宝石よりも、何よりも

 学校のある日の朝は、四時前には起きる。
 身支度を整えたらまずはお弁当と朝食の準備をする。本日の朝食はお嬢様のリクエストで季節野菜のケークサレ。材料を混ぜてオーブンで焼いている間に、昨夜仕込んでおいたお弁当を仕上げて詰める。
 ケークサレが焼き上がったら、ワゴンでお嬢様の部屋まで運ぶ。
 午前四時四十五分。大体、いつもこの時間だ。
 時間は宝石よりも貴重だから、無駄な動きは許されない。

「お嬢様、おはようございます」
 扉越しに声をかけると、部屋の中からは明るい声がする。
「おはよう。起きてるよ」
 六花お嬢様は以前と比べると、すっかり早起きになった。昔なら一人では起きられなくて、七時近くまでベッドの中ということがよくあったのに。
 今では俺が部屋に入ると、全ての準備が整っている。制服のブラウスとスカートに着替え、タイリボンもきちんと結び、短い髪も綺麗に梳かして愛用のソファに座っている。今の学校に編入して以来、ずっとこうだ。
「今日の朝ご飯、何?」
 お嬢様の問いに、俺は粛々と答える。
「昨夜のご要望通り、季節野菜のケークサレでございます」
 途端に彼女の顔が明るくなる。
「わあ、いい匂い。焼きたてだね」
「はい。お飲み物は何になさいますか」
「紅茶がいいな。アールグレイにして」
「かしこまりました」
 俺が紅茶を入れている間、お嬢様は屈託のない笑みを浮かべて待っていた。
 六花お嬢様は、一見して『お嬢様』然としていない方だ。編入に当たって髪はショートボブに切り揃えてしまったし、俺に対する口調は昔から気取らずフランクだった。俗っぽい漫画が好きなところも、たまにソファに寝そべってごろごろするところも、世間一般のお嬢様のイメージからは外れているのかもしれない。
 それでも些細な所作から、育ちのよさが窺えることがある。椅子に座る時は脚を揃え、斜めに流すように座る。食事中の姿勢は真っ直ぐで、ナイフとフォークを持つ手つきも美しい。ケークサレを一口大に切り分けて、上品に口まで運ぶ姿は、まさに絵に描いたようなお嬢様だ。
「……うん、美味しい」
 ケークサレを一口食べたお嬢様は深く頷いた。どうやら満足のいく味だったようで、その表情がふっと解けるのを、俺も満ち足りた気分で眺める。
「お口に合いましたか、お嬢様」
「庸介は本当にお料理上手だね」
「お褒めにあずかり光栄です」
「堅いなあ。もうちょっと普通に喜べばいいのに」
 お嬢様は苦笑するが、一応これでも仕事中だ。その辺りの線引きはきちんとすべきだと、俺は思っている。

 六花お嬢様の家で、使用人を始めてから一年と三ヶ月になる。
 もっと以前から両親の仕事を手伝うことはあったから、一年三ヶ月という区切りが正しいのかは自分でもよくわからない。ただ高校入学とほぼ同時に六花お嬢様のお世話を頼まれるようになり、特に朝はこうして毎日お食事を届け、給仕をし、更にはお弁当の用意をしている。好きで始めた仕事だから、特に不満はない。
 ただ、お嬢様と共に高校を移ることになるとは思ってもみなかった。

