Tiny garden

ヒーローと猫耳少女(2)

 体育祭当日、私はすっかり寝不足の頭で登校した。
「眠そうだな、六花」
 教室では『幼なじみ』の庸介が、心配そうに私を見ている。
「俺には早く寝るよう言っておいて、君は夜更かししたのか?」
「……漫画読み始めたら止まらなくて」
 私はそういう言い訳をしたけど、事実はもちろん違う。
 でも事実の通りに『誰のせいだと思ってるの』なんて言うのは抵抗があった。庸介が変なことを言ったから、気になって全然寝つけなかった。どういうつもりかなんて、ちっともわからない。
「今日は気温が高くなりそうだ。競技中以外は日陰にいた方がいい」
 こちらの心中も知らず、庸介は教室の窓に目をやる。
 その向こうには夏らしいすっきりとした青空が広がっていた。体育祭日和、とでもいうのだろうか。

 朝のホームルームで、生徒には青いハチマキが配られた。
 なぜ青かと言えば、私達二年生が授業で着用するジャージが紺色だからだ。袖や裾に白いラインが入っただけのシンプルなジャージだった。デザインがいまいちなのはどこの学校も同じらしい。
 おまけにハチマキなんて巻いたことがないから、結べと言われても結びにくい。私は校則遵守の為に髪を短くしていたから尚更だった。
 前髪を挟まないよう額に巻いて、力を入れ過ぎないよう後ろで軽く結んだところで、
「ちょっ、主代さん! 何普通に巻いてんの!」
 なぜか渡邉さんに吹き出されてしまった。
「え、お、おかしい?」
「うん、すっごい変! 何かベタな浪人生みたい! 今年こそ志望校受かるぞー的な?」
 ころころとひとしきり笑った後で、渡邉さんは苦労して結んだ私のハチマキを解いた。
「貸して、私が結んだげるから」
「じゃあ、お願い」
 私が頷くと、渡邉さんは青いハチマキを一旦机の上に置いた。そして慣れた手つきで、ぱたぱたと折り畳むように結び目を作る。
「頭に巻く前に結ぶの?」
「そう。こうやると可愛いんだって!」
「へえ……知らなかった、そうなんだ」
 感心している間に、彼女はハチマキにもう一つ、結び目を作った。控えめな三角形の結び目は、間隔を開けて二つ並んでいる。
「これを巻くの?」
「いいからいいから、じっとして」
 論より証拠とでも言いたげに、渡邉さんは私の頭に――額にではなく、ヘアバンドのようにハチマキを乗せた。耳の後ろを通して、うなじの辺りで痛くないように結んでくれた。
 その後で私をくるりと引っ繰り返して、
「できあがり! 猫耳だよ!」
 満面の笑みを浮かべてみせる。
「猫耳……?」
「ほら、頭のてっぺん触ってみ」
 言われてハチマキに触れてみると、三角形の結び目は、確かに猫耳らしい配置に収まっていた。
 更に渡邉さんは手鏡を差し出してくれて、私はそれを覗き込む。何の変哲もないハチマキが、私の頭に小ぶりの尖った耳を作ってくれていた。
「わあ、可愛い!」
 私が声を上げると、渡邉さんは得意げな顔になる。
「でしょ?」
「すごいね、渡邉さん! こんなこともできるんだ!」
「いや、皆やってるって。猫耳以外にもあるしね」
 教室内を見回してみれば、他の女子生徒もハチマキの結び方には凝っているようだ。頭のてっぺんに大きなリボンみたいに結わえた子もいれば、ねじってサイドで結んでいる子もいる。私達と同じ猫耳派も、結び目を一つにした角派もそれなりにいた。
「皆、アレンジが上手なんだね」
「だって、どうせなら可愛くしたいじゃん?」
 そう言って、渡邉さんは自分の頭にも猫耳ハチマキを載せた。今日の為に長い髪をポニテにしてきた渡邉さんに、可愛い猫耳はとてもよく似合っていた。
「主代さんの前の学校ではこういうのなかった? うちだけじゃないと思うんだけど」
「ううん、なかった……」
 前の学校ではハチマキと言えば『普通に巻く』しかなかった。ここよりも厳しい学校だったからかもしれない。転校してみないとわからないことって、たくさんあるな。
「さて、せっかくだから彼氏にも見てもらおっか?」
 渡邉さんがにやりとする。
「べ、別にいいよ! どうせ後で見せるんだし――」
 そして私が断ろうとする間もなく、
「徒野! ちょっとこっち来て!」
 教室中全員が振り向くような声で、庸介を呼びつけてしまった。
 皆が準備をする中、庸介もやはりハチマキを結び終えていたようだ。彼の髪は私のものよりも硬そうで、それを押さえつけるみたいにハチマキを巻いている。
「何か用かな、渡邉さん」
 冷静に答える庸介に対し、渡邉さんは私の肩を掴んでぐいと押し、
「ほら、見て見て! 可愛いでしょ?」
「わっ、渡邉さん!」
 私はまるで突き出されるように、よろけながら庸介の前に立つ。
 それで庸介は、とっくりと私の姿を眺め始め――多分、数秒間でしかないその瞬間を、私は居たたまれないような、落ち着かないような、恥ずかしくて逃げだしたくなるような気持ちで過ごした。庸介が私を観察することなんて珍しくもなく、いつも出がけに服装と髪型のチェックをされているような間柄なのに、今はなぜか酷く、戸惑う。
 そして私が戸惑っているうちに、彼は言った。
「変わった結び方してるんだな、可愛いよ」

