あなたの影になりたい(1)

 近衛兵に与えられる任務はおおまかに分けて三つある。
 要人の警護、要人の居室の警護、そして日々の訓練だ。そのうち警護任務は一日四交替制と定められているが、近衛隊長ともなればその限りではなく、一日の大半を身辺警護とその指示に費やすのも珍しくはない。その他に兵達の訓練の指導、王族の公務日程の管理及びその際の警護任務の作戦立案、装備品の検分に兵達の士気を高める訓示など、隊長として果たすべき務めは枚挙に暇がない。
 アロイスも隊長の徽章を授かってからというもの、暇を貰ったのは数えるほどだった。給金はほとんど使う機会もないまま親族へと送られ、その親族とも二十年近く会ってはいない。いつだったかルドミラに指摘されたように、ろくな趣味もなく打ち込めるものもないのでは、寂しい生涯だと評する者がいるのも頷ける。
 それでも近衛隊長として得られる名誉と、それ以上の幸いには代えがたい。

 幸いとは例えば、若い兵達を訓練で散々扱いた後、中庭の立ち木の枝に結びつけられたリボンを見つけた時だ。
 リボンの色は赤か青、稀に黒であり、それぞれにきちんと意味がある。結びつけたのは他でもない王子殿下であり、それが自分宛てに下された命令の符号であることをアロイスは知っている。
 ちなみに今日のリボンは青色だ。
 これが示す指示は『調達と来訪を命ず』である。
 アロイスはリボンを枝から解いて懐にしまうと、王子殿下の命令を遂行するべく足を向ける。
 行く先は無論、城内にある酒の貯蔵庫だ。

 もしもリボンの色が赤であれば『身一つでの来訪を命ず』であって酒を持参する必要はなく、黒の場合は『酒は調達できたが来訪には細心の注意を払え』であって、主の居室を退出するマリエと鉢合わせぬよう用心する必要がある。
 何せあの近侍の娘は融通の利かないところがあるから、カレルとアロイスが真夜中に酒を酌み交わしていると知ればいい顔はしないだろうし、その習慣がアロイスの主導であることくらいは察するに違いない。実際、王子殿下に酒の飲み方を教えたのは他でもないアロイスなので、責められても仕方のないことではあるのだが。
 だがアロイス自身は、主からの酒の誘いを密かな楽しみにしていた。

 夜が更け、マリエが一日の仕事を終えて主の居室を退出した後――。
 アロイスは帯剣して鎧は着けず、手には酒瓶をぶら下げて、入れ替わるように主のもとを訪ねた。酒瓶の中身はリンゴの蒸留酒で、二人で飲むなら一本で事足りる。
 そもそもアロイスに酒を飲む習慣はない。近衛隊長としての任務は時として火急のものであり、就寝中に叩き起こされる可能性がないとも言えない。決して酒に弱いわけではないが、いざという時に酩酊しているようでは役に立たない。だから酒を飲むのはカレルに付き合う時だけだ。
 それもほんの少しだけ、酒そのものよりは酔った主の話を味わう為のひとときと言えた。

 そのカレルは、リンゴの蒸留酒を三口も飲まないうちから顔を赤くしている。
「はあ……」
 今宵の溜息は実に幸福そうであり、知らず知らず緩む口元を杯で隠そうと必死だ。
 無論、たったの三口で酔っ払っているわけではない。カレルに酒の飲み方を教えたのはアロイスだが、その指導の賜物か元々の体質なのか、カレルの方が酒には強いようだった。明日の任務に備えてちびちびと飲むアロイスをよそに、酒瓶の残りを一人で空けて、翌日もけろりとしていたことすらある。お蔭で目下マリエには密かな酒盛りを気取られてはいないようだった。
 もっとも、ある意味では酔いしれているのかもしれない。
 主と同じ卓を囲み、杯を傾けながら、アロイスは主の様子をそっと眺める。
 カレルは杯を手にしたまま、椅子の上で自らの膝を抱くと、吐息と共に呟いた。
「可愛かった……」
 誰に対する呟きかは言うまでもない。
 酒を飲むと口の滑りがよくなるのは誰にでもあることだが、カレルの場合は常に一人の婦人の話題に終始する。要は惚気話を聞かされる場ということだった。
 正直、そろそろお呼びがかかる頃だと思っていたのだ。主と、主が想う婦人を長年傍らから見守ってきたアロイスは、主が惚気を語りたがる時機も概ね把握している。こんな話を聞かせてもらえるのも自分だけと思えば悪いものでもない。
「可愛いというなら常にそうだが、あの夜の可愛さは群を抜いていた」
 カレルの溜息まじりの呟きは続く。
「長らく傍におるというのに、まだ惚れ直すことがあるとは……あの表情、あの声、あの仕種。全てが目に焼きついて離れぬ」
 遂には杯を卓上に置き、抱えた膝に顔を埋め、気の抜けたような笑い声を漏らす。その姿はものの見事な酔っ払いに見えたが、酔いの理由が酒ではないのだから困ったものだ。
 アロイスは微笑ましさ半分、羨ましさ半分で杯を掲げた。
「おめでとうございます、殿下」
 するとカレルは面を上げ、ほんのり赤い顔に照れ笑いを滲ませる。
「祝福されるのも妙な気分ではあるな」
「私からすれば感慨深ささえ覚える次第でございます。こんなに小さな頃より殿下を存じ上げておりますゆえ」
 アロイスは卓の天板の高さで片手を滑らせ、主の幼少のみぎりに思いを馳せた。

