種蒔く日々の移ろい(11)

 城に戻ったマリエは、待ち構えていたカレルに母からの贈り物を見せた。

「これは?」
 カレルは革袋を覗いて怪訝そうにしている。
 そこでマリエは手のひらに、ごく細かな種を少しだけ取り出してみせる。
「ベニバナソウの種でございます。母がわたくしに持たせてくれました」
「聞き覚えのない花だ」
「野山に咲いている花ですから、殿下もご覧になったことがあるかもしれません」
 マリエは話しながら、生家の庭先を埋め尽くしていた可憐な花を思い浮かべた。
「槍のように尖った穂の周りに、薄紅色の小さな花がいくつか咲くのでございます。華やかさこそございませんが、素朴で可愛らしい花となります」
 それでカレルもいくらか興味を持ったようだ。指先で慎重に種をつまみ、じっくりと眺めている。
「母が好んで育てておりまして、家の庭先にたくさん咲いております」
「お前の、家か……」
 カレルがマリエの顔に視線を移し、青い瞳を眇めた。
 恐らくはまだ見ぬマリエの生家を想像してみようと試みたのだろう。だが生まれてこのかた城暮らしのカレルには難しかったのか、やがて気持ちを切り替えるように息をついた。
「どんな花が咲くのか見てみたい。少し分けてはもらえぬか」
「構いませんが、どこにでも植えてはなりません」
「なぜだ」
「ベニバナソウはとても殖えやすい花でございますから」
 仮に城の庭にでも植えようものなら、城つきの庭師が悲鳴を上げることになるだろう。
「土の上に落としただけでもよく咲いて、ベニバナソウだらけになることでしょう」
「そんなに殖えるものなのか」
「はい。いくら摘んでも絶えることなく、殿下の周りは常に花でいっぱいに溢れてしまいます」
「ならばきっと、お前によく似た花が咲くのだろうな」
 カレルが一人で得心したので、マリエはその言葉の意味を考えた後、少し照れた。
「殿下にも育てていただけるのであれば、嬉しく存じます」
「では、鉢で育てよう」
 種をマリエの手のひらに戻し、カレルはおかしそうに笑った。
「私は、お前に関わるものがいくら増えても構わぬがな。いつでもお前を想える」
 そして、マリエの表情を検分するように見つめてくる。半日の不在の間、マリエに何が起きたかを読み取ろうとしたのだろう。
 やがて、涙を拭うように指で目元を撫でてきた。
「お前の母も、私と同じ思いでお前に種を持たせたのであろう」
「……はい」
 胸の痛みを堪えつつ、マリエは首肯する。

 ベニバナソウの花を見た時、自分が真っ先に思うのは懐かしいあの家の庭先と、そこに佇む母の姿だろう。これからどこへ行くとしても、生家と母の思い出だけは持っていくことができる。
 それからふと、去りゆく馬車に手を振り続けた母の姿を思い出し、別の考えにも至る。
 母も同じかもしれない。これからはベニバナソウの花を見る度、その香りを嗅ぐ度に、種を持たせた娘を想うのではないだろうか。

