まっしろな嘘(4)

 夕食前の午後六時、庸介は私の部屋に現れた。
「お嬢様、お呼びでしたか」
 部屋に入ってきた彼は、制服のままソファに突っ伏す私を見つけて驚いたようだ。慌てた様子で駆け寄ってくる。
「どうなさいました。ご気分が優れないのですか?」
「……ううん、そうじゃない」
 私はのろのろと顔を上げる。
 ソファの横に屈み込む庸介が、私の顔を見て眉を顰めた。
「ですが、浮かないご様子に見えます」
「そうだね」
「何か、お困りのことでも?」
 使用人の口調で尋ねてくる彼に、何と答えていいかわからない。
 話を聞いてもらいたくて呼びつけたはずだった。でも聞いてもらいたかった内心は私の中でもまとまっていなくて、どう切り出していいのかわからない。
 私が寝そべったまま黙ったからか、庸介も気まずげに部屋の中を見回した。お香を焚き込めた室内には、沈香の澄んだ香りが漂っている。私にとっては心落ち着く香りのはずだけど、今日ばかりは安らげない。
「……どうされたのです、お嬢様」
 困惑した様子の庸介が、ふと、ソファの傍にあるテーブルに目をやる。

 私の部屋は現在、和モダンをテーマに家具を揃えている。私が寝そべっているソファはレトロなキルティングの革張りソファで、古きよき時代の喫茶店のような趣がとても気に入っていた。
 そしてソファに合わせて置いているのがマホガニーの猫脚テーブル。アンティークらしいレトロ感といい、深みのある色艶といいとてもお気に入りで、私はもっぱらここで宿題や予習をすることが多かった。
 その卓上に、今は紙袋しか置いていない。
 父が贈ってくれた、シャネルの香水が入ったままの紙袋。

 庸介は紙袋に気づいたのかどうか、そこで溜息をついた。
「『宿題について聞きたいことがある』と仰っていたそうですが」
 暗に、勉強道具を何も出していないことを訝しんでいるのだろう。
 私はようやく起き上がり、ソファに座り直してから応じた。
「嘘だよ、嘘。真っ白な嘘」
「悪気のない嘘だと、そう仰りたいのですか」
 庸介は、私のタイリボンの歪みを直しながら聞き返してくる。
「そう。だって私、いっぱい嘘ついてるんだもの。今更一つや二つ増えたって、どうってことないじゃない」
 嘘をついて学校に通い、庸介とも偽りの関係を続けている。
 そして今日、父や徒野さんにもまた嘘をついた。
 初めてではない嘘。どうってことないはずなのに、どうしてか酷く気が重い。
「それで、他にはどんな嘘を?」
 辛抱強く、庸介が聞き出そうとしてくる。
 私の口はそれでも重かったけど、代わりに視線で答えた。卓上の紙袋をじっと睨んだ。
 庸介は私の視線を追った後、目を瞬かせた。
「あれは?」
「お父さんがくれた。香水だって」
「シャネルの、ですか。拝見してもよろしいですか?」
「お願い。そのことも話したかったの」
 それで庸介は立ち上がり、紙袋から香水の箱を取り出す。そしてしばらくの間、ためつすがめつしてみせた。
「どう思う?」
 私の問いかけに、やがて彼は難しげな顔をする。
「一般的な女子高生なら、シャネルの香水など使わないでしょう」
「やっぱり、そうだよね……」
「香りは確められたのですか?」
「ううん。お香焚いてるし」
 その気になれなかった、という方が正しいけど。
「もしかしたら、お嬢様にお似合いの香りなのかもしれませんが」
「かもしれない。お父さんとお母さんが、相談して買ったって」
「お嬢様はお気に召さなかったのですね」
「……うん」
 率直に言えばそういうことだ。
 だけど何が気に入らないのか、まだ上手く言えない。お出かけした先でお買い物がしたかった。渡邉さんと同じのが欲しかった。せめて、自分で選んでみたかった。私の正しい気持ちはどれだろう。
「エンジェルハート、って知ってる?」
 私が口にした名前に、庸介はかぶりを振ってみせた。
「いいえ」
「渡邉さんが使ってる香水。いつも、いい匂いだよね」
「そうでしょうか」
「いい匂いだよ。庸介は嫌い?」
 芳しくない反応に私が尋ねると、
「お嬢様にお似合いだとは思いません」
 庸介は肩を竦めてから、どこか腑に落ちたような顔をした。
「ですが、そちらが欲しかったのですね」
「うん」
 私は、頷く。
「欲しかったの。買い物のお許しが出たら買おうって思ってた」
 いいのは香りだけじゃなくて、香水瓶の形も可愛かった。すごく欲しかった。
「まさか、お父さんが先に買ってるなんて思わなかった……」
 声に出して呟くと、後ろめたさが湧き起こる。
 ソファの上で膝を抱えて、私は庸介に訴えた。
「お父さんが私の為に買ってくれたのはわかってる。お母さんとも相談して、自分でも私に似合うものを調べてくれて――忙しいのにそこまでしてもらっておいて、他のが欲しかったなんて言えない」
 すると、庸介はしっかりした眉を片方だけ上げてみせた。
「それで、お嬢様は何と仰ったのですか」
「『ありがとう、大切にするね』って」
「なぜ正直に仰らなかったのです」
「言えるわけないよ、他のが欲しかったなんて」
 正直に言ったら、父はがっかりすることだろう。
 毎日忙しくて、今日も私にプレゼントを渡したらすぐに家を出ていってしまった。そういう人を悲しませたりはできない。
「お嬢様は昔からそうですね」
 庸介が憐れむような口調で言う。
「いつもはわがままなくせに、肝心なところで嘘をついて、本当の気持ちを口にできない。あなたはそういう方でいらっしゃいます」
「そうかな……と言うか、わがままって言った?」
「事実でございますから」
 平然とされてちょっと腹が立った。
 私がむっとしたのを見てか、庸介は再びソファの前に屈み、目を合わせてきた。
「あの時もそうでしたね。お嬢様の、初めてのおつかい」
 同い年とは思えないほど落ち着き払った眼差しに、私も昔を思い出す。
 あの時は、庸介だって泣きそうだったくせに。
「お嬢様はおつかいを誰にも誉めてもらえなくて、しかも俺が尾行しているのに気づいて、とても腹を立てておいででした。なのに……」
「言ったね。『二人でおつかい、頑張ったね』って」
 私が話を引き継ぐと、庸介は微かに笑った。
「思えばあれも、嘘でした」
「……知ってたの?」