 お屋敷を出るのは午前六時。
 運転手の行田さんに送ってもらい、学校には午前七時過ぎに到着する。
 ここからは使用人としてではなく、六花お嬢様の幼なじみを装うことになる。これも仕事のうちとはいえ、随分と変わった役目を仰せつかったものだと思う。だが当初の憂鬱さはいつしか薄れ、今ではこの時間に楽しさすら感じているのだから奇妙なものだ。
「もうじき、夏休みだね」
 まだ朝早い教室、いるのは俺とお嬢様――もとい、『幼なじみ』の六花だけだ。わずかな涼を求めて開け放った窓の傍で、彼女は短い髪を風に揺らしている。
「庸介は何か予定あるの?」
 小首を傾げて尋ねる彼女に、俺は答えた。
「お盆にお墓参りに行くくらいかな」
 うちは両親共に住み込みの仕事をしている。家族旅行といったものには昔から縁がない。この歳になって行きたいとも思わないが。
「じゃあ、夏休み中にどこか行かない?」
 俺の答えを聞いた六花が、目を輝かせた。
「前に街中を歩いたの、楽しかったな。またお出かけしたいんだけど……」
 彼女が語るのは、以前、香水を買いに出かけた時の話だ。
 あの時の出来事は、俺にとっても非情に楽しい思い出だった。蒲原と遭遇したことだけは余計だったが。
「俺と二人で?」
 そう聞き返すと、六花はうろたえ、目を泳がせる。そのくせ口は不満げに尖らせて、ぼそりと続けた。
「……だめ?」
 もし俺が、彼女の本当の幼なじみだったなら、こんな誘いには嬉々として飛びついていただろう。
 少しわがままだが可愛い幼なじみ。最近では俺の言葉にわかりやすい反応をくれるようになって、こんなふうに思わせぶりなことを言い出したりもする。これが偽物の関係でなければ、俺も浮かれて返事をしていたかもしれない。
 本当に、手放しで浮かれられたらどんなにいいか。
「六花こそ、夏休みは忙しいんじゃないのか」
 俺は努めて冷静に答えた。
 夏休み中の彼女は、旦那様や奥様と共に海外で過ごすのが例年の習わしだった。俺と出かける暇なんてないはずだ。
 だが六花は長い睫毛を瞬かせた。
「今年は何も言われてないよ。お父さん、忙しいみたいだから」
 そして、俺の顔色を窺うように上目遣いになり、
「夏だから、海とかプールとか……そういうのもいいよね」
 照れながら、そういう誘いを口にした。
 俗な漫画を読んでいるからだろうか。六花は男子高校生を葛藤させる術を心得ているようなふしがある。それが意図するものかどうかはさておき、俺は関心がないふりをするのにかなり苦労した。
「優先すべきスケジュールが他にないなら、いいよ。適当な場所を見繕っておこう」
「いいの? ありがとう、庸介!」
 六花は嬉しそうに瞳を輝かせた。
「そうと決まったら、可愛い水着を買っておかないと!」
 随分とはしゃいだ様子を見せるから、俺も半ば祈るような気持ちになる。
 せめて一日くらいは自由になる日があればいい。でも例年通りなら、それも難しい話だろう。
 俺が思案しながら口を閉ざした時だ。
「おはよー! 今朝も早いね、お二人さん!」
 二人きりだった教室に、渡邉さんが飛び込んできた。
「あっ、おはよう、渡邉さん」
「もう夏休みの話? 二人でお泊まり旅行でもすんの?」
「ち、違うよ! ちょっと泳ぎに行こうかなって言ってるだけ!」
 六花が慌てるあまり計画を口走ってしまった為、その後しばらくの間、渡邉さんがうるさくて大変だった。

 正直に言えば、俺は渡邉さんを、六花の友人としてふさわしい相手だとは思っていない。
 ただ六花がどういうわけか懐いている様子だから、奥様から『六花のお友達ってどんな子?』と聞かれた際は、多少甘めの評価を告げている。彼女が髪型もスカート丈も校則違反であること、お嬢様が香水を欲しがったのも彼女の影響であることなどは黙っていた。
 六花とは正反対の性格をしていると思うのだが、なぜ気が合うのだろう。全く不思議だ。

 ともあれ、学校生活の方は割と平穏に過ごせている。
 渡邉さんがうるさいのと、蒲原がやはりうるさいのを除けばだが――夏休みを控えた七月の教室は、六花のみならず誰も彼もが浮かれているようだ。俺は、そうではないよう努めているつもりだが、実際のところはどうだろう。
 だが夏休みを気にする前に、大事な期末考査があることも忘れてはならない。

