種蒔く日々の移ろい(8)

 予告のない口づけはいつものことだった。
 カレルはいつもマリエに了承を取らず、不意を突いてくる。マリエはいつも狼狽しつつ、幸福な心地で受け入れていた。

 だが今の口づけは普段よりも激しく、衝動的だった。唇を食み、吐息を吸い上げ、全てを貪ろうとするようだった。あっという間に翻弄されて意識がふらつき、唇が離れた瞬間に我に返る。
「殿下……」
 絶え絶えの呼吸で、縋るようにマリエは呼んだ。
 すると息をついたカレルが、喉を鳴らしながら呟く。
「かすれた声で呼ばれると、どうも妙な心地になる」
「も、申し訳ございません」
 慌てて詫びれば、苦笑いが返ってきた。
「謝ることではない。もっと聞きたいと思ったほどだ」

 その言葉にマリエはえも言われぬ気恥ずかしさを覚えた。
 自らの中にある自身にも測りかねるような感情を、想う人に覗かれてしまった気恥ずかしさだった。
 今の貪欲な口づけに、それまで泣いていたのも忘れて、酔いしれるような心地を覚えていた。

 それを悟られまいとして、マリエはあたふたと語を継ぐ。
「あの、泣いてしまったことも申し訳ないと存じます」
「それもよい。私の前ではもっと曝け出せ」
 カレルは剥き出しになっているマリエの首筋を、五本の指を這わせるようになぞった。
 涙で濡れていた肌は指先を滑らせ、思いがけない感覚にマリエの背筋が震える。
「あっ……そ、そんなふうに触っては……」
「お前がそういう声を上げるとはな」
 制止も聞かず、カレルは涙を舐め取るように唇で触れてきた。
 マリエが思わず目をつむると、笑い声と共に吐息が無防備な首筋をかすめる。
「きっと、まだ知らぬお前の顔がたくさんあるのだろうな……お前の今の顔も、先程の涙も、私に選ばれぬのは嫌だと言ったことも、私は何も知らなかった」
 唇が離れ、マリエは恐る恐る目を開けた。
 すると目の前には自分を見つめるいとおしげな面差しがあった。
「私も同じ思いだ、マリエ」
 視線を片時も逸らすことなく、カレルは続けた。
「お前の母がお前に寄越した手紙、あれを読んだ時ははらわたが煮えくり返った。お前がよその男と会う想像だけで気が狂いそうになる」
 すっかり涙が止まってしまったマリエは、夢から覚めたばかりの気分で主を見つめ返す。
「だが、お前の見ている前で他の婦人と踊った私の方が、罪が重いな」
 カレルが悔やむそぶりを見せたので、マリエは静かにかぶりを振った。
「いいえ。殿下はあの晩、取るべき最善の手を取られたのだと存じます」
 嫉妬心を正直に打ち明ければ、カレルがどう振る舞ったかは想像がつく。だからこそマリエは打ち明けるまいと思った。
「わたくしは……違うのです。殿下に何かしていただきたいわけではなく、わたくし自身が強くなるべきなのです」
 瞳にわずか残っていた涙が、捨てられるように滑り落ちた。
 これが最後の涙であればいいと思うのに、そうではないことを、既にマリエはわかっている。
「これから先、わたくしには泣いてはならない局面が何度も起こり得ることでしょう。殿下のお傍を離れる時も、お会いできない日々が続いても、そのことを寂しく思うことがあっても――」
 マリエは一度言葉を区切り、言いにくいことを小さな声で言い添える。
「もしもわたくしにお世継ぎが産めなかった時、殿下が正式なお妃を迎えられるとしても」
「言うな」
 すかさずカレルが制してきた。語気を強めた声に苦々しさが混じる。
 だが当然、考えなくてはならないことだ。
「わたくしがどのように思っても、殿下のなさることを止めるわけには参りません」
 また涙が滲んでくる。
「殿下がどんな道を辿られても泣いてはならないと……そう存じておりますのに……」
 最後にはなり得ない涙が、瞳から止め処なく零れ落ちる。
「泣いてしまう、気がするのです。殿下のお傍を離れる時も、長らくお会いできない時も、殿下の存じないところでも……」

