まっしろな嘘(3)
お弁当を食べ終えると、庸介はいち早く席を立つ。「弁当箱を洗ってくるよ」
そう言って、教室を出ていく姿を見送った。
実を言えば、このタイミングを待っていた。
渡邉さんに聞いてみたいことがあったからだ。庸介のいないところで。
「ね、渡邉さん。質問があるんだけど」
改まって切り出した私に、手鏡を覗いていた渡邉さんがこちらを見る。
「質問って、何?」
「渡邉さんが使っている香水を教えて欲しいの」
「ああ、そんなことか」
思いがけない質問だったと見えて、渡邉さんは長い睫毛を瞬かせた。
でも私にとっては、ずっと聞きたくてたまらなかった質問だった。
「いつも、いい匂いがするから気になってて」
彼女がよく漂わせているのは、果物みたいな甘い香りだ。それが私には女子高生の象徴のように思えてならなかった。私も買うならそれにしたいと考えていて、今は買い物のお許しを貰えるかどうかというところだった。
「私も買おうって思ってるの。お父さんがいいって言ってくれたらだけど」
「え、何それ。主代さんちのお父さん厳しいの?」
その問いにはちょっと迷ってしまった。
厳しくはないと思う。むしろ優しい。だけど、
「そう、かも。香水はいい顔されないかもしれなくて」
「そっかあ、大変だね」
渡邉さんはそこで同情的な笑みを浮かべた。
「うちなんて、しょっちゅう一緒に買いに行くよ」
「お父さんと?」
「うん。ドラッグストアで買い物のついでに、『これも買って』っつってカゴにぽんぽん放り込んだりする」
何気なく語られる親子関係がいいな、と思う。
私は、父とドラッグストアなんて行ったことすらない。
「主代さんもおねだり成功するといいね」
慰めるように言ってくれた渡邉さんが、その後で自分の鞄から何かを取り出す。
「私が使ってんのはこれ」
それは、ころんとしたハート形の、赤く透き通った小さな瓶だった。
「わあ、可愛い!」
「でしょ? 匂いもだけど形も気に入ってんだよね、エンジェルハート」
「エンジェルハートっていうんだね」
初めて聞くその名前を、しっかりと記憶の中に刻み込む。
父からお許しが出たら早速買いに行くとしよう。
「ありがとう、渡邉さん」
私がお礼を言うと、渡邉さんはくすぐったそうに長い髪をかき上げた。
「このくらいでお礼言うことないって。買えるといいね」
「うん、頑張ってみる」
「もし駄目だったら私の貸したげるよ、いつでも言って」
「ありがとう」
またお礼を言ってしまったからか、そこで渡邉さんが吹き出した。
「いいってば。主代さんって面白いよね」
私も、心の中で思う。渡邉さんはいい人だ。
普通の女子高生になりきれていない私にも、とても親切にしてくれる。きっと変なことをたくさん言っているに違いないのに、不審がらずに笑ってくれる。そういうところがとても嬉しい。
こっちの学校にはまだ慣れていないけど、いいお友達ができてよかったな。
「これ、何気に男子受けもいいんだよね」
エンジェルハートの瓶を手のひらで転がしながら、渡邉さんはにやりとする。
「つけたらきっと、徒野も誉めてくれると思うよ」
「それは、どうかな……」
その言葉には首を傾げざるを得ない。
私が苦笑したからか、一転して怪訝な顔になった渡邉さんが、
「あれ、そうでもないの? あいつ香水嫌いとか?」
「というより、庸介ってあまり誉めてくれない人だから」
「えっ、そうなの?」
「新しい服を着ても『似合う』とは言うけど、『可愛い』とは絶対言わない」
正確には、『よくお似合いです、お嬢様』としか言わない。
「うわ、マジで? それ言ってくれないなんて最悪じゃん」
渡邉さんも憤慨したように眉を顰めた。
「あとは、宿題を頑張ったら誉めてくれることもあるけど」
「そこまでいくと、もはや保護者じゃん……」
その評価はあながち間違っていないかもしれない。もともとは私のお目付け役として、同じ学校に通うことになったのだから。
「じゃあこれからは、彼氏の教育も頑張んないとね」
渡邉さんがそう言ったタイミングで、教室の戸口に庸介が戻ってきた。