 放課後になると、俺は本来の仕事に戻ることになる。
 お嬢様の帰宅を見届けた後は、ご要望に応じておやつを用意したり、宿題を手伝ったりする。特に期末前の現在は、お嬢様のテスト勉強を見て差し上げるという重要な仕事がある。六花お嬢様も成績は悪くないのだが、今の学校に編入したことが彼女の進路に影響しないかと旦那様も奥様も非常に気にしていらした。将来の為にも、ご自身の為にもお嬢様には頑張ってもらわねばならない。
「じゃあ、部屋で待ってるから。すぐに来てね」
「かしこまりました」
 六花お嬢様と一旦別れ、俺は自宅へ戻る。『すぐに来て』とは言われたが、制服のままでお嬢様のお部屋に上がり込むのは抵抗があった。特に今は暑い最中で、汗も掻いていたし――これは使用人としてのマナーであって、変な意識をしているわけではない。お嬢様に嫌がられると困るからだ。

 着替えを済ませ、お嬢様の暮らすお屋敷に向かう。
 広い玄関を抜けて二階を目指すべく、リビング前の廊下に差しかかった時だ。
「……それでな、ママも向こうで買いつけの仕事があるって言うんだよ」
 リビングから、旦那様の声がした。どうやらお帰りになっているようだ。
「そうなんだ。……ニースかあ」
 こちらは、六花お嬢様の声だ。
 お嬢様はまだお部屋に戻られていないようだ。俺が先に向かっていても仕方ない、どうしようかと足を止めると、開け放たれた戸口から会話の続きが聞こえてきた。
「六花は前にも行ったことがあるし、いいところだって知ってるだろう? パパの仕事もその頃には一段落するから、久々に親子水入らずで過ごそう」
 夏の休暇の話だろうか。
 ニースというと、フランスだ。確かに何年か前、お嬢様はご家族で訪ねられていたはずだった。
「プールのあるホテルを予約したぞ。六花が新しい水着を欲しがっているって聞いたからな」
 旦那様が声を弾ませると、お嬢様も控えめな笑い声を立てる。
「うん、そうなの。水着、買ってくれる?」
「もちろんいいとも。一番可愛いのを買うといい」
「ありがとう、お父さん。旅行、楽しみだな」
 六花お嬢様のその言葉に、俺はそっと踵を返した。
 例年通り、お嬢様の夏休みの予定が決まったようだ。予想していたとはいえ、少し残念に思ってしまうのはいけないことだろうか。

