初めてのおつかい(5)
運ばれてきたふわふわかき氷を見るなり、私の胸は高鳴った。その名の通り新雪みたいにふわふわ降り積もった氷の上に、真っ赤に熟したイチゴの果肉と、同じように赤いシロップがふんだんにかけられている。更にその上からとろりと甘そうな練乳もかかっていて、一目見ただけでときめいてしまった。
「美味しそう!」
「美味しいよ、絶対」
宇治金時のかき氷を前にした渡邉さんが、自信たっぷりに胸を張る。
そうなるといても立ってもいられなくて、私は銀色のスプーンをもどかしい思いで掴んだ。そしてまずは一口、ふわふわの山の麓の辺りを切り崩してみる。
口の中へ運んだ途端、ひんやり冷たい氷はふわんと煙みたいに溶けてしまう。
「わあ……ふわふわ!」
「氷だけ食べても意味なくない?」
渡邉さんが笑うので、改めて氷の頂を攻めてみる。
まずはイチゴシロップだけがかかっている部分を掬う。甘めかなと思いきや結構しっかり酸味があって、シロップというよりイチゴをそのままソースにしたみたいだった。イチゴ果肉は芯まで凍らせてあって、甘酸っぱさとしゃりしゃりした食感がたまらない。
次に練乳部分を食べてみる。こちらは予想するまでもなくすごく甘い。だけどイチゴシロップとの相性はまさにベストカップルで、二つを合わせて口に運ぶとまさに至福の美味しさだった。
「美味しい! かき氷最高!」
私が歓声を上げれば、渡邉さんにはくすくす笑われた。
「主代さん、すごいテンション。かき氷食べたことない人みたい」
「食べたことはあるけど、お店ではないの」
かぶりを振って答える。
「うちの母、外食にはうるさい人だから。目の届かないところで食べちゃ駄目って」
「へえ、やっぱそういうのあるんだ」
渡邉さんは納得したように頷いた後、はたと気づいて、
「あれ、ってことは今日はいいの?」
「えっと、今日のは秘密ってことで……」
私が両手を合わせると、彼女も察してくれたようだ。心得たというふうに笑った。
「わかった。秘密だね」
もっとも、今のは庸介宛てに言ったお願いでもあった。
私がお外でかき氷を食べたこと、うちの母には秘密にして欲しい――カウンター席の庸介はこちらを振り向くこともなく、一人でアイスコーヒーを飲んでいる。
その態度を勝手に了承と受け取り、私は練乳いちごのかき氷を心ゆくまで味わった。
途中で頭が痛くなったりもしたけど、それもまたかき氷の醍醐味というものだ。
「だけど外食駄目なんて、主代さん家って厳しいんだね」
渡邉さんは同情するようにそう言ってくれた。
「うん……」
厳しい、と言われるとちょっと違う。
父も母も私には優しい。二人とも私を気遣ってくれるし、愛してくれてもいる。そうでなければ私のわがままでしかない転校を許してくれたり、欲しいと言った香水をわざわざ買ってくれたり、海外旅行に連れていってくれたりなんてしないと思う。
でも。
「ね、渡邉さんはご両親と仲いい?」
思い切って尋ねてみたら、渡邉さんは長い睫毛で瞬きをした後、
「うーん……まあ、いい方じゃないかな。一緒に旅行するくらいだしね」
と言った。
うちも旅行は一緒にする。ほとんど別行動だったけど。
これは、仲いいうちに入るのだろうか。
「主代さん家はそうじゃないの?」
「ううん、多分いいんだと思う。ただ……」
ただ、時々寂しい。
私がどうして欲しいのかを、父も母もどちらもわかっていない気がして。
「この間、香水が欲しいって話したよね」
「徒野に買ってもらったやつでしょ?」
「うん。でもあの時ね、父も買ってくれてたんだ」
贅沢なわがままだってわかっている。
だけど私は、香水が欲しい、買いに行きたいって訴えたつもりだった。
「私は自分で選びたかったのに、どれが欲しいとかどこで買いたいとか何も聞かないで、先に香水を買ってくれてたの」
