男装婦人の恋と憧憬(4)

「あなたの愛らしさは、きっとドレスにも映えることだろう」
 エベルは巡らせていた想像を、うっとりと口にしてみせる。
「その葡萄酒色の髪に花冠を飾り、華奢な首には瞳と同じ蒼玉の首飾りを着け、すらりとした身体にまとうは朱子織の白い絹のドレス――私はそんなあなたの手を取って、サロンの紳士淑女に引き合わせるのだ。夢のようなひとときだと思わないか?」
 確かにそれは夢のようだ。
 ロックはサロンなるものがいかなる社交の場かも知らない。教養のない自分がそういった身分貴い人々の集う場に出ていくのは、どちらかと言えば身の毛もよだつ悪夢だった。恥をかくに決まっている。
「男にドレスを着せてそのご想像は、いささか悪趣味と思われます」
 ロックが重ねて抗議すると、エベルはきょとんとした。
「そうかな、あなたならドレスも似合う。無論、いつもの格好も捨てがたいが」
 食卓越しにしげしげと、今のロックを見つめながら言う。
 店に出ている時と同じシャツとベスト、スラックスという格好のロックに面白みは一切ないはずだが、これはこれでというように満足げな面持ちをした。
「いつものあなたも清廉で素敵だ。だがどちらも似合うのなら、両方堪能してみたくなるというもの」
 悪気なく語るエベルはやはり、男装のロックの正体を確信しているようだ。
 そうなると反論は無駄な足掻きに思え、ロックはむっつりと黙り込む。

 自分がドレスを着る姿を想像してみたことはない。
 ロックにとってのドレスはいつでも、他人の為に仕立てるだけのものだった。男装して暮らし始めて三年、男としての生活にもすっかり慣れ、今更女のように生きたいなどと思ってはいない。
 ただ、胸の奥に埋もれている記憶が一つある。
 母が生きていた頃のことだ。村の酒場で働く女にドレスの仕立てを頼まれて、すべらかな生地を縫い合わせていた母がこう言った。
『いつかあなたにも、素敵なドレスを仕立ててあげる』
 その頃は、それが当たり前のように訪れる未来だと思っていた。
 不意に蘇った記憶は甘酸っぱく、ロックの中で母への憧憬を募らせる。もし母が生きていたら、自分にどんなドレスを仕立ててくれたのだろう。そんなことを、黙り込んだまま考える。

 対照的な表情を浮かべる二人の食卓に、その時、ジャスティアがやってきた。
「あら、ドレスだなんて女の子の話? 珍しいじゃない、ロック」
 焼きたてのジャガイモパンを積み上げた皿を置くと、からかうような笑みを向けてくる。
「あんた、浮いた話の一つもなかったでしょう。そろそろいい人でもできた?」
「ま、まさか!」
 どきりとしつつ、ロックは否定した。できていない。そんなはずがない。
 途端にジャスティアは呆れ顔になる。
「相変わらずだね。仕立て屋なんて女の子との接点もあるでしょうに、その態度じゃ当面独り身だろうね」
「僕は恋人が欲しいなんて思ってないから」
 ロックが眉を顰めれば、ジャスティアはエベルに愛想よく笑いかけた。
「閣下、ロックってばこの通りの無精ぶりなんですよ。閣下ならご婦人も選り取りみどりでしょう? ロックにご助言をいただけません?」
 全く余計なお世話だったが、水を向けられたエベルは穏やかにかぶりを振った。
「あいにくだが、私もご婦人とのご縁はそう多くない」
「あら、意外ですこと。こんなに男前でいらっしゃるのに」
「その分、わずかなご縁をこの上なく大切にしている」
 金色の瞳がさりげなく流し目を送ってきたので、ロックはもぞもぞと座り直す。
 まさかジャスティアも、助言を求めた当の相手がロックに求愛しているとは考えもしないだろう。
「ロックはこの通り、気立ても見目も悪くない。そのうちによい恋人ができるだろう」
 エベルが自信たっぷりに断言したからか、ジャスティアも納得したようだ。
「お墨つきをいただいたね、ロック。ご縁があったら大切になさい」
 釘を刺すように言い残し、食卓から離れていった。
 女将の去っていく姿を横目で確かめた後、エベルは改めてロックに微笑む。
「あなたなら、そう遠くないうちによい恋人ができる」
「僕は欲しいとは言ってません」
 ロックは抗弁しつつ、ジャガイモパンに手を伸ばした。いち早くかぶりつけば、その様子をエベルは幸福そうに眺め始める。
「女将が言うには、私は男前だそうだ。他に何か不満でも?」
「不満があるとか、そういう問題ではありません」
 一つ目のジャガイモパンを頬張って、ロックはエベルを軽く睨んだ。
「大体、嘘ですよね。婦人とご縁がないなんて」
「嘘ではない。あなたくらいのものだよ、ロック」
「だって、ミカエラ嬢は?」
 勢いで尋ねてから、しまったと思う。
 これではまるで彼女のことを酷く気にしているみたいだ。
 内心慌てるロックを前に、エベルは声を立てて笑った。
「気にしてくれているのか。私の心はあなたのものだと言っているのに」
 それからまだおかしそうに語を継ぐ。
「ミカエラとは確かにかつて婚約していた。だが幼い頃の話だ。婚約が決まった時、私は十四の少年だったし、ミカエラに至っては十になったばかりだった。この期に及んで引きずるような関わりではない」
 エベルはそこで、ふと懐かしむように目を伏せた。
「……どちらかと言えば、彼女のことは妹のように思っていたよ」
 ジャガイモパンを手に取って、ロックに倣ってかじりつきながら呟く。
「私の母は早くにこの世を去り、父と親友グイドだけが心の支えだった。そのグイドの妹だ、大切にしようと思ったし、婚約が決まった時も当たり前のように受け止めていた」

