初めてのおつかい(6)

 渡邉さんとは、お店を出て、駅前まで歩いたところで別れた。
 もっと話したいことがあったけど、日も傾き始めていた。それに尾行をする人をくたびれさせてしまうのもよくない。
 夏休みももうじき終わりだ。今日別れても、すぐに学校で会える。

「お土産ありがとう、渡邉さん」
 私が改めてお礼を言うと、彼女はタンクトップから覗く細い肩を竦めた。
「うん……あのさ、ずっと思ってたんだけど」
「なあに?」
「その『渡邉さん』っての、そろそろやめない?」
 照れたように言った渡邉さんのはにかむ顔を、私は怪訝な思いで見つめる。
 何を提案されたのか、わからなかった。
「やめる、って? どういうこと?」
 聞き返せば彼女はますます恥ずかしそうにして、
「だから、名前。友達なのに名字呼びとか、よそよそしいじゃん」
 と続けた。
 それは、客観的に見れば確かにその通りだ。私と渡邉さんは大分前から仲良しで、今日なんてお互い、他の人には言えないような深い話もした。お友達同士なんだから名字で呼び合うのは確かによそよそしい。
 だけど改めて言われると、私まで少し恥ずかしい。
「わかった。何て呼べばいい?」
 同じく照れつつ尋ねると、渡邉さんは即答した。
「とりあえずさ、私は主代さんのこと『リッカ』って呼びたいんだけど」
 私の名前が、思いのほかすんなりと口にされた。
 当然だろう。彼女は私の名前を知った上で、考えた上で、あのかんざしをお土産に買ってくれたのだから。
「いいよ。大歓迎だよ」
 私は嬉しくなって浮かれながら頷き、
「じゃあ私は……美菜ちゃん、って呼んでいい?」
 おずおずと彼女の名前を呼んでみる。携帯電話に登録していたから、当然知っていた。
 だけど渡邉さんはそこで微妙な顔になる。
「ちゃん付けはどうかな。柄じゃないし、呼び捨てでいいよ」
「えっ、でも……」
 個人的には呼び捨ての方が、失礼な気がして抵抗がある。
 だけど、
「徒野のことは呼び捨てにしてんじゃん。同じノリで呼んでくれていいよ」
 彼女がそう言ってくれたから、そうして欲しいみたいだから、意を決して呼んでみた。
「……ミナ。これからも、仲良くしてね」
「こちらこそ。二学期もよろしくね、リッカ」
 渡邉さん――ミナほどにはすんなり呼べなかったけど、それでもお友達の名前を初めて呼んだ。
 たったそれだけのことがとても嬉しくて、私たちは笑顔で再会を誓い合い、そして別れた。

 行きと同じように三百七十円の切符を買い、改札を抜けてホームに並んだところで、
「お疲れ様です、お嬢様」
 追い着いてきた庸介が、隣に立って囁いてきた。
「うん、庸介もお疲れ様――」
 返事をしつつそちらを向けば、フェドーラ帽に眼鏡、迷彩シャツ、ダメージジーンズの姿が視界に飛び込んできて、思わず笑ってしまう。
「やっぱり変。庸介っぽくないよ」
「存じてます。一刻も早く着替えがしたいです」
 庸介はゴールドチェーンのネックレスをつまみながら、憂鬱そうに言った。
 だけど尾行の邪魔になるから着替えを持ってきてはいないそうで、家に帰るまではこの格好でいなくちゃいけない。庸介の為にも寄り道はせず、さっさと帰ることにしよう。
 帰りの電車には、二人で一緒に乗り込んだ。行きほど混み合ってはいなかったけど、座れるほど空いてもいなかった。
 だから二人で吊り革を掴み、肩を並べて電車に揺られた。
「庸介」
 私が声をかけると、眼鏡の彼がこちらを向く。
「どうしました?」
「お店の中で私たちの話、聞いてた?」
 そう尋ねたら、どこか意味ありげに目を逸らしてみせた。
「……聞いていなかった、ということにさせてください」
「うん、そうして」
 それでいい。庸介にも思うところはあるだろうけど、今日のお話は私もミナも、お互いにだけ打ち明けた内緒の話だ。庸介には何も知らないふりをしていて欲しい。
「庸介、尾行が上手くなったね」
 昔を思い出して私が笑うと、庸介も少しだけ笑った。
「幼いままではないと申し上げたはずです」
「そうだね。あの時みたいにばればれの尾行はしないよね」

 私も、今はあの日のことを思い出していた。
 小学生だった私が、一人でおつかいに出たいと駄々を捏ねた日のことを。

 あの頃、私は両親の多忙さを受け入れられない子供だった。
 どうしても構って欲しくて、誉められたくて、おつかいをすれば両親も仕事を放り出して私を見に来てくれるんじゃないかって――そんな短絡的な考えから実行に移した。
 出かける前に猛反対した庸介が、結局ついてきていることにはすぐに気づいた。
 来て欲しかった両親は来なくて、来て欲しくない庸介がついてきてて、そのことが嫌で悲しくて腹立たしくて、彼に八つ当たりをしたのを覚えている。
 庸介はしょんぼりしながらも、結局最後までついてきた。
 その姿に絆された、というわけではないのだろうけど。でも今になって思えば、彼は健気だった。その様子には幼く身勝手だった当時の私でさえ、心を打たれた野だと思う、
 私は彼に言葉をかけた。
『二人でおつかい、頑張ったね』