「殿下がその花を育ててくださっていると知れば、母はわたくしの幸いを知るでしょう」
 マリエは願うようにそう告げた。
「わたくしは母に……わたくしを想ってくれる人達に、幸せであることを知って欲しいと思っております」
 この小さな国においても、マリエのことを知る者はほんの一握りだ。歴史に名を残すわけでもなく、近侍としての役目を弟と変わったところで、多くの人は気にも留めないだろう。
 それでも、自分を想う人は確かにいる。
 母と会い、それがわかった。
「正直に申し上げればわたくしは、殿下の望まれたことが叶うなら、わたくし自身はどうなってもよいと考えておりました」
 マリエが見上げた先、カレルの表情は動かない。
 恐らくはその本心も知っていたのだろう。
「もちろんそれは、わたくしの願いが殿下と同じものであったからこそですが……それさえ叶ってしまえば、後は何も手に入らなくてもよいと」
 全てを引き替えにする必要がある。それもまた事実だ。
 だからマリエはいざとなれば、全てを捨てていくつもりでいた。
「ですが今は、もう一つ望みができてしまいました」
 無私の心で生きたくとも、それだけは捨てられなかった。
「殿下、わたくしは殿下と共に、幸せになりとうございます」
 マリエの言葉を聞き、カレルは黙ってその頬に手を添える。
 熱い体温が乾いた頬に伝わり、マリエは幸福感に睫毛を伏せた。
「そしてわたくしが幸せであることを、わたくしを想う人にだけはせめて伝わるように。そのように生きとうございます」
 カレルはマリエの唇に一度口づけて、それから答えた。
「誓い直した通りだ。私はお前を幸せにする――お前を知る者、誰の目にもわかるように」
 マリエが再び目を開いた時、眼前には凛々しい微笑があった。
「それこそが生涯を共にするということだ。違うか、マリエ」
「……仰る通りです、殿下」
 満ち足りた気分で、マリエは表情をほころばせた。
 それを見つめ返すカレルも、やはりこの上なく満足げな面持ちでいる。
「私とお前にとっても、今は種を蒔く日々だ」
 カレルがそう言い、マリエは未来に思いを馳せた。
 果たしてそこにはどんな花が咲くのだろう。
「いつか美しい花を咲かせる為に、できる限りの心を尽くそう」
「はい、殿下」
 そしてその花を、ふたりはどんな思いで眺めることになるのだろう。
 胸には不変の覚悟と以前よりも確かな希望がある。マリエは今も、幸せな未来を信じている。

 気がつけばカレルの居室には、ベニバナソウの香りがふわふわと漂い始めていた。
「これは、種の香りか」
 カレルが鼻をひくつかせて、マリエに尋ねる。
「ベニバナソウとは、まるで香草のような香りがするのだな」
「はい、まさに香草としても重用されております」
 マリエにとっては懐かしい香りだ。あの家と、母からの手紙には、常にこの香りが染みついていた。
「母はよく、この香草茶を飲んでおりました」
「美味いのか」
「少しばかり苦味がございますが、効用は確かでございます」
「効用とは?」
 深く尋ねられ、マリエはわずかに言いよどんだ。
「あの……乳の出が、よくなるとのことで」
 カレルが黙ってマリエを見やる。
 マリエは慌てふためきながら言い添えた。
「もっとも、母もそういうつもりでわたくしに持たせたのかどうか……他にも心を落ち着けたり、疲れを和らげたりといった効用もございますし」

 こればかりは母に尋ねてみなければわからないことだが、娘に持たせたということは、やはりそういうことなのかもしれない。
 いつかは母と同じようにベニバナソウを役立てる日もやってくるのかもしれない。今はまだ想像することしかできないが――想像の中でさえも面映い光景ではあったが、以前よりもはっきりと、輪郭を伴い思い浮かべられるようになっていた。

 二人の会話が、意味ありげに途切れた時だった。
 扉を叩く控えめな音が響いたかと思うと、
「殿下、ミランが参りました」
 廊下からはマリエの弟の瑞々しい声が聞こえてきた。
 とっさにマリエはカレルから数歩離れ、カレルは椅子に腰を下ろして居住まいを正す。
「入れ」
 カレルが命じると扉が開き、着替えを済ませた黒髪の少年が現れた。
 城に上がるに当たり、ミランも仕事着を与えられていた。黒い上着は上等な天鵞絨で仕立てられたものだが、主よりも低い身分を示す為に刺繍や装飾は一切ない。ズボンは羊毛の丈夫そうな平織、足元はなめした鹿革の靴を履いている。シャツのボタンを一番上までしっかりと留め、絹糸のような髪をきれいに梳き、表情を引き締めたミランの佇まいは早くも一人前の近侍のようだった。
「支度が整いました。お待たせして申し訳ございません、殿下」
 ミランが膝をつくと、カレルはかぶりを振る。
「そうでもない。それにしてもそのいでたち、なかなか似合うな」
 主の言葉にマリエも内心で同意した。弟の顔に残るあどけなさが、少しばかり鳴りを潜めたように思えた。
「お褒めにあずかり光栄です」
 ミランが行儀よく答えたからだろう。カレルはちらりと傍らのマリエに目をやる。
「どう思う、マリエ」
 自分が答えれば弟がどんな反応をするか、マリエは既によく知っていた。だがせっかくの晴れ姿を誉めてやらないのもかわいそうだろうと、結局は素直に言及した。
「よく似合いますよ、ミラン。もう一人前の近侍になったようです」
 途端にきりりと引き締めていたミランの顔が溶けて、歳相応の照れ笑いが浮かんだ。
「あ……あの、嬉しゅうございますが、殿下の御前ですので……」
「私の前で姉に誉められては困ると申すか」
「は、はい……」
 カレルに笑われても、ミランはもじもじするばかりだ。
 このままでは務めにも差し障るだろうと、マリエはそっと口を挟んだ。
「殿下、早速ではございますが午後のお茶を用意して参ります」
「うむ。任せたぞ、二人とも」
 主に送り出され、マリエとミランは厨房へと向かう。
 ミランの城勤め初日が、今まさに始まろうとしていた。