 想いの形こそ違えど、エベルにとってミカエラが大切な存在であることには変わりないようだ。
 そしてグイドもまた――店に来た時の彼の態度をかえりみれば『心の支え』という言葉は疑わしく思えたが、三人の関係もかつては本当に美しいものだったのかもしれない。それを人狼の呪いが変えてしまったのだとすれば――。
 グイドがエベルに執着する理由も、その美しい思い出を取り戻したいからなのだろう。
 一方で母を、そして父をも失くしたエベルは、自らに降りかかった呪いを力として、日々を明るく過ごしている。その前向きさは人狼の呪いが軽く見えてしまうほどであり、思えばロックも彼を憐れんだことは一度もなかった。辛い思いをしていないはずはないのに、それを感じさせないのがエベルという男だ。

 ロックはしばらく黙ってジャガイモパンをかじり続けた。
 その間に自分のことを考える。母を、父を相次いで亡くしたのはロックも同じだ。男装は呪いではなく好きこのんでやっていることだが、自分はまだ喪失から立ち直れてはいない。エベルといると、そのことを強く実感させられる。
 考えるべきは美しい思い出ではなく、この先に起こり得る出来事について、なのだろう。
 そこまで考えた時、ロックは朝にエベルと交わした会話について思い出す。
「そうだ、エベル。今朝、話してくれようとしたことですが……」
 思えばこちらも大事な用件に違いないのだが、公爵子息のお蔭ですっかり脇に追いやられていた。
 エベルもすぐに思い当たったのだろう。硬かった表情を解き、しかし真面目な口調で応じる。
「フィービのことだったな」
「いえ、僕の父についてです」
 ロックが訂正すると、エベルはわずかな間を置いてから頷いた。
「そうだった。その件についてだが、もう少し調べてみたいと思う」
 その言葉にロックは驚いた。父についてエベルが得てきた情報は、数年前に死去した人物に対して十分な量だった。これ以上掘り起こして、まだ何か出てくるというのだろうか。
 加えて、エベルの態度が朝とは違うことも気になった。今朝方は何かを伝えたがっていたように思えたのだが、ロックの考え違いだろうか。
「悪いが、しばし時間をくれないか」
 そう語るエベルの態度は真摯で、誤魔化すようなそぶりもない。
 何より今のロックにとって、エベルこそが父に繋がる唯一のよすがだ。戸惑いつつも了承した。
「構いません。よろしくお願いいたします」
「任せてくれ。次は確たる証拠を持ってこよう」
 どうやらエベルは、確証のないことをロックに語るつもりはないようだった。
 ロックはたとえ噂話であっても聞きたい衝動に駆られていたが、彼の意思を汲み、ぐっと堪えることにした。
 きっとエベルなら、新たな父についての情報をもたらしてくれる。そんな希望がロックの心を明るく照らしていた。

 食事が済み、二人はジャスティアに見送られて店を後にした。
「ごちそうさまでした。それでは……」
 ロックは店の前で暇を告げかけたが、エベルはそれを苦笑で押し留める。
「あなたは相変わらずつれないな。部屋まで送らせてくれ」
「男同士で食事をして、送ってもらうのはやはり妙です」
「男同士であれば、その通りかもしれないがな」
 含んだような物言いの後、彼は肩を竦めてみせた。
「もう時間も遅い。この間のように、質の悪いのに絡まれても困るだろう」
 夜の貧民街は点在する酒場が賑わう程度で、それ以外の通りは不気味なくらいに静まり返る。降り注ぐ星明かりも街路をくまなく照らすというわけにはいかず、ロックが部屋に帰りつくまでにはいくつもの影の中を歩かねばならない。慣れた道とは言え、この間のことを思えば不安がないわけでもない。
「それに今宵は、保護者同伴ではないようだからな」
 エベルがそう続けた通り、フィービらしき尾行者の姿はどこにも見えなかった。彼女はロックとエベルの仲を誤解しているようだったし、今夜はただの逢い引きとでも思ってついて来なかったのだろう。
 そうなるとロックは少し心細くなり、仕方なしに頷いた。
「そこまで仰るなら、途中までお願いいたします」
「途中までと言わず、ちゃんと部屋まで送り届けるとも」
「本当に途中までで結構です」
 二人は押し問答を始めつつ、貧民街の暗い夜道を歩き出す。