 それどころかマリエは、自身が思っていた以上に脆かった。
 カレルが他の婦人の手を取り踊る。それを目の当たりにしただけで、胸が張り裂けそうだった。
 しかしそれほど脆い心なら、この先の未来は耐えがたいだろう。想いを貫くなら強くならなくてはいけない。

「マリエ、お前は……私は辛い思いをさせていたのだな」
 気遣わしげなカレルの問いに、しかしマリエはきっぱりと答える。
「いいえ。そんなふうにはお思いにならないでくださいませ」
「だがお前を泣かせておいて、私に何もするなと申すのは……」
「申し上げたはずです。殿下がわたくしを選んでくださらないのは嫌です」
 脆く弱い女だから、すぐに泣いてしまうから――そんな理由で選ばれなくなるのは嫌だった。
 何より今のマリエは幸福だった。想いを寄せる人から想われ、大切にされ、傍らでその笑顔と温もりを一身に受けられる今がこの上なく幸せだった。だから、カレルがその優しさから心変わりしてしまうことを何よりも恐れている。
「母に会うのが怖かったのも、そういうことなのだと……今ならわかります。母の前でも泣いてしまうはずだと」

 独り立ちをしてから十年が過ぎ、マリエは大人になったつもりでいた。
 事実、十一歳で家を出された時にはもう大人の扱いをされていたのだと思う。
 当たり前のように城へ上がることを求められ、その日から家に帰ることなく働き続けてきた。主の他には誰も誉めてくれる人はなく、思い悩む日を共に過ごす相手も幼い主一人きりだった。疲れの残る朝に起こしてくれる人もいなければ、務めを終えた後の暗い城内を部屋まで共に歩いてくれる人もいなかった。
 そんな十年を過ごせば泣くことも忘れる。家を出された日から身に着けてきた近侍としての身分が、自分を強く、いっそ頑ななまでに守っていてくれた。
 せっかく忘れていたことを、二十一になってから思い出すのは遅すぎた。
 務めを離れて母に会えば、泣いてしまう予感がしていた。いつかの未来に別れがあると知っていれば尚のことだ。

「近侍でないわたくしは、脆くて弱いただの娘でございます」
 泣きじゃくりながらも、マリエは懸命に訴えた。
「ですからどうか、こんなわたくしでもいいと仰ってください。わたくしが泣いても、殿下の存じ上げないところで泣いてばかりいたとしても、わたくしを選ぶと……」
「お前がいい」
 間髪入れずにカレルは応じる。
 その迷いのない答えに、泣いている最中にもかかわらず幸福感が込み上げてくる。
「なぜ笑う」
 訝しげに問われて、マリエは泣きながら笑った。
「いえ、わたくしは殿下のその真っ直ぐなお心を、何より好ましく感じております」
 そしてカレルは、マリエの言葉に不満げな顔をした。
「好ましい、という言い方は気に入らぬ。もっと違う言い方がよい」
「では……あの、いとおしいと……存じます」
「ああ」
 嘘偽りなく言い直すと、カレルは礼をするようにマリエの唇に短く口づけた。
 それからマリエの頬を濡らす新たな涙を、指の腹で丁寧に拭ってくれた。
「お前ももっと、私に真っ直ぐ語るがいい。隠し事のないお前の方がきれいだ」
「殿下がわたくしに幻滅されないのであれば、いくらでも」
 本心から頷くマリエに、カレルは眉根を寄せてみせる。
「幻滅されるような何が、お前にあると申すか」
「殿下は、弱い上に欲張りな女はお嫌いではと……」
「弱くもなく無欲な人間など、この世にそうおるものではあるまい」
 カレルはそう答えた後で、不意に思い出し笑いを閃かせた。
「言われてみれば、お前は昔からそうであったな。私が幽霊の話をすれば私以上に怖がり、私が茶菓子を食べる間はいつも物欲しそうにしていた。お前の弱さも、欲張りなところも、今更だ」
「そ、それは昔の話でございます」
 とっさに言い返すマリエを、カレルは愉快そうに見やる。
「今も同じであろう。お前は私の面前でいつも壁を作ろうとしているが、私が見たいのも、心惹かれているのも、その中にいるお前だけだ」