 三十分ほど間を置いてから、俺は再びお屋敷を訪ねた。
 旦那様は仕事に戻られたようで、そのお姿は既になかった。
 そして六花お嬢様はお部屋にいた。愛用のソファの上で仰向けに寝転びながら、手にしたブローチに見入っている。
「このブローチ、覚えてる?」
 俺が部屋に入るなり、お嬢様はぽつりと尋ねてきた。
「去年のお誕生日に、旦那様がお嬢様に贈られた品ですね」
 冬生まれのお嬢様に贈られた、ターコイズのオーダーメイドのブローチだ。ロビンズエッグブルーの名にふさわしく、つるりと磨き上げられたターコイズはプラチナの台座に縁どられ、小鳥を模ったチャームをぶら下げている。
「そう。お父さんがくれたもの」
 お嬢様はどこか物憂げに、ブローチを見る目を眇めた。
「思えばあの時もそうだった。私に何が欲しいか聞かないで、私を驚かせようとするの」
 それからソファの上に身を起こし、弱々しい苦笑を浮かべる。
「もう聞いた? 今年の夏休みはフランスのニースだって」
「伺いました。立ち聞きでしたが」
 俺が頷くと、六花お嬢様は咎めるでもなく嘆息した。
「お父さんたちはいつもそう。私には何も聞いてくれないで、先に決めちゃう。それで私が喜ぶと思ってる」
 そこまで口にしてから、罪悪感を覚えたように顔を歪めた。
「ううん。喜んでない、わけじゃないんだけど……」
 気持ちはわかる。
 俺は旦那様を尊敬している。あの方は立派な仕事をされている。それでいてお忙しい最中にもよき父親であろうとしている。そのことは疑いようのない事実だ。
 でも、俺は子供側の人間だ。六花お嬢様のお気持ちは、十分すぎるほどよくわかる。何かを与える前に、まず聞いて欲しい。そう思うのはちっともおかしなことじゃない。
 わかるのに、使用人として、彼女の為に言える言葉はごくわずかだった。
「ニースはいいところだと伺いました」
 俺はそう言った。
 行ったことはないが、過去にお嬢様がそう言っていたから覚えている。
「そうだね。行けば、きっと楽しいと思う」
 六花お嬢様が、ぎこちなく頷いた。
 それから少しだけ恨めしそうな上目遣いになる。
「でも、いいの? 庸介と遊びに行く暇がなくなっちゃう」
「一日くらいなら都合もつきますよ。何とかいたします」
 これは、願望も込めて答えた。
 お嬢様のお気持ちはわかる。だが使用人の俺には同意すらできない。だからせめて、俺にできることで彼女を喜ばせてあげたい。
 本当の幼なじみだったなら、もっと言えたこともあったのかもしれない。そのことは残念に思う。
「ありがとう、庸介」
 六花お嬢様は、それでもようやく表情を和らげてくれた。
 そしてソファの上で膝を抱えると、屈託なく笑って言い添えた。
「可愛い水着を一番に見せられないのも残念だけどね」
 全く残念です、と言ってもいいものかどうか。
 本当の幼なじみだったなら、そう言えたのかもしれない――いや、どうだろう。下心が見え見えだと批判されかねないし、言うべきではないのかもしれない。
 俺が口ごもると、お嬢様は拗ねたように唇を尖らせた。
「もしかして、別に見たくなかった?」
「いえ、そんなことは……」
「いいよ、わかってる。庸介は私の服とか興味ないもんね」
 そんなこと、ないのに。
 俺がこの間みたいに誉めたら、真っ赤になって困ってみせるくせに。
「だったら、きっとわからないよね」
 六花お嬢様は、手のひらのブローチを見下ろす。
「本当はね。初めてのジュエリーは、大人になってから、家族以外の人から貰いたかった」
 ターコイズは彼女の誕生石だ。
 前に調べたことがあるから、知っていた。
「もちろん嬉しかったし、大事にしてるけど……」
 寂しそうに呟いた後、お嬢様は声を潜め、大人びた顔で付け加える。
「お父さんには、内緒だよ」 
 相変わらず、一番大切な人にはわがままを言えない方だ。
 それを俺に打ち明けてくれるという事実をどう捉えていいのか、近頃ようやく掴めてきた。

 慌ただしい朝と比べると、夜の仕事はごくわずかだ。
 明日のお弁当の用意を済ませたら、自宅に戻り、今度は家族の夕飯の支度をする。両親は忙しいので、大抵は俺が作っておく。
 食卓に家族三人が揃うのは週に一度くらいで、今日は俺一人きりだった。さすがにそれを寂しいと思う歳ではない。それどころか、両親がいるとあれこれうるさいので――特にここ最近は、お嬢様が撮ってくださった体育祭の写真についての質問攻めを受けているので、あまり顔を合わせたくないというのが本音だった。写りがいいのを喜んでいるなら、お嬢様に直接言えばいいのに。
 夕飯が終わるとあとはほぼ自由時間だ。自室で音楽を聴いたり、ネットで調べ物をしたり、あるいは読書をして過ごす。両親が帰ってきたら出迎えくらいはする。

 朝が早いので、就寝は午後十時だ。
 最近は夏の暑さのせいか、眠れぬ夜を過ごすこともたまにある。
 そういう時は、大切な『幼なじみ』のことを考える。

 ターコイズのことを調べたついでに、ネットで値段を見てみたことがある。
 残念ながら、高校生の俺には手が出せそうになかった。
 幼なじみだったなら、約束ができたのだろうか。大人になったら一緒に買いに行こう、とか。そういうふうに。
 だが、俺だからこそできることもある。
 宝石よりも何よりも、今の彼女が望んでいることを知っている。そしてそれを叶えることができる。
 大人になってからの約束は、まだできないが――それも、いつかは。

「……海か、プールか。どっちがいいかな」
 独り言を言いながら、ベッドの中で寝返りを打った。
 そんなことを考えていたら一層眠れなくなったが、今はそういう夜さえ、不思議と楽しく思えた。