 あの頃から、私の両親はとても忙しい人だった。
 私は二人から誉められたくて初めてのおつかいを敢行したけれど、両親が見に来てくれるはずもなく、徒野さんをはじめとする皆は当然ながら止めようとするばかりで、むきになっていたのだと思う。
 おまけに庸介が後からついてきているとわかって、私は切れた。
 子供らしい身勝手さで泣いて、喚いて、庸介に八つ当たりした。
 なのに庸介は帰ろうともせず、私を帰そうともせず、私に最後までおつかいをさせようとして――不機嫌な私の前で泣きそうな顔をしながら、じっと辛抱強く待っていた。
 最後には、私の方が根負けした。

 そして初めてのおつかいの帰り道。
 庸介がまだ泣きそうな顔をしていたから、私の方はもう泣くに泣けなくなった。
 仕方なく、彼と手を繋ぎながら、こう言ってあげた。

『二人でおつかい、頑張ったね』

 もしかしたらそれは、私が初めてついた、真っ白な嘘だったのかもしれない。
 だって本心ではなかった。本当に見てもらいたい人に見てもらえなくて、とても頑張ったなんて言えないような結果で、一人でやり遂げたわけでもなくて、がっかりしていた。
 だけど庸介は私以上に落ち込んでいたから、仕方なく嘘をついた。