 それなら今宵は実に都合のいい舞台となるだろう。
 マリエを守り続けてきた壁は既になく、もうしばらくは身に着けることもできはしない。全てを晒すつもりでいるなら今宵しかない。
 この機を逃せば、次はいつになるか、機会が訪れるのかさえわからない。

「では……、ご覧になりますか?」
 限りある時に背を押されて、マリエは尋ねた。
 その後で自分がとんでもないことを口にしたような気がして、慌てて視線を転じた。椅子の背にかけられたあの服を見て、引き下がるわけにはいかないと思い直す。
「服が乾くまで……きっと時間もございましょうし……」
「ああ、きっと夜明けまでかかる」
 カレルは確信したように言った。
 それから、
「つくづくお前は、私に期待をさせるな」
 含むように笑んだかと思うと、椅子に座るマリエの上に屈み込み――両腕で抱え上げた。
 ドレスが床から持ち上がる衣擦れの音が部屋に響き、突然高くなった視界、自由の利かなくなった身体、そしてより近づいた主の顔に固まりながらマリエは声を発する。
「え……あの、殿下……?」
「静かに」
 声を落として質問を封じると、カレルはマリエを抱えて食卓を離れた。
 向かったのは居室の奥にある寝室だ。扉を肩で開け、明かりのない真っ暗な部屋の奥へ連れていかれる。
 開け放たれた扉から差し込む隣室の光だけを頼りに目を凝らせば、運ばれていく先は天蓋から薄絹が下りた寝台だ。気がつけばそこに座らされていて、薄絹越しにカレルがこちらを窺っているのが闇に浮かび上がって見えた。
「すぐに、戻る」
 そう言い残し、カレルは一度寝台の傍から離れた。

 マリエが見守る中、その後ろ姿は隣室に消え、歩き回る足音、燭台の蝋燭を消す音がいくつか聞こえた。
 その後で、カレルは再び寝室に現れた。
 炎揺らめくランタンと、そこから放たれる明るい光と共に戻ってきた。
 何気なく目をやれば隣室の明かりは全て消えているようで、今は向こう側から何の光も差し込んでいない。代わりに寝室はランタンによって明るく照らされ、舞台が転換したようだとマリエは思う。

 カレルはランタンを寝台脇の小卓に置くと、光を透かす薄絹を掻き分け、マリエの隣に腰を下ろした。
 寝台が微かに軋み、並んで座る二人の影が夜具の上に落とされた。
「あの……」
 言いたいことがあったわけではないが、マリエは口を開いた。
 いたたまれなかったからだ。
 マリエも二十一歳、世事にも恋愛事にも疎いとは言え、さすがにこの状況がわからないわけではない。ものの本で様々な知識を得た後だけに、夜明けまで異性の部屋に、それも寝室にいるかもしれないという事実を今更のように重く受け止めている。
 だが同時に、これは自らも望んだことではないか、とも思う。
 あの言葉を口にした時、まだ気持ちは曖昧だった。でも、今は――。
「『お前を幸せにする自信はない』」
 気まずげなそぶりもなく、カレルがそう呟いた。
 マリエが目を瞬かせると、こちらを向いて微笑んだ。
「以前、私が言ったことだ。覚えているな」
「……はい」
 誓いを立てた日、互いが想いを打ち明け合った日のことだ。
 それでも構わないと思った。なぜなら想われているだけで、そして想うことを許されるだけで幸いだったからだ。
 頷いたマリエの黒髪を、カレルは一房だけ持ち上げて指先で梳いた。
「あれは撤回する」
「え……」
「私はお前を幸せにする。そうでなければ、私の気が済まぬ」
 するりと髪から離れた手が、マリエの肩に置かれる。大きな、熱い手だった。
 そのまま、力をかけて倒された。