運悪く今の会話を聞き咎められたのだろう、少し呆れたような顔をされた。
「六花、何を頑張るって?」
「な、何でもない」
私は慌てて、そ知らぬふりをした。
庸介は私にとって、文句のつけようがない『彼氏』だ。
お料理は上手いし、頼りになるし、いつも私の傍にいてくれるし、見た目だって悪くない。
だからこれ以上のことを要求するのは贅沢なのだろうけど――そういえば言ってもらったことないな、『可愛い』って。
そして学校が終われば、庸介は『彼氏』ではなくなってしまう。
「お嬢様、本日の学校はいかがでしたか?」
行田さんが運転するマイクロバスに乗り込んだ後、庸介はかしこまって尋ねてきた。
内心が全く窺えない彼の硬い面持ちを、私は憂鬱な思いで見返す。
「ちょっと、気疲れしたかな……」
「そうでしたか。俺はとても楽しかったです」
「楽しかった? 冗談でしょう?」
庸介だってクラスメイトに散々からかわれただろうし、好奇の視線にも晒されていたはずなのに。
それに学校にいる時の庸介は、特別楽しそうにも見えていなかった。
「楽しかったですよ、とても」
重ねて感想を口にした後、彼はどこか満足げに目を伏せる。
私はシートにもたれかかりつつ、その横顔をしばらく眺めていた。
そこへ、
「失礼いたします、電話が」
庸介がブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。
私が黙って頷くと、手早く操作をした後で電話に出る。
「何かありましたか、父さん」
どうやら電話の相手は、執事の徒野さん――つまり庸介のお父さんのようだ。親子で話す時、庸介はほんの少しだけきまりの悪そうな顔をしてみせる。
「はい、お嬢様をお連れして戻るところです。……はい、その通りです」
きっと仕事の話なのだろう。親子の会話にしてはしかつめらしい。
私はお昼休みにした、渡邉さんとのやり取りを思い出す。庸介と徒野さんは一緒にドラッグストアへ行ったことがあるのだろうか。二人ともうちで住み込みをしているから、そういう外出の機会はあまりなさそうだけど。
「……わかりました。そのようにお伝えします」
やがて用件の伝達が済んだらしく、庸介はあっさりと電話を切った。
それから隣の座席に座る私に向き直り、
「お嬢様。お父様がお帰りになって、お嬢様をお待ちだそうです」
「お父さんが?」
私は驚いて聞き返す。
うちの父は仕事が忙しい人なので、こんな夕方の時間帯に帰ってくることなど滅多にない。週末に顔を合わせられたらいい方で、同じ家に住んでいるのに何ヶ月も会えないこともある。だから珍しいと思った。
しかも私を待っているだなんて、まさか、香水についての話だろうか。
「お父さん、何の用かな。怒ってるわけではないよね……」
思わず呟くと、庸介は静かにかぶりを振る。
「怒ってはいらっしゃらないでしょう」
「じゃあ、何だろう。お買い物のお許しが出たかな」
「そこまでは存じませんが、悪い知らせではないでしょう」
不安になる私を気遣ってくれたのだろうか。この時の庸介の言葉は、仕事中には珍しく優しかった。
家へ戻り、制服姿のままでリビングへと入る。
するとソファに腰かけていた大柄な人影が、私に気づいてさっと立ち上がった。
「六花、お帰り!」
まだスーツ姿の父が、出迎えるように両手を広げる。
温厚そのものの顔を一層ほころばせた父の笑みに、私も嬉しくて笑い返した。
「ただいま戻りました、お父さん」
「しばらく会わない間にまた大きくなったんじゃないか。随分背も伸びたろう」
そう言うと父は私を抱き締めようとしてきた。
私は両手でそれを追いやる。
「お父さん、私はもう子供ではないの。そういうのは卒業」
いつも言っているにもかかわらず、父は懲りない。そして毎度のように私から拒絶されては落胆して肩を落とす。
「昔はパパに抱っこされるのが何より大好きだったのにな……」
父は、自分のことを『パパ』と言う。
それは無論、かつて私がそう呼んでいた名残なのだけど、私は子供っぽいパパママ呼びもとっくの昔に卒業している。両親はそのことに気づいていないのだろうか。