 マリエは厨房にて、ミランが茶器や茶菓子を用意するのを見守った。
 家にいるうちに母からよく仕込まれていたのだろう。ミランはとても手際がよく、マリエが声をかける必要もほとんどなかった。ただ初めて使う城の厨房には慣れぬところもあったようで、それにはマリエが丁寧に指導をした。ミランはやはり聡明で、マリエの教えを麻布が水を吸うように覚えてみせた。
「母上はあなたにきちんと仕事を教えてくださっていたのですね」
 マリエの感嘆にミランは頷く。
「はい、かあさまは私のよき先生となってくださいました」
 その時、マリエの胸裏にも母から仕事を教わった幼い日の記憶が過ぎっていた。厳しい人だった。だが、同時に深く慈しまれてもいた。母の尽力がなければ、マリエは城に上がることもできなかったことだろう。この名誉ある務めを続けてくることもできなかったはずだ。
 次の機会があるなら、母には感謝を伝えよう。
 自分に残された時間がいかほどかはわからない。だが機会が与えられたなら、次は迷わず帰っておくことにしよう。マリエはそう思っていた。
「ねえさまの為にも、私は一日も早く立派な近侍になりとうございます」
 ミランは母にも姉にもよく似た、生真面目な口調で続ける。
「ねえさまには、幸せになっていただきたいですから」
 弟のその言葉は、姉に恋い慕う相手がいることを知ったせいでもあるのだろう。相手もわからぬ縁談ではなく、望まれ求められて誰かの元に行くのなら、一日でも早い方がいい――幼いなりに、ミランはそう考えたのかもしれない。
 だがマリエにはまだすべきことがある。それが全て終わるまでは、種を蒔き終えるまでは、城を離れるわけにはいかない。
「ありがとう、ミラン。ですが今日からしばらくは、わたくしがあなたの先生です」
 マリエはミランに、感謝と心からの思いを告げる。
「わたくしはまだあなたの傍にいます。焦らず、じっくり仕事を覚えればよいでしょう」
「ねえさま……!」
 温かな火が灯ったように、ミランの顔が輝く。
「よかったです。あの、実を申しますと、少しだけ……」
「少しだけ、何です?」
「ねえさまが恋い慕われる方を、憎らしいなと思っておりました」
 恥ずかしそうに打ち明けてきたミランは、その後で弟らしい責任感と共に続けた。
「ねえさまなら人を見る目も確かかと存じます。でももし、その方がねえさまを傷つけるようなことがあったなら、私が必ず文句を言ってやりますから」
 とっさにマリエは即答できず、言葉を詰まらせる。
「そんな必要は……い、いえ、気持ちだけ受け取っておきましょう」
 ミランが真実を知る日が訪れたら、果たして王子殿下に対してはどんな思いを抱くだろう。
 何となく、そこはかとなくだが、取り扱いの難しい案件になりそうな予感がした。