 あっさりと夜具の上に体を横たえたマリエは、呆然と目に映る光景を眺めている。この部屋の寝台から見上げる天蓋の眺めを、マリエは十年も過ぎてから初めて知った。吊るされた薄絹のひだの美しさは夢のようで、身を横たえる夜具の柔らかさにもうっとりした。
 もっとも、そういうものに注意を払っていられたのも少しの間だけだ。

 直に視界を、カレルの端整な顔が遮った。
 城勤めを始めてから一日たりとも欠かさず見つめ続けてきたその顔は、今や凛々しく立派な青年となっている。口元は楽しげに笑み、青い瞳には情熱的な期待の色をちらつかせて、マリエを組み敷くように見下ろしている。
「私のわがままとも言える望みにお前を付き合わせるのだ、お前も幸いでなければおかしな話だ」
「殿下、わたくしは既に十分幸せでございます」
 マリエは震える声で反論した。
 だがそれに、カレルは唇を塞ぐことで応じた。隣室でした時と同じように唇を噛まれ、吐息も漏れた声も飲み込むほど荒々しく求められた。その合間に熱い手はマリエの髪に触れ、耳をくすぐり、頬を撫でて首筋を辿る。涙は既に乾いていて、指先は滑らずにじっくりと、襟刳り近くの鎖骨までなぞられた。
 またしても翻弄されたのだろう。唇が離れるまで、マリエはろくに考えることもできなかった。
 そして唇が離れると、寝室には二人の乱れた呼吸が響いていた。晩餐会で楽隊が奏でた舞曲よりも速く、それでいて甘い響きが寝室に満ちる。
「マリエ、今は幸せか」
 荒い息を吐き出しながら、カレルは見下ろすマリエにそう尋ねた。

 唐突な問いにマリエは目を瞠ったが、答えは確かに一つだった。
 自らの中にある、これまでは目を背け続けてきた測りかねるほどの感情が胸の奥に満ちてくる。
 自分の幸福とは何か、マリエは改めて考える。心から想う人が笑っていること、憂いなくあること、幸いでいること――それらは答えの半分でしかなく、本当は、本当に自分が心から求めてきたものは。

「はい、殿下……」
 やがてマリエは、正直に答える。
 いつもと違う口づけに心掻き乱され、熱い手の感触に動悸が速くなる。そのことをどうしてか幸福だと思う。ふわふわと酔いしれるような心地が、すぐ傍にある体温を求める願いが、身体の震えや緊張さえも押し退けようとしているのがわかる。
 自分にこれほど欲しいものがあるとは、マリエ自身にも信じがたい思いだった。
「私の目にも、今のお前はたまらなく幸福そうな顔に映っている」
 カレルが満足げに言ったので、マリエはこわごわ視線を上げて、眼前にあるはずのいとおしい顔を確かめた。
 そこに浮かんでいるのもやはり、欲しくて欲しくてたまらなかったものをようやく手に入れたという至福の表情だった。
「殿下……」
 かすれた声でマリエが呼ぶと、カレルは先程もそうしたように喉を鳴らしてみせた。
「よい声だ。夜明けまで、何度でも繰り返し聞かせてもらおう」
「そんな、わたくしの声が嗄れてしまいます」
 マリエが恥じ入りながら目を伏せると、改めて目を合わせようとするように額を軽くぶつけてきた。
「駄目だ、ちゃんと私を見ていろ」
「か、かしこまりました、殿下」
「私もお前を見ている。この十年もの間、ずっとそうだったのだからな」
 そして戯れのように短く唇を重ねた後、とろけるような笑みを浮かべてみせた。
「だからな、マリエ。今宵は覚悟しておけ」
「覚悟……お、穏やかではないお言葉に聞こえますが……」
「穏やかなはずがあるまい。私の想いを身をもって伝えるのに、一晩ではとても足りぬ」

 その時のマリエはまだ、この夜の呆れるほどの長さなど、全く知る由もなかった。

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