 まさかそれを、あの小さかった庸介が察していたとは思わなかった。
「お嬢様は俺ではなく、お父様とお母様に見届けて欲しかったのでしょう」
 また微かに笑って、庸介は続ける。
「そのお気持ちは存じておりましたから、きっと俺を気遣ってくださったのだと」
「そんなふうに考える子供、ちょっと怖いよ」
 私は苦笑したけど、彼の笑い方はもう少しだけ嬉しそうに見えた。
「でも俺は、あのお言葉を大切にしております」
「どうして?」
 あれが嘘だとわかっているのに、おかしな話だ。
 おかしいと言えば今日の昼休み、渡邉さんに語って聞かせた嘘の話だってそうだ。
 愚かな子供が慰めの為についた、稚拙な、真っ白な嘘。それが好きになるきっかけだなんてあり得ない。庸介は嘘をつくのが案外下手なのかもしれない。
「どうしてもです」
 庸介はそういう回答でかわしただけだった。
 それから急に、両手で私の手を包むように覆ってみせた。
 硬くて少しざらりとした手が、今はほんのり温かい。初めてのおつかいの時にも繋いだ手だ。あの時はもっと、柔らかかった記憶があるけど。
「お嬢様。あの香水は、学校につけていかない方がよろしいでしょう」
「そうだね。お父さん達と出かける時にでも使うことにする」
 全く使わないでしまい込んでいると、父がまた泣き真似をするだろう。本当に泣いてしまうかもしれない。だから、今度、使ってみよう。
 私の答えを聞いて、庸介は満足そうに顎を引く。
「はい。普段使われる分は、今度買いに行きましょう」
 それはちょっと不安だった。
 せっかく貰ったものがあるのに、他にも欲しいと言ったら、やっぱり悲しまれないだろうか。
「お父さんがいいって言うかな」
「ですから、皆には内緒で」
「内緒?」
 どういうことかと思う私に、庸介は目を逸らさず語りかけてくる。
「次は俺が、お嬢様にプレゼントいたします」
「……庸介が?」
 突然の申し出をますます怪訝に思った。
 だって、誕生日でもないのにそこまでしてもらう必要は――。
「悪いよ、そんなの」
「なぜです」
「なぜって、理由もないのにプレゼントなんて」
「理由ならあります」
 庸介が私の手から、ゆっくりと両手を離す。
 次にその両手が包み込んでくれたのは、私の頬だった。
「俺にはあります。違いますか、お嬢様」
 唇は笑んでいるのに、瞳はとても真剣だ。いつもはほっとするその眼差しに、なぜかどきどきする。
 こうして頬に触れられるのも、すごくどきどきする。

 庸介が私にプレゼントをくれる、その理由は、一つしかない。
 嘘だけど。本当じゃないけど。でもその一つきりしか思い浮かばない。

「貰っても、いいの?」
 確かめる声が震えた。
 だからか、庸介は気遣わしげに私の頬を撫でてくれた。
「俺が贈りたいんです」
「でも、安くないかもしれないよ」
「大丈夫です、多分」
 ほんのちょっとだけ、不安を見せたような気がする。
 今度は私が笑う番だった。
「ありがとう、庸介。大切にするからね」
「まだ差し上げてないですよ」
「今から約束するよ。絶対、大切に使う」
 彼氏から貰う、初めてのプレゼントだ。大切にする。
 たとえそれが嘘の関係だろうと、庸介が私の為にお金を使い、買ってくれる。贈りたいと言ってくれている。そのことは決して、嘘ではないから。
「そうしてもらえると、俺も嬉しいです」
 庸介は言葉通り、嬉しそうに目を細めた。
 それから私の頬からも、そっと手を離す。ソファの前から立ち上がり、私を温かく見下ろしながら言った。
「そろそろお夕食の時間になりますね。参りましょうか」
「うん。……ね、庸介」
「どうしました、お嬢様」
 聞きたいことがあった。
 それは、つまり、今日の昼休みの渡邊さんに語ったことについてだ。
 あの時、私を好きになったのだと、庸介は言っていた。
「庸介は……――」
 でも、いざとなると、上手く言葉にできない。
 庸介が眉根を寄せたので、私はまごまごしながら、
「あ、あのね。庸介は、私には嘘ついたりしないよね?」
 恐る恐る、聞いてみた。
 するとどうだろう。庸介はおかしそうに吹き出した。
 クラスメイト達がそうするように、普通の男子みたいに。
「俺に、本当のことばかり言って欲しいとお思いですか?」
「えっと……どうかな。よく、わからない」
「もしかすれば嘘をつかないのではなく、つけないのかもしれません」
 そして、そんな謎めいた答えをくれた。

 ちゃんと聞きたいことを聞かなかったからか、余計にわからなくなってしまった。
 でもそんな、はっきりとなんて聞けるはずがない。
 あれも嘘です、とでも言われたら――多分、寂しいから。