「ああ、それは微妙。親ってそういうとこあるよね」
渡邉さんにも同じ経験があるのか、そこで大いに共感された。
「うちの両親はずっとそうなの。私の為にたくさんのことをしてくれて、優しいけど、私に何が欲しいか、どうしたいかは聞いてくれない。全部自分で決めちゃうの」
それがいいことなのか、悪いことなのか、私にはよくわからない。
もしかしたら、大人になってから振り返ったら、この時のことを深く感謝するようになっているのかもしれない。
だけど今の私は違う。
「去年の誕生日にもね、ブローチをくれたの。誕生石のブローチ」
十二月生まれの私の為に、ターコイズのブローチを作らせてくれた。ロビンズエッグブルーの、台座がプラチナでできている、とても美しいブローチだった。
「でも私、子供のうちは誕生石は欲しくなかった」
そんなのはわがままだ。自分でもわかっている。
わがままだとしてもその時も思った。私に何が欲しいか、聞いてみてくれたらよかったのにって。
「上手く言えないけど……買う前に聞いて欲しかったの」
「わかるわかる。誕生石はやっぱ彼氏から欲しいよね」
渡邉さんがにやりとしたので、すぐ傍に当の『彼氏』がいる身としては思わず慌てた。
「う、うん。あ、別に無理はしなくていいんだけど!」
「いいじゃん。将来、徒野にも買ってもらいなよ」
「別にいいの、本当に。安いものじゃないし。無理して欲しくないし」
庸介が聞いているかもしれないので、そこは強調しておいた。
彼はまた帽子を被り直していたけど、表情はやはり見えない。
「とにかくね、何かしてくれる前に私に聞いてくれたらなって思う」
私は残りのかき氷をスプーンで突き崩しながら、ぼやくように言った。
「うちの両親は私のこと、全然わかってないんじゃないかって……忙しい人たちだから仕方ないのかもしれないけど」
親子三人でゆっくり話をする機会なんて全然なかった。
夏の旅行ではそれでも一緒に食卓を囲んでいたけど――そういえばあれ以来、三人でご飯を食べていない。
だからかな。私はいつも、わかってもらえていない気分になる。
「それもわかるなあ。私も昔、そう思ってた」
渡邉さんも宇治金時をざくざく口に運びつつ、だけどそこで大人っぽく微笑んだ。
「でもさ、いちいち言わなきゃわかんないもんじゃない? たとえ親でも、子供から直接聞かないと知らないもんだよ」
同い年なのに、年上のお姉さんみたいに見えるその微笑を、私は虚を突かれたように見つめていた。
どうしてだろう。今の言葉にはとても深い実感が込められていたように思う。
「……実はさ」
渡邉さんがそこではにかみ、語を継いだ。
「昔、付き合ってた人がいたんだよね。年上の」
初耳だった。
そういう話を渡邉さんの口から聞くこと自体、初めてだった。
「そうなの? どんな人?」
興味を持って尋ねたら、彼女はさらりと答える。
「リーマン。十歳上だった」
「じゅっ……」
予想外の数字に絶句する私を、渡邉さんはおかしそうに見ている。
「びっくりでしょ。っつっても上手くいかなかったんだけど」
「どうして?」
「ぶっちゃけると、ホテル入るとこ見られて停学食らったから」
そう語る彼女はどこか恥ずかしそうだったけど、
「……えっと。パーティ、とかで?」
聞き返す私も、自分のことではないのにすごく恥ずかしかった。
「んなわけないじゃん。そういうホテルじゃないから」
渡邉さんが手をひらひらさせる。
「え、じゃ、じゃあ――」
「ま、そういうことだよね」
「わあ……」
言葉にならない。
目の前の渡邊さんが急に、一層大人っぽく見えてきたけど、彼女はむしろ飄々と肩を竦めた。
「言っとくけど、私は本気だったんだよ。向こうも、多分ね。でも停学になったら続けられるはずないしね。それっきり」
