ではなかった。
「何か、催促しちゃったみたいですね」
 照れながら胸の中で呟くと、エベルはゆっくりと背を撫でてくれる。
「このくらいなら、いつでもしてあげよう」
「ありがとうございます」
 ロックは幸福感に目をつむった。
 と同時に、気がつかぬうちに胸に巣食っていた不安が紛れていくのも感じる。
 どうやらニーシャに肩入れするうち、余分な不安まで飼い込んでいたようだ。
「あなたがいなくなったら……って、考えちゃったんです」
 ぽつりと呟く。
「そんなことあって欲しくないですから、いなくならないでくださいね」
「当然だ。あなたを置いてどこへも行ったりしない」
 エベルはきっぱりと答えた。
「それに私が姿を消せば否応なく騒ぎになる」
 貧民街の人間と違って、エベルは市民権のある帝都の人間、それも伯爵閣下だ。
 行方知れずになれば誰かしら気づくだろうし、すぐに捜索が開始されるだろう。ましてや彼の傍にはヨハンナやルドヴィクスといった使用人もいるのだから。
「私としてはあなたの方が心配だ」
「僕は平気ですよ。父も傍にいてくれますし」
「それはそうだが……クリスターの件はまだ何とも言えないからな」
 そう言って、エベルはロックに頬をすり寄せる。
「頼むからどこへも行かないでくれ、ロクシー」
 大切な宝物を慈しむように、可愛がるように、きつく抱き締めてくれていた。

 ロックもその抱擁のひとときを、まるで味わうみたいに堪能していた。
 あまり長く引き止めるわけにはいかない。だからこそ、黙ってこの時間を享受していた。

 濡れた服越しに、今日採寸した通りのエベルの身体を感じる。
 そして微かに彼の匂いがする。
 人狼の時とは違い、ほのかで心地よい人の肌の匂いだった。
 そういえば彼が初めて店に来た翌日、フィービは『野良犬の臭いがする』と言って顔を顰めていたものだ。匂いごと変わってしまう人狼の呪いは奇妙なものだが、そもそも体格も質量も変わるのだから今更の話ではある。

 そして彼の匂いを感じ取るうち、ロックはふと思い出す。
 クリスターの部屋に充満していたあの甘い匂い――香木の匂いを、自分はやはり知っている気がする。
 昔、こうして抱き締めてもらっている時に感じた匂いだ。

「あの香木の匂いを、母がさせていたことがあるんです」
 思い出したままに、ロックはそう口にした。
 抱き締められた時、母のエプロンのポケットからこんな匂いが漂っていた。あれは母の店に泥棒が入り、売上金が盗まれた日のことだった。人口の少ない山村でも犯人は見つからず、途方に暮れるロックを慰めて母は言った。
 ――大丈夫。お金なら何とかなるからね。
「母が、持っていたことがあって……」
 蘇る記憶にロックが眉を顰めると、エベルも尋ねてきた。
「お母上は確か、あなたと同じ仕立て屋だったな。香木を好んでいたのか?」
「いいえ。持っていただけで、焚いたところは見たことがありません」
 山村の貧しい仕立て屋が好んで持っているような代物ではない。
 ただ、母の身の上を聞いた後では腑に落ちる。
 虎の子の香木が金に替わってしまった時、ベイル・フロリアは何を思っただろう。
「父が言うには、うちの母は帝都の下級貴族の生まれだったそうです」
 ロックは面を上げ、エベルに打ち明けた。
 当然ながらエベルは驚き、息を呑んだ。
「そうなのか?」
「ええ……と言っても母は出奔したそうですし、もう関わりはないそうですが」
 だが思い出してみれば、ということはあった。
 他の記憶の中にも、母の生まれを証明するものが潜んでいるかもしれない。ロックはそう思う。
「お母上の家名は?」
「ベイリット・アレクタスが本名だと、父が」
 素直に打ち明けた途端、エベルの顔色がさっと変わった。
 ロックを抱き締めていた腕が離れ、代わりに両手が肩に置かれる。そうして顔を覗き込んできた彼が、真剣な面持ちで問う。
「その話をあなた以外に知る者は?」
「僕に教えてくれたのは父だけです」
 多少気圧されつつ、ロックは答えた。
「お話ししたのはあなただけです、エベル」
「……ならば、もう誰にも言わない方がいいだろう」
 エベルはいつになく硬い表情で告げてきた。
「アレクタス家とは直接の交流こそないが、噂は聞いている。姉妹の妹が家を出ていき、婿を取って家を継いだのは姉。だが跡取りがなく、養子を取る話も上がっているが、血縁のない者を迎え入れるかどうかで揉めているそうだ」
 いっぺんに告げられた情報を、ロックもすぐには呑み込めなかった。
 するとエベルは優しく、噛み砕くように言い添える。
「今の話を公にすれば、あなたが後継ぎとして求められるかもしれない、ということだ」
「僕が!?」
 ロックは愕然とした。
 現実味に乏しかった母の身の上話に、とんだおまけがついてきたようだ。しかしまさか、貧民街の仕立て屋が貴族様の後継ぎなどと――。
「でも父が言うには、母と生家にはもう関わりがないって……」
「それはあなたのご両親のご意見だろう」
 驚きが通り過ぎた後、エベルはむしろ冷静だった。
 淡々と、ロックに助言をくれた。
「アレクタス家が同じように思っているかはわからない。関わりたくないのなら黙っているべきだ」