「抱っこなんて昔の話でしょう。私、もう高校生だから」
「パパ悲しい。構ってくれないと拗ねちゃうぞ」
父は両手で顔を覆って泣き真似をした。
この人のこういうおどけるそぶりを知っているのは、我が家でも母と私くらいのものかもしれない。仕事となると真面目で勤勉らしいし、自分だけではなく他の人にも厳格なのだと聞いている。
父は、そういう仕事をしている。
だから忙しいのも、滅多に家に帰ってこられないのも仕方がない。
「今日は、ずっといられるの?」
私が尋ねると、父は溜息をつきながら面を上げる。
「いや、もう少ししたら出る。着替えを取りに来ただけだ」
「そうなんだ……身体壊さないでね」
「心配するな。パパは丈夫にできてるからな」
そう言うと父は、傍に置いてあった愛用の革鞄から何かを取り出した。
白く、小さな、シャネルの紙袋だ。
「さて、六花。プレゼントだ」
父はにこにこと紙袋を私に差し出してきた。
「プレゼント?」
「中を見てごらん」
それで私は紙袋の中を覗き、収められていた小箱を取り出す。
見た目よりも重みのあるその箱の中身は、どうやら、香水らしかった。
シャネルの"CHANCE AUE VIVE"、知らない名前の香水だった。
「香水が欲しいと言っていたよな?」
父は少し屈んで、私と目を合わせながら続ける。
「ママとも相談して、好きなものを買わせてもいいかとも思ったんだ。だがお前の初めての香水はいいものにしてやりたくてな。これはママが選んでくれたんだ」
「お母さんが……」
私は父の目を気にしつつ、ひとまずそれだけを呟いた。
他にも言いたいことはあった。だけど、言ってはいけないのもわかっていた。
「パパとしては、六花にはまだ早い気もするんだが。ママに言わせると十六歳の女の子は、もう大人みたいなものらしいからな」
父は微笑むと、厚ぼったい手のひらで私の頬を撫でた。
今朝、庸介にもそうされたことを思い出して、どきっとしたけど――言うべき言葉はちゃんと口にした。
「ありがとう、お父さん。香水、大切にするね」
「気に入ってもらえたなら、パパも嬉しい」
それから父は立ち上がり、革鞄を提げてから改めて微笑む。
「じゃあ行ってくるよ、六花」
「行ってらっしゃい、お父さん。お仕事頑張ってね」
私は父に手を振った。
父も手を振り返してくれ、それからリビングを出ていく。いつの間にやら戸口には徒野さんが立っていて、父はそちらにも軽く手を挙げた。
「では、後は頼む」
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
徒野さんが深々とお辞儀をし、父を見送る。
その後で、リビングに立ち尽くす私の方を向いた。
「お嬢様、よかったですね」
「え? ……はい」
「旦那様も随分と調べていらしたようですよ。奥様にお贈りするのとは訳が違いますからね」
白髪交じりの徒野さんは、静かで、落ち着き払っていて、生真面目そうな顔立ちが庸介ととてもよく似ている。私が生まれる前からこの家で働いていて、私はもちろん、両親も全幅の信頼を置いていた。
だからこの人の前でも本心は顔に出せない。笑っておいた。
「嬉しいです、とっても」
本心は違う。
自分でもよくわからないけど、がっかりしていた。
香水がエンジェルハートじゃないことに落胆しているのか、それとも、自分で買いに行けなかったことに落胆しているのか。その辺りは自分でも測りかねた。
ただ、そんなことを言ってはいけない。父は私の為に買ってくれたのだし、徒野さんが教えてくれた通りに調べたりもしたのだろうし、母とも相談し合ったのだろう。その気持ちは、喜ぶべきだと思う。
もう一度、紙袋を覗き込んでみる。
シャネルの香水を学校につけていって、問題ないだろうか。
「……徒野さん」
私はふと思いついて告げた。
「庸介に、あとで私の部屋へ来て欲しいと伝えてもらえませんか」
「ええ、構いませんが……」
徒野さんが訝しげな顔をしたので、もっともらしい理由を作って、言い添えた。
「今日出された宿題について、聞きたいことがあるんです」
もちろん、嘘だけど。