あなたの影になりたい(5)

 日が暮れかかる頃、二人は執務室を後にした。
 迎えが来るとルドミラが言うので、アロイスは宿舎の外まで見送ることにする。

 黄昏の光が満ちる廊下を、辺りを警戒しながら並んで歩いた。
 幸いにしてこの時分の宿舎にはほとんど人気がなく、二人には別れ際らしい会話を交わす余裕さえあった。
「やっぱりあの肖像画、受け取ってくれないかしら」
 ルドミラが少し背伸びをして、アロイスの耳元に囁く。
「せっかく描いてもらったのに眠らせておくのももったいないし、だったら最も喜んでくれる方に差し上げたいの」
 アロイスはその言葉を否定しなかったが、頷くこともできなかった。
 もちろん見てみたいと思うし、欲しいという気持ちもなくはない。他の誰かの手に渡るくらいなら自分が隠し持っておきたいというのもまた本音だった。あの狭い居室に絵を飾るだけの余裕があれば即答していたところだ。
「ご覧になった通り、私の部屋にはあなたを飾る余裕がございません」
 そう答えるとルドミラは首を竦める。
「だから文化的な暮らしを勧めたの。隊長さんらしく広いお部屋に移ってはどう?」
「考えておきましょう」
「それでは駄目よ。差し上げる当てもないものを長くしまってはおけないわ」
 アロイスの大人の返答を、ルドミラは急かすようにあしらった。
「欲しいなら欲しいと言って。でないと、他の方に譲ってしまうかも」
 脅かされればさしものアロイスも慌てふためく。この美しい令嬢の肖像画を欲しがる者は、決して少なくはないだろう。ましてや当代きっての天才と名高い画家の作品となれば、いかほどの価値がつくのかアロイスには想像もつかない。
 仕方なく素直に告げる。
「それはなりません。あなたの絵を贈られて、最も喜ぶのは私でございます」
 するとルドミラも安堵したように表情を和ませた。
「よろしくてよ。その代わり、ちゃんと飾れるお部屋に移ってちょうだいね」
「ええ、いつか必ず」
「いつか、ね。約束よ」
 その言葉を強調した後、ルドミラは少しの間黙って歩いた。

 廊下の窓から差し込む夕日が、歩く二人の足元に長く色濃い影を作る。
 ルドミラの歩き方はいつものように軽やかで淀みがなく、足音さえもが旋律のように美しい。そして彼女に寄り添う影もまた、見惚れるほど闊達な歩き方をしている。
 アロイスは彼女と、彼女の影を眺めながら歩いた。

「……確証は、ないのだけどね」
 そして、ルドミラがぽつりと呟くのを聞いた。
「あなたの姿を、誰より一番ご覧になっているのは、殿下だと思うの」
 言葉の意味がわからず、アロイスは思わず立ち止まる。
 一歩先へ進んだルドミラが振り返り、どこか羨ましそうな目を向けてくる。
「あなたはきっと、不敬だって思うでしょうけど。殿下がかくあるべきとご覧になっているのはあなたの背中よ、きっと」
「確かに、畏れ多いことです」
 アロイスは気まずい思いでかぶりを振った。
 王子殿下があるべき姿として見つめるべき背中はたった一人、国王陛下のものであるべきだ。
 確かにこれまで、アロイスはカレルに様々な知識と技術を教えてきた。役立つものもくだらないものも、近侍の娘が聞いたら赤面して狼狽しそうなものまで、数多く。それらは王子殿下としての生き様には不要なものも多かったが、普通の少年が大人になるまでに知るであろう物事は余さず伝えたつもりだった。忠心からではなく、親愛の情ゆえだ。
「殿下はご自身が幸せになって初めて、他でもないあなたが寂しく空ろな暮らしをしているって気づいたのではないかしら」
 ルドミラはうろたえるアロイスを宥めるように語を継ぐ。
「それまではきっと、ご存知なかったのよ。あなたが当たり前のように勤勉でいるから、あなたの背中をご覧になる殿下も、それが当たり前だと思っていらっしゃったのでしょう」

 思い当たる節はある。
 カレルがアロイスの休暇について口を出すようになったのは、まさにここ最近のことだった。ルドミラの言葉を借りるなら『幸せになって』以降の話だ。
 そしてアロイスは、カレルの長きにわたる懸想とそれがもたらした一騒動、そしてその顛末に思いを馳せる。
 令嬢の推測が当たりなら、全ての発端はアロイスにあったとも言えるだろう。