 初めて顔を合わせたのはカレルがたった六歳の頃だ。
 あの頃はまだマリエも城に上がっておらず、カレルの腕白ぶりを城内の誰もが持て余している有様だった。若かりし頃のアロイスはそんなやんちゃ盛りのカレルに様々な知識や技術を授け、朗らかで裏表のない主がその性質を失うことのないよう何かと気にかけてきた。
 木登りも、水泳も、木剣の扱い方も全てアロイスが教えたものだ。そして成長するに従い、アロイスが授けた知識と技術はますます多岐に及んだ。酒の飲み方もその一つなら、酒盛りを知らせるあの符号もそうだ。城の家庭教師も近侍の娘も教えてくれないどころか、中身を聞けば赤面の後に卒倒しそうな知識までもをカレルに語り聞かせてきた。
 かの令嬢はかつてアロイスを指し『婦人の扱い方を知らない』と断じたが、ある意味ではよく知っていると言えたし、それを主に聞かせたこともある。その知識が役立ったのかどうかまでは、さしものアロイスもあずかり知らぬところだが。

「殿下が幸せそうにしていらっしゃるのが、私にとってのこの上ない幸福でございます」
 そう続けると、カレルはすかさず聞き返してきた。
「私の顔は緩んでいるか、アロイス」
「今は、それはもう大変に」
「どうしても引き締められぬのだ、あの夜のことを思い出すと」
 カレルはどうにかして笑みを堪えようと試みたようだ。だがどれほど努力をしても思う通りにはいかず、置いた杯を再び手に取り、それを傾けることで口元を隠した。
 アロイスはその姿を肴に酒を味わう。原料のリンゴによほど蜜が詰まっていたのか、今宵の蒸留酒は舌に随分と甘く感じた。
「私としては首尾の方を伺いたいところです」
 試しに切り出してみたところ、主はたちまち呆れた顔つきになる。
「何を聞く。大体お前は一晩中聞き耳を立てていたのであろう」
「さすがに何もかも筒抜けというほどではございませんでした」
「ならば尚更答えるわけにはゆかぬ。あれは私とマリエだけの秘密だ」
 カレルはにべもなかったが、アロイスの問いに狼狽もせず、堂々と答えた時点で語るに落ちている。この詰めの甘さはまだ十九歳と言ったところだろう。
 だがアロイスはむしろ安堵して、それから再び感慨に耽る。

 二人で酒を酌み交わせるのも、あと何度くらいだろう。
 時々、そんなことを考える。
 初めて共に酒を飲んだ時、アロイスはやはり今と同じような感慨を覚えたものだった。あの小さかった王子が酒を嗜むようになり、今ではその美味さがちゃんとわかるようになっている。ずっと見守ってきたアロイスにとって、主の成長はどんなものであっても格別の喜びだった。
 できればこのままずっと傍で、主の人生を見守りたい。カレルが王位を継ぎ、妃を迎え、世継ぎをもうけて、この小さな国を治めていく姿を、ずっと――かつて抱いていた願望が全ては叶えられないと知った今でも、離れがたいという思いだけはどうしても捨てきれない。
 思えばカレルに授けてきた知識や技術が本当に『ためになる』ものであったかは怪しいものだった。むしろ王子殿下が王子として生きていく上では不要のものばかりであったはずだ。それでも教え、与え、授けてきたのは、それを知りたいとねだったカレルの為だけではない。
 何よりもアロイス自身がそうしたかったからだ。

 元より忠心に篤い質ではなかった。初めは好奇心と純然たる親愛の情の方が強かった。もしかしたら今もそうなのかもしれない。
 だから後悔などしない。
 それだけは、はっきりと思う。