 市場通りから一本裏路地に入った、胡散臭い古道具屋の二階がロックの部屋だ。
 古道具屋の店主は皺くちゃの老婆で、普段はロックが挨拶をしても返事はないが、家賃を渡しに行く時だけ愛想がよくなる。商売の方が儲かっている様子はないが、時々遺跡帰りの傭兵が奇妙な骨董品を持ち込むらしく、店の前に天日干しされているのを見かけることがある。
「ここの二階です。送ってくださり、ありがとうございました」
 ロックは古道具屋の前で足を止め、エベルにそう告げた。
 結局ここまでついてきてしまったエベルは、やけに機嫌よく微笑んだ。
「まだ着いたとは言えないだろう。ちゃんと部屋の中まで送らなくてはな」
「結構です」
「あるいは、送ったお礼にお茶でもどうぞ、とは言ってもらえないものかな」
「感謝はしておりますが、そういうのは期待なさらないでください」
 古典的な送り狼の手口に嘆息し、ロックは踵を返す。
 それから部屋に続く外階段を上り出した後、エベルが食い下がらないことに疑問を抱いた。いつもならしつこいくらいにあの手この手で迫ってくるのだが――そうして欲しいわけでは断じてないが、彼が無言になるのは珍しい。
 そう思って振り向けば、エベルはまだ古道具屋の前にいた。
 なぜか不審そうに眉根を寄せ、辺りを見回していた。
「……どうかしました?」
 ロックが声をかけると、彼は戸惑い気味に聞き返してくる。
「今、私を呼ぶ声がしなかったか?」
「僕以外にですか? いいえ」
 市場通り周辺は夜ともなればどこもかしこもひっそりしている。誰かに呼び止められれば聞こえないはずがない。
「何か聞こえた気がしたのだが……」
 エベルが釈然としない顔をするので、ロックの背筋にも悪寒が走った。
「や、やめてください。怖がらせようったってそうはいきません」
「いや、そうではない。確かに私を呼ぶ声が――」
 とっさに否定したエベルが、しかし次の瞬間その場にうずくまった。
「ううっ……」
 くぐもった呻き声と共に膝をつき、苦しそうに自らの肩を抱く。
 それを見たロックも慌てて階段を下り、彼に駆け寄った。
「エベル!」
 彼の傍らに屈み込み、その肩に手で触れた。
 すると白いシャツの下で、エベルの肩が、腕が、急に膨れ上がった。
「えっ、何……」
「な、何だこれは――こんなはずは……」
 ぎょっとするロックの目の前で、エベルも困惑の声を上げる。だがその唇がみるみるうちに大きく割け、筋の通った鼻先が奇怪な形に尖り出す。鳶色の髪はざわざわと逆立ち、闇に呑まれるように黒く染まったかと思うと、その間から人のものではない二つの耳が覗いた。ジャスティアが賞賛した端整な顔はたちまちのうちに、人狼のものへと変貌を遂げていた。
 もちろん身体の方もあっという間に変質した。ロックが仕立てたシャツとベストとズボンは膨らむ身体に耐え切れず、悲鳴のような音を立てて引き裂かれた。そして星明かりの下、黒い体毛で覆われた逞しい人狼の身体が露わになる。
「エベル、こんなところでは!」
 ロックの制止の声は手遅れだった。
 咆哮を上げて立ち上がった人狼は、その後で震える息をつく。
「わ……私にもわからない。なぜ私は今、この姿に……?」
 これまでエベルは、彼自身の意思によってのみ人狼の姿になっていた。実際のところは定かではないが、ロックの目には呼吸をするように自由自在な変化に見えていた。
 それが今は、彼の意思に反して行われたということだろうか。
 一体なぜか、ロックには当然わからない。
「と、とりあえず人目については困ります」
 ロックは呆然とするエベルの丸太のような腕を掴んだ。
「僕の部屋へ入りましょう。さあ、早く!」
 そして彼の背中をぐいぐい押して階段を上がり、部屋の中に押し込む。一度戻って路上に散らばった衣服も回収してから、ロックもまた自室に飛び込んだ。