 弟の決意と姉の動揺はさておき、ミランが用意した午後の茶席は主を満足させるものだった。
「さすがはマリエの弟、その歳にしてよい腕だ」
 カレルは手放しでミランを誉め、
「光栄に存じます、殿下」
 ミランもそつのない受け答えをしてみせる。
 仕事ぶりに関して、目下マリエが気を揉む必要は一切ないようだ。
 無論、近侍の仕事はこれだけではない。教えることは多く、まだすべきことが山ほどあることには変わりない。
「覚えることも多く、大変な務めではあるが、幸いお前にはマリエがいる」
 労わる口調でカレルが続ける。
「マリエは私の、自慢の近侍だ。お前は持ち得る限り最良の師を得たと思ってよいぞ」
 相変わらず、主の自分に対する誉め具合は全く眩暈がするほどだ。マリエが気恥ずかしさに内心うろたえていると、ミランも屈託なく応じた。
「はい。僭越ながら私にとっても自慢の姉でございます」
 主に対して全く謙遜せず、無邪気にもそう言い切った。
 マリエはぎょっとした。これまでミランの主に対する振る舞いは満点と言ってもいいほどだったのに、なぜ今は謙遜してみせなかったのだろう。
 そんな姉の動揺をよそに、ミランは尚も言い募る。
「姉がお城にいる間は、その傍らを独り占めして学びを得ようと思っております」
「よい心がけだ」
 カレルはそんなミランに優しげな微笑を向けた。
「ありがとうございます、殿下」
 ミランもどこかほっとしたように笑い返してみせる。
 弟には後で注意をした方がいいだろうか。マリエは一人でやきもきしていたが、主が気分を害した様子はなく、室内の空気は至って穏やかに見える。
「ミラン、茶をもう一杯頼む」
「かしこまりました」
 カレルはミランに命じた後、いきなり席を立った。
 そしてマリエに告げる。
「マリエ、少しよいか。話がある」
「な……何でございましょう」
 やはり先程の発言はまずかったのかもしれない。カレルが切り出した『話』にマリエは戦々恐々とした。
「向こうで話す。すぐに済む、ミランが茶を入れている間にな」
 しかしカレルが急き立てるので、その後に続いて隣の寝室に入る。

 カレルはマリエが追ってきたのを確かめてから、寝室の扉をしっかりと閉ざした。
 それから何も言わずに、マリエの身体を抱き締めた。
「あっ、きゅ、急に……」
 声を上げかけたマリエを唇を押しつけて制すると、しばらくしてから口を離し、代わりに耳元へ囁いてくる。
「マリエ。お前の弟は実に賢いな」
 唐突に抱き締められ口づけられたかと思えば、今度は弟を誉められた。怒涛の展開にマリエは混乱をきたしたが、構うことなくカレルは続ける。
「どうやらミランは、お前の想う相手を見極めようとしているようだ」
「え……?」
 まさかと思い、マリエは至近距離にあるカレルの顔色を窺った。
 だがその表情は確信して疑わず、深刻そうに眉を顰めてさえいる。
「私に対して鎌をかけてみせたであろう。全く、あの歳にして頭の回る男だ」
 それでマリエは釈然としなかった先程のやり取りに――礼儀正しいミランが、あの時だけは謙遜もしなかったことに思い至る。

 あの時のミランは屈託がなかった。相手を特定していたわけではないはずだが、それでもマリエは弟の慧眼にひやりとする。
 城勤めを続けて十年が過ぎ、ろくに家にも帰らなかった姉の懸想の相手は、まず城内で探すのが定石となるだろう。そして務めに追われるマリエがよく顔を合わせ、想いを寄せ合うに至るほど近しい人物と言えば、候補者はそう多くない。
 ミランが真実を見抜くのも遠い日のことではないのかもしれない。

「どうせ直に知られることではあるが、今はな……あれを子供と見くびるのもよくはないが、教育によろしくない場面を見られてからでは遅い」
「あ、あの、それはどういう――」
 マリエは声を潜めて聞き返したが、またしても唇で遮られた。
 そうしてカレルはマリエを離すまいとするように強く抱きすくめる。やがて、再び囁かれた。
「まずはあの鋭い目から逃れる術、何か考えなくてはならぬな」
 隣室の物音を気にしつつ、カレルに抱き締められてどぎまぎしつつ、マリエはこれからの日々をおぼろげに予感する。
 恐らくはこれまで以上に目まぐるしく、騒がしく、思い出深い日常がやってくるに違いない。

 種蒔く日々の移ろいは、もうしばらくだけこの城で続く。
 後に振り返った時、誰もが口を揃えて幸いであったというような――あるいは『この時もまた幸いであった』と口にするような毎日が、マリエとカレルを待っている。
 今はまだ誰も、慧眼をもってしても見通せない未来の幸福を、マリエはこの時から信じていた。

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