「何を浮かぬ顔をしている」
 物思いに耽るアロイスをカレルが見咎め、眉を顰める。
「当ててやろうか、ルドミラ嬢のことを考えていたのであろう」
「そのようなことが私の顔に書いておりましたか」
「ああ、しっかりと書いてある。かのご令嬢が恋しくてたまらぬと見える」
 酔眼というほどではないカレルの双眸も、アロイスの本心を見抜くまでの力はまだないようだ。しかし笑い飛ばそうとするアロイスに、すかさず畳みかけてくる。
「なぜ晩餐会の夜、声をかけなかった」
 ほんの一月前、カレルの十九歳の誕生日を祝う晩餐会がこの城で催された。
 アロイスは例によって王子殿下の身辺警護を仰せつかっていたが、大広間に現れたルドミラの姿は確かに見かけていた。水色の舞踏服に身を包んだ令嬢は瑞々しい美しさを放っており、カレルに手を取られいきいきと踊る姿は今も瞼に焼きついている。
 問われた通り、声はかけなかった。
 それどころか視線を交わすこともなかった。
「ご冗談を。私には殿下をお守りする務めがございました」
「ならば私に近づくふりでもすればよかったではないか」
 カレルはいともたやすく言ってのけるが、あの場にはルドミラの父親も、そして他の身分貴き人々の姿も多くあった。王子殿下の妃候補として有力視されている令嬢が下賤な者と親しく言葉を交わせばどうなるか、考えるまでもないことだ。
「ルドミラ嬢はお前に声をかけられたがっていたのだぞ」
 蒸留酒を勢いよく呷った後、カレルはふと閃いた顔で語を継いだ。
「ああ、わかったぞ。お前、私がかの令嬢と踊ったから拗ねておるのか」
「急に何を仰いますか」
 アロイスはぎょっとした。そんな考えは全く頭の中になかった。
 だがカレルはますます勢いづき、
「それでルドミラ嬢とは口も利かなかったのであろう。違うか」
「畏れながら、見当外れも甚だしいお言葉です」
「悪いことをしたな、アロイス。私とて本意ではなかったのだが」
「存じておりますとも、殿下が本当はどなたと踊りたかったのかくらいは」
 アロイスはやり返した後、改めて余裕たっぷりに笑い飛ばした。
「それに、かのご令嬢も企みがあって殿下と踊られたのでしょう。その程度のことで悋気する私ではございません」
 ところがそこでカレルは青い目を見開き、やがてにたりと笑んだ。
「お前、なぜその話を知っている?」
「なぜと申しましても――」
「私とルドミラ嬢がその話をした時、お前は少し離れたところに立っていたはずだ。なぜ、ルドミラ嬢が私と踊った本当の理由を知っておるのだ」
 失言だった、と悔やんでも今や遅し。
 アロイスは内心舌打ちをしたが、表向きは至って平然と振る舞おうとした。
「たまたま聞こえてきたのでございます」
 だがそんな下手な言い訳が通じる相手ではない。
「聞き耳を立てておったな」
 カレルの双眸が光り、侮っていたことをアロイスは今更悔やむ。
「本当は、かの令嬢のことが気になって気になって仕方がなかったのであろう」
「先程申し上げた通り、聞こえてしまっただけでございます」
「素直に申すがよい。この場には私とお前の他には誰もおらぬ」
「殿下にお話しすればそれこそ筒抜けとなりましょう。お断りいたします」
 これ以上の失言を重ねて、それがルドミラの耳に入れば厄介なことになる。
 ルドミラ自身はもしかすれば喜ぶのかもしれないが、伝聞ではどこまで正しく届くかも怪しいものだ。

 二人で話ができる機会は、今や宝石よりも貴重だ。
 だからアロイスは、次に会った時に何を話そうか、いつも考えている。だがルドミラの方も同じように考えているようで、お互いに距離を埋めようと為の思案する結果、いつもの回りくどい応酬に繋がってしまうようだった。
 いっそ主のように素直に何もかも打ち明けられたら、どんなに楽だろうか。

「私の本心を正直に申し上げましょうか」
 アロイスは少し笑んで、身を乗り出すカレルをちらりと見やる。
 そして続けた。
「私は先程、殿下とあと何度こうして酒をご一緒できるのか、と考えておりました」
 途端にカレルがすうっと真顔になる。
 酔いを感じさせない声で聞き返してきた。
「お前に城を去るようにと、私が命じたからか。しかしそれはまだ――」
「いえ、そのことではございません」
 かぶりを振ったアロイスは、そこで意味ありげに声を落とす。
「殿下がマリエ殿を寝所に招くようになり、夜がお暇ではなくなるのではないかと」
 カレルは即答しなかった。しばらく見定めるようにアロイスを眺めつつ、いくつかの考えがその胸裏を過ぎるのが表情からわかった。
 そして最後には、会心の笑みを浮かべた。
「お前は嘘が下手だな、アロイス」
「嘘ではございません」
「全てが真実ではないだけ、か? まあよい」
 主には、アロイスの胸底深くまで暴き立てる意思はないようだ。
 それは単なる温情ではなく、同じような想いに身を焦がす者同士の憐憫でもあったのかもしれない。

 酒瓶が空になると、カレルは居室の窓を開け放った。
 涼しい夜風が吹き込んできて、室内にわだかまる酒気を洗い流していく。それは同時に二人のほのかな酔いを覚まし、ささやかな酒盛りの痕跡も風に消えていくようだった。
「近いうちにまた、暇をやろうか」
 窓辺に佇むカレルがアロイスに告げた。
 差し込む夜の光は荘厳にその貴き姿を照らしている。冴え冴えとした星明かりは風に揺れる白金色の髪を輝かせ、顔立ちは技巧を凝らした彫像のように凛々しい。立ち姿は何一つ惑うことなく堂々としていて、思わずひざまずきたくなるほどだった。
 あの小さかった王子が、今や立派な若者になっている。
 これを幸せと呼ばずして、何と呼ぼうか。
「ありがたきお言葉、しかしお気持ちだけいただいておきます」
 アロイスは満ち足りた気分で、恭しく頭を下げながら応じた。
 そう応じれば主が次に何をするか、よくわかった上での返答だった。

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