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夜が明けたらくちづけを(3)

 敷布と毛布を縫い合わせると、やがて大きな袋が完成した。
 材料が寝具なだけあって、ロック一人なら中にすっぽり収まりそうだ。人狼が相手でも視界を奪い、動きを阻む役割は十分果たせるだろう。
 できあがった袋を携え、ロックとエベルは寝室を出た。ここは屋敷の三階に当たるらしく、グイドとフィービの『追いかけっこ』は階下で繰り広げられているようだ。衰えを見せぬ獣の唸り声が駆け抜けていくのが聞こえ、ロックは自然と焦燥に駆られた。

 それでも準備は慎重に、冷静に行った。
「小さな動物なら、括り縄を仕掛けるところなんですが」
 農村育ちのロックには多少ながらその心得があった。
「括り縄とは?」
 エベルが聞き返してきたので、早口で説明する。
「罠を踏んだ動物の手足を捕らえ、宙吊りにする狩猟法です。でもあれだけの大きさとなると……」
 村で捕まえていたのも、せいぜいが猪くらいのものだ。人狼が相手なら、手首足首を拘束したところで持ち上がりもしないだろう。
「袋を上から落とすか、転んだところに上から袋をかぶせて縛り上げる……くらいしか方法はないですね」
「なら、転ばせる方が確実だろう」
 エベルは耳を揺らしながら答えた。
「長身の人狼が相手では、上からの強襲は難しい。袋を単に落としただけでは上手くかぶせられないからな」
「どちらにしろ簡単ではないでしょう」
 覚悟を決めてロックが言うと、エベルはその不安を晴らすように明るく言い添える。
「だが我々ならやれる。神が我々を導いてくださるはずだ」
 あいにくロックに信仰心はない。だが今からでも祈れば聞き届けてくれるというなら、喜んで神の信徒になるつもりだ。
「あなたの神があなたを守ってくださいますよう」
 あながち皮肉でもなくそう応じる。
 するとエベルは金色の瞳をきらりと光らせ、ロックを見た。
「私には勝利の女神もいる。必ず上手くいく」
「……ええ、必ず」
 そんな歯の浮くような言葉さえ、今は信じたい。ロックは怖さも忘れて頷き、それから行動に出た。

 マティウス邸の三階廊下は、中央階段を上がってくると左右に長く伸びている。
 その廊下には十を超す部屋があり、エベルの私室を除けばほとんどが客人を泊める部屋に当たるという。
 ロックとエベルは向かい合わせにあった二つの客室の扉を開き、それぞれの寝台を少しずらして、扉の近くまで運んだ。縄の代わりに細く引き裂いたカーテンを、両方の部屋の寝台の脚にきつく結んだ。こうすることで、廊下にはぴんと張られた『転ばせの罠』ができあがる。
 グイドがこれで転んだら、袋をかぶせ、縛り上げ、おとなしくなるまで殴る――そういう作戦だった。
「これからグイドを誘導する。あなたは隠れていてくれ」
 そう言い残すと、エベルは階段めがけて駆けだした。
 ロックは袋を抱えて別の客室に飛び込み、扉を薄く開けて廊下を窺う。

 程なくして、騒々しい足音が階下から近づいてきた。
「階段を上って左手側だ!」
 叫ぶエベルが真っ先に、階段を駆け上がって現れた。彼の姿は今のグイドと同じ人狼だが、走り方で違いがわかる。人と同じように肩を開き、腕を振り、背筋を伸ばして走ってきた。
 その後からフィービが追い駆けてくる。ちらりと後方を振り返るだけの余裕はあり、そしてその先にはエベルとはまるで違う走り方の人狼がいる。背中を丸めて両手両脚をつき、四本足の獣のように猛然と突っ込んでくる。
「フィービ、足元に気をつけて!」
「任せろ!」
 ロックの声に反応し、フィービが返事をする。
 そしてエベルが、フィービが、それぞれに罠を飛び越えてロックのいる客室に飛び込んできた。エベルが袋を受け取って再び廊下へ出ていくと、ロックはフィービと共に戸口から行く末を見守る。
 グイドの尖った耳にロックの声は届かず、張られた『転ばせの罠』にも気づく様子はない。速度を緩めることなく駆けてきた人狼の、その前脚がぴんと張られた紐に引っかかる。紐が強く引かれ、隣室では寝台がどこかにぶつかる派手な音が響く。それでも解けることはなく、つんのめったグイドの巨体は一瞬ながらも宙に浮き、そのまま前方に飛び込むように床に叩きつけられた。
 衝撃が屋敷を揺らし、ロックの身体がぴりぴりと震えた。
「今だ!」
 エベルが飛び出して、倒れたグイドに袋をかぶせる。
 危うくグイドはもう起き上がろうとしていたが、直後袋に視界を奪われ、めちゃくちゃに暴れ始めた。両手両足を振り回し、嵐の夜のような咆哮を上げてその巨体を揺らす。
「くっ」
 同じ人狼でありながら、腕力では劣るエベルが振り払われそうになり、慌ててグイドに馬乗りになる。
「あいつ、底なしかよ!」
 堪らずフィービも飛び出して、共にグイドを押さえつけにかかった。
 本当に、人狼となったグイドはまるで衰えを知らない。夜通し暴れ回ってもなお、くたびれるそぶりすら見せなかった。今も圧し掛かるエベルとフィービすら吹っ飛ばす勢いで抵抗を続けている。
 当然、長引けば長引くほど押し負ける。
「グイド、いい加減にしろ!」
 エベルがグイドの両腕を押さえつけ、牙を剥いて怒鳴った時だ。
 それすら聞き流すかのように、グイドは身体を一振りして、エベルとフィービを同時に弾き飛ばした。エベルは廊下の壁に衝突し、フィービはロックがいる客室に転がり込んできた。
「あっ!」
 ロックは声を上げ、入れ替わるように客室から飛び出した。
 グイドを押さえる者がいなくなれば、袋も直に外されてしまう。それだけは何としても避けなければいけない。縛り上げる為の紐はここにある。これで――。
「ロクシー、無茶だ!」
 フィービが叫ぶのが聞こえたが、ロックは構わずグイドに飛びついた。