 元よりロックにこの秘密を口外する気はなかった。
 フィービもそのつもりで娘に全てを打ち明けたのだろうし、ロックがエベルに話したのも、彼を信頼しているからだ。
 母の身の上に興味こそあれど、関わりを持ちたいとは思わない。母が捨てたものをわざわざ拾いに行く必要もないだろう。

「他には誰にも言いません」
 ロックはエベルの金色の瞳に誓った。
 それでエベルもその目を細め、頷いた。
「その方がいい。私も秘密は守ろう」
「あなたのことは信じています」
「光栄だよ、ロクシー」
 それから彼は改めてロックの顔を見つめてくる。
 まだ乾いてもいない髪を額に張りつかせたまま、ひたむきな眼差しを向けてくる。
「……それにしても、あなたは不思議だ」
 そして、こう呟いた。
「男の格好をしているかと思えば男ではなく、貧民街で出会ったと思えば貴族の血を引いている――あなたと出会ってから随分経つが、あなたについて知り尽くすにはもっと時間が必要そうだ」
「もう秘密はないですよ、多分」
 ロックがはにかむと、エベルも表情を緩めた。
「多分、か。いつか全てを暴く機会を貰いたいものだ」
「全てを?」
 疑問に思って聞き返したロックの口に、不意を打って唇が押し当てられた。
 短い口づけの後でエベルは言う。
「あなたを奪われるわけにはいかない。私が貰うと決めた」
「あの、エベル……?」
「未来を、私と共に歩んで欲しいんだ」
 不意を打たれて目を白黒させているロックに、隙を与えず畳みかけてくる。
「近々、父に紹介したいと思っている。正確には父の墓前だが……」
 そうしてロックの手を握り締めると、懇願するように囁いた。
「考えておいてくれないか、ロクシー」

 エベルが帰っていった後、ロックは結局濡れてしまった服を脱いだ。
 真新しい服に袖を通すと、彼の体温まで逃げていくようで少し寂しい。だがそれで風邪を引いても困るので仕方なく着替えた。
 彼が残していった言葉はちゃんと、ロックの胸に残っている。
「未来を共に、か……」
 その気持ちはもちろん嬉しかったし、ロックもそうありたいと思っていた。
 だが心が揺れている。
 エベルのせいではなく、自分でも知らなかった身の上のせいだ。

 未来は自分自身で決めたい。
 その為には秘密を守り抜かなくてはならないと、ロックは固く決意していた。
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