「では殿下の御為にも、私はもっとお休みをいただくべきということでしょうか」
「そうよ」
 アロイスの問いかけに、ルドミラは屈託なく笑ってみせる。
「殿下が休まれることを知らないままなら、マリエだって寂しがるじゃない」
「全く、仰る通りです」
「そしてあなたが休んでくれないと、わたくしが寂しくなるわ。覚えておいて」
 念を押すように見つめてくるルドミラを、アロイスもじっと見つめ返した。
 彼女の言うことは時々鋭く真理を突く。
 そしてアロイスが忘れてしまった、遠い昔に捨ててきてしまったものを確かに思い出させてくれる。
「決して忘れぬよう、常に胸に留めておきます」
「ええ。忘れては嫌よ」
 アロイスが恭しく答えると、ルドミラは満足そうに微笑んだ。
 灰色のドレスを着た、凛とした美しい姿を、もうしばらくだけ目に焼きつけておきたかった。

 ルドミラとは、宿舎の外でそのまま別れた。
 名残惜しさを振り切るように歩き続ける彼女を、アロイスは微動だにせず、片時も目を逸らさず見送った。
 長く伸びる影だけを連れて、いつものように淀みない足取りで、一度も振り返ることなく去っていく。その潔さすら、アロイスには眩しく思えた。自分はまだ離れがたく、温もりを手放した身体に夕風は冷たく、彼女に寄り添う影さえ羨ましく思えるほどなのに。
 だが、呼び止めることはしなかった。
 次の機会がある。そう思えば、いくらかは辛くない。

 かくして、アロイスの平穏な休日は終わった。
 翌日からは普段通りの日常が戻ってきた。一日の大半を身辺警護とその指示に費やし、訓練に公務日程の管理に警護任務の作戦立案――そしてそれ以外にもすべきこと、考えるべきことが枚挙に暇がないほどある日常だ。
 ルドミラの言葉を胸に留めおきながらも、しばらくはそのことを考える暇もないだろうと思っていた。いつか少し落ち着いたら、その時に改めて主に切り出してみようと、アロイスは実に悠長に構えていた。

 だが、休暇から三日と経たぬうちに事件は起きた。
 ある日の朝、ルドミラから城に荷物が送りつけられてきた。表向きはカレル殿下への贈り物ということだったが、検分した部下からその荷が『白い布に包まれた、平べったいが窓ほどの大きさもある絵画と思しき板』と聞いた時から、アロイスはうすうす感づいていた。

 そして間もなく、カレルは自室にアロイスを呼び出した。
「これが何か、わかるな」
 カレルの部屋には件の、白い布に包まれた板が運び込まれていた。その大きさたるや、マリエとミランが二人がかりで支えているという状況だった。
 ひざまずくアロイスを見て、カレルは短く息をつく。
「添えられていた手紙によれば、ルドミラ嬢はこれをお前に贈ると約束していたらしい。その旨、間違いではないな?」
「……いえ、確かに約束はしておりましたが、今すぐにとは」
 アロイスは深呼吸をしてからかぶりを振る。
「私の部屋は狭く絵を飾る場所がございませんから、『いつか広い部屋に移ったらお願いする』と話しておりました。こんなに早くに送られてくるとは全く予想だにしておりませんでした」
 話が違う。聡明なルドミラらしからぬ振る舞いにアロイスは混乱していた。
 だがカレルは、アロイスを豪快に笑い飛ばした。
「それはお前が悪いな」
「な、なぜでございますか。私はかの令嬢にきちんと――」
「私くらいの歳の者にとって、『いつか』とは近い未来のことだ」
 カレルの青い目は真っ直ぐにアロイスを捉えている。
「いつかと約束をしたら、次の日にはもう叶えることを考えている。それがわからぬとは老いたな、アロイス」
 主の言葉にアロイスはぐっと詰まり、しかし確かにそうだ、と思う。

 今までもずっと、カレルはそういう主だった。まだ十九だ。もうしばらくはこのままなのだろう。
 そしてルドミラも、まだ十八だ。
 十八の娘と交わした約束を、大人の物言いで先延ばしにはできない。アロイスはその事実を十分に思い知る。そして、もう一つの『いつか』の約束のことも考える。
 まだ老いてはいられない。

「私は決して老いてはおりませんが、それ以外は殿下の仰る通りにございます」
 悔しい思いで答えると、カレルはにんまり笑んだ。
「わかればよい。では、この絵をどうするか考えよ」
 どうするか、取るべき方法は一つしかない。
 アロイスは速やかに今の居室から広い部屋へと移り、この絵を持っていかなくてはなるまい。しかしそれも今日一日でというわけにはいかず、それまではこの絵をここに置いてもらわなければならないようだ。
「近日中に私が部屋を移り、引き取れるようにいたします。それまでは……」
「わかった、預かっておこう」
「ありがとうございます、殿下」
 快諾を受けて、アロイスは深々と頭を下げる。
 それからふと思い出し、続けて告げた。
「もう一つお願いがございます」
「申してみよ」
「ルドミラ嬢へのお礼状を、私に書かせていただきたいのです」
「無論、そうすべきであろう」
 カレルは鷹揚に顎を引く。
「私が代筆するという手もあるが、文を書くのは疲れるからな。お前が書くと言うのであれば実に助かる、思いの丈を存分に書き綴るがよい」
「先日はルドミラ嬢に、随分と熱烈な文章をしたためられたと聞きました」
 アロイスは少しの恨みを込めながら言った。
 何せかの令嬢が口ごもるほどの内容だ。主がどのような手紙を送ったか知りたい気もするし、知らないままの方がいいような気もしている。
「殿下、私の心情を勝手に代弁なさいませんよう」
「なかなかの名文だったと思うのだがな。マリエにも手伝ってもらった」
 カレルの言葉に、アロイスは思わず視線を転じる。
 絵画を支えるマリエは、アロイスと目が合うと恥ずかしそうに俯いた。
「わたくしは、実に素敵なお手紙に仕上がったと存じました……」