 不思議と、怖くはなかった。
 本当に勝利の女神になってやろう。そう思った。
 自分はフレデリクス・ベリックとベイル・フロリアの子だ。恐れるものは何もなく、救えるものは全て救いたい。
 父の強さと母の優しさを、常に誇れる自分でありたい。

「このっ……おとなしくしろ!」
 袋を剥がそうともがく人狼の、恐らくは首であろう部分にしがみつき、渾身の力で絞め上げる。
 ロックの『渾身の力』などたかが知れてはいるが、それでもグイドは鬱陶しげに吠え、ロックをも振り払おうと身を捩った。
「暴れられると縛れないだろ!」
 手にした紐を広げる余裕すらないロックの目に、廊下の先まで吹っ飛ばされたエベルが、よろよろと起き上がるのが見えた。
 とっさに叫んだ。
「エベル!」
 勝利の女神にふさわしい言葉は何だろう。
 考えている暇はなく、思いつくがままに続けた。
「ぶん殴っちゃえぇぇぇぇ!」
 喉を振り絞り、力の限りの声量で、彼に声援を送った。
「おお!」
 エベルが床を蹴る。
 目にも留まらぬ速さで接近してきた人狼が、そのままためらいなく拳を振るった。
 残念ながらロックの余力はそこまでだった。グイドによって呆気なく床に投げ捨てられ、身構えていたフィービに受け止められつつ目だけは凝らす。
 その時にはもう、エベルの拳が袋ごと、グイドを殴りつけていた。
 拳がどこに叩きつけられたかは袋のせいでわからない。何かが砕けるような嫌な音が響き、グイドの身体が大きく傾いだ。そのまま音を立てて倒れ込む。
「目を覚ませ、グイド!」
 エベルが倒れたグイドの肩を押さえつけ、もう一度腕を振り上げる。
 今度ははっきり顔とわかる場所に拳が入り、袋にぱっと血が滲んだ。
 その直後に声がした。
「う……」
 明らかに獣のものとは違う、呻き声だった。
 はっとしたのはロックだけではなく、エベルもそうだった。一瞬迷い、しかしグイドから袋を引き剥がす。
 その中にいたグイドはまだ人狼の姿をしていた。大きな口から血を流してはいたが、つむっていた目を開いて、たどたどしく声を発した。
「エベル……なぜ私を殴った……?」
「正気に、戻ったか」
 息を弾ませたエベルの言葉に、グイドは金色の目を瞬かせる。
「何を……いや、私は――わ、私こそ、何を……?」
 そうして彼は自らの手を見やり、その変わり果てた異形の姿に気づくと乱れた息を吐く。
「私はどうしてこんな……人狼になりたかった? 私が? そんな、まさか――」
「なりたくてなったんじゃねえのかよ」
 ロックを抱き締めるフィービが唸ると、グイドは人狼の姿のままぶるぶると身体を震わせた。
「わ、わからない。あの彫像が欲しかったのは確かだ、だが……!」
「残念だが、お前は既に人狼の呪いを受けた身だ」
 エベルが感情を抑えた声で、彼にそう宣告する。
「もはや呪いと共に生きるしかない。覚悟を決めろ」
「エベル、嘘だろう! 嘘だと言ってくれ!」
 取り乱したグイドが起き上がり、エベルの肩を掴んで揺さぶった。
 それでもエベルの答えが変わるはずはない。
「嘘ではない。お前のしたことだ」
 エベルが苦しげに言い切ると、グイドはしばらく呆然とした後、人と変わらぬ慟哭の声を上げた。