 その言葉は、普段の庸介からは決して聞くことのできないものだ。
 普段なら誉める時は『よくお似合いですよ、お嬢様』だから。

 だから、誉められたにもかかわらず喜ぶ余裕すらなくて、私は呆然と庸介を見つめた。
「ほら、猫耳可愛いって! よかったじゃん主代さん!」
 渡邉さんが私の肩をがくがく揺すったけど、それでも何も言えなかった。
「猫耳?」
 庸介は怪訝そうにしている。
 そこで渡邉さんは私のハチマキの結び目を手でぽんぽんして、
「見りゃわかるでしょ。どう見たって耳だもん」
「そうかな……俺の目にはリボンに見えた」
「はあ? 徒野の目、ビー玉なんじゃないの?」
「そんなことはない。猫耳なんて、言われてもぴんと来ないな」
 渡邉さんの軽口にも逐一真面目に答えた後、庸介は首を捻っていた。どうしてもこの結び目が猫の耳には見えないみたいだ。彼らしいといえば、実にらしい。
 すると今度は、庸介の肩が後ろからぱちんと叩かれた。
「あーあ、これだから徒野は! 見りゃわかんだろ、どう見ても可愛い猫耳だろ!」
 蒲原くんだ。
 彼はハチマキをネクタイみたいに首に結んでいて、そこにリレー選手としての気負いは見受けられなかった。
「いきなり叩くなよ、蒲原」
 途端に顔を顰める庸介をよそに、蒲原くんは私に笑顔を見せる。
「俺にはわかるよ主代さん! すっげー可愛い! 似合ってる!」
「あ、ありがとう……」
「ちょっと蒲原。私も同じのにしてんだけど、私には?」
 渡邉さんが自らの猫耳を指差した。
 今度は蒲原くんがしかめっつらになって、
「いや、渡邉はいいよ。お前だと猫耳っつか化け猫だわ」
「んだとコラ」
「猫耳で凄むなよ! そういうところが化け猫なんだよ!」
「しかもリピートしやがったなこの野郎」
 渡邉さんと二人で、楽しげにじゃれ合い始めた。
 私はそのやり取りに吹き出しそうになりつつも、横目で庸介の表情を窺ってしまう。
 ちょうど庸介も私を見ていて、目が合うと彼はどこか楽しげに笑いかけてきた。
「どうかしたのか、六花」
「……う、ううん。何でもない」
 何でもなくない。
 やっぱり、変だ。私なのか、庸介がなのかはわからないけど、今日は何かがいつもと違う。

 やがて、私達は夏場のグラウンドに放り出された。
 そこで高らかな選手宣誓を聞き、校長先生の長いお話を聞き、更には準備運動も皆でして、ようやく体育祭開幕だ。

 私の出場競技は二百メートル走と走り幅跳び。どちらも二年女子は全員参加の競技だった。
 特に運動が得意というわけでもない私は、どちらの競技でも可もなく不可もなくの記録を出して終わった。ただ、庸介がこっそり写真を撮っているのではないかと思って、その点だけが気がかりだった。だけど競技中にそれらしい姿を見かけることはなかった。
 彼は昨夜『俺と一緒に写ってくだされば』と言っていたから、私一人の写真を撮るつもりはないのかもしれない。
 でもそれなら、一体いつ撮るのだろう。

「お、来た来た。二年男子の二百だよ」
 渡邉さんの言葉通り、競技は滞りなくプログラム通りに進んで、庸介が走る男子二百メートルが始まった。
 リレーこそ学年対抗だけど、その他の競技はあくまでも個人同士の競い合いだ。クラスメイトが同じレースで走るので、庸介がスタートラインに立った時、その二レーン隣には蒲原くんの姿もあった。
「あいつら、運命かよ。何で二百まで一緒なの?」
 声を上げて渡邉さんが笑うので、私もちょっと笑ってしまった。
 でも号砲が鳴ったら笑ってもいられなくなった。クラウチングスタートから飛び出した庸介は、二十八センチのスニーカーがグラウンドを引っ掻くように蹴り、渇いた土煙を舞い上げながらひた走る。音が聞こえてきそうなほど強く腕を振って風を切り、ぐんぐんとスピードを上げていく。グラウンド外周で見守る私は、目の前を走り去っていくその真剣な横顔を、一瞬だけしか捉えられなかった。
 あとはみるみる遠ざかっていく後ろ姿を見守るだけだった。
 リレーの練習の時と同じように、庸介はとても速かった。だけど蒲原くんも速くて、庸介にがっちり食らいついて駆け抜けていくのも見えた。二人のハチマキがたなびき、その背中がみるみる遠ざかっていく。
「徒野、頑張れー!」
 渡邉さんが手を挙げて応援している。
 他のクラスメイトたちも挙って声援を送る。
 だけど私は声も出せず、ただ黙って庸介の背中を見つめていた。

 一瞬だけ見えた、あの真剣な横顔が目に焼きついていた。
 走る時は本当に別人みたいだ。
 すごく格好いい。どう形容していいのか分からないけど、本当に、すごく。
 写真を撮るなら、徒野さんたちに見せるなら、庸介のああいう顔を撮りたい――風みたいに走り抜けてくたった一瞬のその顔を、だけど、どうやったら撮れるだろうか。次のチャンスはリレーだけで、実質最後のチャンスでもある。
 私の目にならしっかり写せていたのに、あいにく誰にも見せることはできない。
 だから、リレーではいい写真を撮らないと。
 それと二人で写真を撮る件も、いつにするのか、お昼にでも聞いておかないと。

 体育祭がプログラム通りに進むにつれ、私は不思議と緊張し始めていた。
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