 手伝いを頼む相手を間違っていた、としか言いようがない。
 今後はルドミラへの連絡も全てアロイス自身がすべきだろう。勝手に心情を代弁されては敵わない。ましてやその傍らには、詩集をひもといて懸想文を書き綴るような婦人がいるのだから尚更だ。
 それに、休暇を取れたらまた会いたい。
 その為にも、文のやり取りを普段からしておくのも悪くはないだろう。

「ところで、殿下。その絵を拝見してもよろしいですか」
 手紙の件が一応の決着を見たところで、アロイスは主に伺いを立てた。
 カレルが冷やかすように目を細める。
「よろしいも何も、その絵はお前のものであろう。好きにせよ」
 それでアロイスは立ち上がり、マリエとミランの姉弟が支えている絵画の前へ近づいた。

 覆う白い布に手をかけ、上からゆっくりと引き剥がす。
 しゅるりと布が床へ落ち、松精油の独特な匂いと共に肖像画が姿を現した。
 帆布の上に絵の具を塗り重ねる画法で描かれたその肖像画には、こちらを見て微笑むルドミラが佇んでいた。整った面立ちはもちろんのこと、結い上げた栗色の髪のつややかさも、首筋の透き通るような白さも、そして知的で優しい眼差しと微笑みに至るまで忠実に描かれている。
 まるで鏡を見ているようだとルドミラは語っていたが、まさにその通りだ。傍に近づいて油絵のざらりとした質感に気づくまでは、まるで彼女本人が目の前にいるのではないかと思えるような、美しい仕上がりだった。
 きっとこの絵を手掛けた画家は、比類なく美しい令嬢を描けることに無上の喜びを覚えたことだろう。
 アロイスは顔も知らない件の画家に言い知れぬ嫉妬を抱いた。
 と同時に、この素晴らしい絵を我が物にできる幸福を噛み締めていた。

「よくできた絵だ。まるでルドミラ嬢がここに訪ねてきているようだ」
 カレルも遠くから肖像画を眺めて、感嘆の声を漏らす。
 マリエは唇を薄く開けて、圧倒された様子で絵を見上げている。
 唯一、ミランだけが物問いたげな目でアロイスと肖像画を交互に眺めていたが――この聡い少年はいよいよ気づいたのかもしれない。あの日、アロイスが誰を庇ったか。アロイスの元を訪ねてきたこの令嬢が、アロイスにとってどういう存在かを。
 ここまで来たら下手な小細工は無意味、我関せずを貫こうとアロイスは思う。
 これから、しばらくは自分のことで手一杯となるだろうから。

 その夜、務めを終えたアロイスは執務室に籠もり机に向かった。
 ルドミラへの手紙を書く為だ。
 私用の手紙をしたためるのは実に久方ぶりのことで、特に婦人への手紙は十代の若者だった頃以来だ。それこそ『いつか』を身近な未来としてしか捉えられなかった頃。
 今は、どうだろう。老いたつもりは全くないが、知らず知らずのうちに先延ばしにする癖がついてしまったのかもしれない。ルドミラは『いつか』を不確かな、遠い未来のことだとは思っていないようなのに。
 だから、約束は必ず守ろう。
 広い部屋に移り、その壁には彼女から貰った肖像画を飾る。許される限りは時々、休みを取る。そしてその度に彼女と会い、もっとたくさんの話をしよう。
 そんな思いが、胸を駆け巡っているというのに。

 先程からペンは全く進まず、手紙となると上手く書けないことに焦燥すら覚える。
 主のように熱烈な文句など綴れる気がしなかった。
 だが今後の為に、慣れておかなければなるまい。懸想文の一つくらい書けないでどうすると、アロイスは自身を叱咤しながらペンを握る。
 机上にはあの鍵を置いている。栗色の房飾りをつけた真鍮の鍵は、燭台の光に照らされてきらりと光っている。二人で座った椅子に、今は一人で腰かけつつ、あの日の記憶を励みに手紙を綴る。
 とりあえず、結びの一文だけは決めているのだ。

 ――あの日、あなたと離れがたくて、あなたの足元から伸びる影になりたいと思ったのです。
 主が書いた手紙より、熱烈なものになっているといいのだが。

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