「……初めてのおつかいは散々だったね」
 電車を降りて、帰り道を二人で歩きながら、私はぼんやり呟いた。
 夏の終わりの夕暮れに、ヒグラシがもの悲しげに鳴いている。帰り道はいつだって少し寂しい。あの日もそうだった。
「あの時、八つ当たりしてごめんね」
 今更のように謝ると、庸介は帽子を被り直しながら答える。
「いいえ。お嬢様のお気持ち、わかりますから」
「本当に? わがままな奴だ、とか思わなかった?」
「少しは思いました」
 思ったんだ。
 正直に答えた庸介が、だけどその後で長い息をつく。
「ですが、お嬢様が旦那様と奥様に披露したかったお気持ちも十分伝わってきましたから。それが叶えばいいのにと思いました」
 やはり庸介は健気だ。
 あんな状況でさえ、私の願いが叶うことを望んでくれていた。

 あの時はそれも叶わなかったけど――でも今日、私は大事なことを学んだ。
 私は、今こそ両親と話をしなくてはならない。
 私のことをわかってもらわなくてはならない。
 二人の見ていないところでする『初めてのおつかい』では駄目だ。ちゃんと私が言葉にしなくちゃ。

「傍にいてね、庸介」
 長い影が揺れる道の上で、私は彼にそう告げた。
「あの時みたいについてきて。私、両親と話をする」
 今の高校のこと。これからのこと。大切なお友達ができたこと。
 私は自分の気持ちを打ち明けて、両親にわかってもらいたい。
「かしこまりました」
 即答した庸介の堅苦しさには、ちょっと笑ってしまったけど。
「そこは『幼なじみ』として答えないんだね」
「あの時お傍にいたのは、俺ですから」
 そう言った時、庸介が胸を張ったように見えた。彼の胸元で、不似合いなゴールドチェーンが揺れる。
 いつもと違う服装をしてまでついてきてくれた庸介。彼の健気さは昔と何一つ変わっていない。それ以上に昔よりもずっと大人になって、頼もしくなった。
 気がつけば私は、庸介がついてくることに、彼が傍にいてくれることに、この上ない安心感を覚えるようになっていた。
 そしてあの時と同じように、彼の健気さに心を打たれている。
 あの時は、そういう気持ちすらわからなかったけど。
「……そうだね。庸介は、ずっと傍にいてくれた」
 蘇る思い出が懐かしくて、胸が締めつけられた。
 隣を見る。眼鏡をかけた庸介が、同じように何か思い出した顔をしている。見慣れない格好の、だけど確かに庸介だ。
 私の好きな人だ。
「この間、ごめん」
 私が零した謝罪の言葉に、庸介は眼鏡の上の眉を顰めた。
「何のことです。謝っていただくような覚えは――」
「ううん、あるよ。私、『幼なじみの庸介が好き』って言った」
 幼なじみの庸介は、確かに理想だ。
 優しくて頼もしくて傍にいてくれて、漫画に出てくる幼なじみみたいで。
 だけど。
「ずっと傍にいてくれたのは、いつも通りの庸介だったのに」
 そう続けたら、彼はふと足を止める。
 そして眼鏡の奥の瞳を、ごく微かに和らげてみせた。
「ずっとお傍におりました、お嬢様」
 私も立ち止まり、頷く。
「知ってるよ。……いてくれて、ありがとう」
 初めてのおつかいの時から、今日までずっと。
「今の庸介も好きだよ、すごく」
 彼を見上げて、私は言った。
 以前はうっかり口を滑らせただけのその言葉が、今は自然に口をついて出た。
「ええ、俺もです」
 頷いた庸介が、不意に被っていた帽子を取り、まるで礼儀正しく胸に当てる。
 浮かべた表情はきりりとしていて、何か言うのだろうと私は思った。

 だけど違った。
 庸介は外した帽子を私に、わざと斜めに被せると、
「わっ、なに――」
「しいっ。お静かに」
 帽子とひさしのその陰で、隠れるようにひっそりと、私に顔を近づけた。
 唇に柔らかい何かが触れた。
 鼻の辺りに、メガネのフレームが触れて、かちりと音がした。
「……やはり邪魔でしたね、眼鏡」
 一度目が短く終わった後、庸介はかけていた眼鏡をもどかしそうに外す。
 それから改めて、私に顔を近づけて――今度は唇に触れただけじゃなくて、柔らかく、少しの間塞がれた。
 私も、二度目でようやくわかった。
 帰り道の途中で、帽子に隠れて、私たちは唇を重ねていた。

 漫画だとこの上なく美しい場面なのに、現実はどこか気まずかった。
 唇が離れた後、私は目のやり場に困ってうつむいた。
「何も、往来でしなくても……」
「帰宅後だと、する余裕がないように思えたので。失礼いたしました」
 全く『失礼』とは思っていない口調で庸介が答える。
 横目で窺えば、彼は眼鏡をかけ直し帽子も被っているところだった。頬が赤いように見えるけど、私よりはずっと落ち着いている。
「余裕がないって何。今日じゃないといけなかった?」
「ええ。夏休みの思い出ですから」
 そんなふうに言われたら、私も返す言葉がない。
 何より、好きな人からキスされて嬉しくないはずがない。きっと今夜も眠れぬ夜になるのだろう。わかっている。
「初めてのおつかいが、ようやく無事に終わった気がします」
 庸介がしみじみと呟いている。
 暮れゆく夏空を見上げつつ、私も、そうかもしれないなと思う。

 あの日の記憶は私にとって、いい思い出ではなかった。ずっと。
 だけど今日になってようやく、忘れがたい大切な思い出に変わった。