「そう、なんだ……」
もちろんそれがいいとか、悪いとかではなくて――いや、停学になるならよくないことなのかな。
だけど悪いこととも言い切れない気がする。上手く言えないけど、渡邉さんはただ好きな人と一緒にいただけ、だったのかもしれない。もちろんそれが第三者に評価された上での停学処分、だったのだろうけど――。
私にはわからない。
ただ理不尽だという気持ちがあって、でもそれを判断できる自信もなくて、何と言っていいのかわからなかった。
渡邉さんは古い思い出話のように、淡々と続けた。
「自業自得って言ったらそうなんだけどね。社会人と付き合ってるのが自慢で、クラスの友達にも言い触らしてた。皆も羨ましがってたのに、停学になったらさすがに引かれてさ。主代さんが来るまで私、完璧ぼっちだった」
それで私は以前、蒲原くんが言っていたことを思い出す。
『あいつ、女子ん中じゃ浮いてるけど』
彼の発言を証明するみたいに、渡邉さんがクラスの他の女子と話しているところは見たことがなかった。
そういう経緯があったのなら――それでもやはり、理不尽だと思ってしまうけど。
「そん時さ、うちの親もめちゃくちゃ怒ったの」
渡邉さんの口ぶりがからりとしていることだけが唯一の救いだ。
「私のこと馬鹿だとか、騙されたんだとか結構言いたい放題言われたからさ。じゃあ私の何知ってんのって言い返したら、うちの親、私のことなんて何も知らなかったんだ」
ずきりとする言葉の後、彼女は肩を竦める。
「当然だよね。私、親に何にも話してなかったんだもん」
「何にも?」
「うん。元カレのことも、どうやって付き合い出したのかも、どこが好きだったのかも、十歳も年上の人に対して将来を真剣に考えてたことも――何もかも」
お互い、かき氷はあっという間になくなってしまった。
空の器をスプーンの先でこんこん叩いて、渡邉さんは微笑む。
「だからその時から、親といろんなこと話すようにしてさ。ちょっとしたことでも話して、聞いてもらうように心掛けてさ。そしたらうちの親も気遣ってくれてんのか、すっごく優しくなったんだよね。買い物連れてってくれたり、旅行に連れ出そうとしてくれたり」
夏休みの浅草観光も、そういう優しさの一つなのかもしれない。
そう考えたら羨ましくて、私は思わず尋ねた。
「そうしたら、ご両親とわかりあえた?」
「わかりあえた、かどうかは自信ないけど……少なくとも仲良くはなれたよ」
彼女の表情は明るい。
曇り一つないその笑顔が、今の私には少し眩しい。
「だからさ、主代さんも話した方がいいよ。親って案外子供のこと知らないから。言わなきゃわかんないんだから」
考えてみたらそれは当たり前のことだ。
親子に限らず、人間関係全てに当てはまることだ。
庸介のことも、渡邉さんのことも、長い時間を一緒に過ごしてきた後でさえ、じっくり話してみるまで知らないことがたくさんあった。逆も然りで、庸介や渡邉さんに私を理解してもらうのには、私が話すことが必要だった。
なのに両親とだけ、話さないでわかってもらおうとするのはおかしい。同じように話さなければわからなくて当然だ。親子だって、人間関係の一つに違いないから。
「……そうだね。本当にそう思う」
腑に落ちて、不思議と晴れやかな気分になった。
「ありがとう、渡邉さん。そうしてみる」
私がお礼を言うと、渡邉さんは照れくさそうにした。
「こんなろくでもない体験でも、参考になればいいけど」
「ううん。すごく勉強になったよ」
「よかった。引かれたらどうしようかと思ってた」
彼女はそう言うけど、引くはずがない。
だって私の話も引かずに聞いてくれた。
大切で、大好きなお友達の話だ。何だって受け止められた。