 グイド・リーナスの動揺ぶりは、当然ながら酷いものだった。
 歩くこともできないほど憔悴しきっていた為、エベルとフィービが二人がかりで、被害のなかった客室まで連れていった。
 寝台に押し込まれたグイドは毛むくじゃらの手で狼そのものの貌を覆った。
「覚えているんだ……お前を脅したことも、人狼になる術を教えろと言ったことも」
 そう語る一方で、自らの言動が信じられないそぶりでもあった。
「だがなぜ、呪われてもいいなどと思ったのだろうか……」
「それも呪いの力なのかもしれない」
 エベルも腑に落ちた様子ではなかったが、呟くようにそう言った。
「私も以前、彫像の呼ぶ声を聞いたことがある。あれには人狼の呪い以外の、もっと秘められた力があるのかもしれない」
 話を傍らで聞きつつ、ロックは空恐ろしさに身震いした。
 同じ推理をしたこともある。全ては呪いが導いたのではないかと――エベルが運命だと言った出会いも、彫像がまるで誘われるように集まってきたことも、そしてグイドが人狼となってしまったことも。
「こんな姿を見せたら、ミカエラは何と言うだろう」
 グイドは悲嘆に暮れている。
「兄が呪われたなどと知ったら、あいつは――!」
 だがそれを遮るように、エベルは告げた。
「ミカエラはお前を愛している。きっとこれからのお前を守ってくれるだろう」
 たちまちグイドが両手を離し、驚きに目を剥いた。
「守る……? ミカエラが、私をか?」
「人の手を借りなければ、この帝都では生きられない。私がそうだったように」
 エベルの言葉は、今度こそグイドの耳に届いたのだろうか。
 彼はしばらく言葉もないまま、自分とよく似た貌のエベルを見上げていた。

 何にせよ、マティウス邸にはようやく平穏が訪れたようだ。
「ロクシー、悪いが私の部屋から酒を持ってきてくれないか」
 グイドが黙りこくってしまった後、エベルがそう囁いてきた。
「このまますんなり眠ってくれるとは思えない。グイドには酒が必要だ」
「わかりました」
 それでロックはフィービと共に、エベルたちのいる客室を後にする。
 廊下に出て改めて眺めてみれば、屋敷の中は酷い有り様だった。あちこちでドアが壊れ、床の絨毯は剥がれ、血痕もぽつぽつと落ちている。罠を張ったあの客室は傾いた寝台が戸口を塞いでいて、片づけのことを考えるだけで眩暈がする。
 エベルの寝室も、寝台から毛布や敷布は消え、カーテンまでもが剥ぎ取られている。お蔭で白々と明けゆく空がよく見えた。
「夜が明けるね、フィービ」
 ロックが声をかけると、棚の酒瓶を物色していたフィービが息をつく。
「全く、酷い夜だったな。一睡もできなかった」
「できてたらすごいね」
 思わず吹き出したロックも、今頃になってどっと疲れが押し寄せてきた。
 グイドのことが落ち着いたら、まず睡眠を取った方がいいかもしれない。
「僕も寝てはいないけど、気を失ってる間に夢なら見たよ」
「夢?」
「母さんと、村で暮らしてた頃の夢」
 そう告げると、酒瓶を手に取ったフィービが動きを止めた。
「僕がまだ『私』って言ってた。父さんの話もしてたな、多分だけど」
 ほんの少し面映いのは、幼い頃の記憶だからだろうか。
 それとも、母の話の端々に表れていた父を、今こそ目の前にしているからだろうか。
 フィービは真剣な横顔で、酒瓶のラベルを睨んでいる。だがその目がラベルの文字を拾っているかはわからない。
 やがてこちらを向いて、優しく笑った。
「いい夢見たな、ロクシー」
「……うん」
 ロックが頷くと、フィービはちょっと思案するように目を泳がせた。
 それから、
「ところで、ベイルがしてた話って――」
 と切り出したところで、その声をかき消すような叫びが響いた。
「閣下、ロック様! ヨハンナでございます! どちらにいらっしゃいますか! ご無事ですか!?」
 大騒ぎしながら階段を上がってくるのも聞こえる。
 どうやらヨハンナも無事だったようだ。
「うるせえのが来たな」
 フィービは顔を顰めつつ、いたく安堵している様子だった。
 ロックも同じように、心からほっとしていた。

 マティウス邸に、騒がしくも平穏な夜明けが訪れようとしていた。

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