種蒔く日々の移ろい(5)

 日が傾き始める頃、ミランは王子殿下の居室を後にした。
 マリエは主の許しを得て、弟を城門まで見送ることにした。

「ねえさま、本日はありがとうございました」
 二人で城門をくぐった後、ミランは足を止め、姉を振り返る。
 色濃くなる午後の日差しの中で、彼はとても満ち足りた表情をしていた。
「殿下にお会いして、改めてねえさまのように城勤めがしたいと思うようになりました」
 晴れ晴れと語るミランを見下ろし、マリエも喜ばしい思いでいっぱいだった。
「殿下も誉めてくださいましたが、あなたのご挨拶はとても立派でした。あなたならきっとよい近侍になれます」
「ねえさま……嬉しゅうございます」
 ミランは恥ずかしそうに微笑む。
 それから、少しだけ寂しげに眉尻を下げた。
「でも、もうお別れだなんて……。ねえさまとはもっとお話がしたかったです」
「またすぐに会えますよ」
 マリエはそんな弟を温かく宥めた。
「あなたがお城に勤めるようになれば、しばらくは一緒にいられます」
「ねえさまと、たくさんお話もできますでしょうか」
「ええ、必ず」
 今日初めて会ったばかりの弟に、マリエもまた慈しみの情を覚えている。

 ミランは十歳にして親元を離れる決意を固め、今日もたった一人で城を訪ねてきた。
 その姿にマリエは、かつての自分を重ねずにはいられなかった。
 カレルの近侍になったばかりの頃、慣れない城勤めに日々心細く思っていた自らの姿を――もっともミランはあの頃のマリエよりもよほどしっかりしている。自分のように惑うことも、主を困らせることもあまりないだろう。頼もしい限りだ。

「次に会える時を楽しみにしています」
 マリエがそう告げると、別れの気配を察したミランは俯いた。
「はい、ねえさま」
「それまで、どうぞ息災で」
「ねえさまもお元気で」
「母上にもよろしく伝えてください。わたくしは元気でいると」
 母親についてマリエが言及すると、ミランは俯いたまましばらく黙る。
 その様子を怪訝に思ったマリエが、
「どうかしたのですか」
 と尋ねれば、ミランはやがて面を上げ、大人びた眼差しで姉を見た。
「ねえさま。私はかあさまからも、ずっとねえさまのお話を聞かされて参りました」
 その言葉をマリエは、どこか現実味なく聞いた。
 自分がいなくなった後の生家にて、家族が自分のことをどんなふうに話しているか、当然ながら知る由もなかった。
「母上は、何と?」
「ねえさまは、本来であれば王子殿下の近侍になっていたわけではないのだと」
 ミランが続けた。
「もし私の方が先に生まれていたなら、こうして代替わりをせずともよかったのだと」
 かつてマリエの母親は、マリエが女ながらにカレルの近侍を務めることに懸念を示していた。
 事実、異性に仕えることで生じた支障がいくつかあった。年頃になるにつれ着替えの手伝いも、湯浴みの際に浴室へ入ることも拒まれるようになった。マリエ自身、女でなかったら差し障りなく務めが果たせたのではと思うことも何度かあった。
 ミランの言う通り姉弟が兄妹であったなら、そういった支障もなかっただろう。
「だから、ねえさまはお城で大変な苦労をしているはずだと、かあさまは仰いました」
 風が吹き、ミランの美しい黒髪が揺れた。
「それでもねえさまは十年以上もの間、立派に務め上げられた。そして殿下がお認めになるほど立派な近侍になられたのだって」
「そんな……それほどのことは」
 マリエは面食らった。
 母は昔から厳格な人で、滅多なことがない限り誉めてはくれなかった。もちろんそれも城勤めを控えた娘の為、愛情あってのことだとマリエもわかっている。だが記憶にも乏しい母の誉め言葉を口伝えで聞くと、にわかには信じがたい思いが過ぎった。
 ミランの黒い瞳は澄んでいて、あくまでもひたむきだ。
「殿下もねえさまをとても気に入られているようでした」
 お目通りの際のやり取りを思い出し、マリエはどぎまぎした。
「あれは、あの、殿下も気を遣ってくださったのだと思います」
「いいえ。ねえさまが殿下から深く信頼されていること、私にもわかります」
 きっぱりとかぶりを振って、ミランは尚も語を継ぐ。
「ですから私に、ねえさまの代わりが務まるようになるまでにはきっと長い年月がかかることでしょう。ですが、必ずや務めてみせます」
 あどけなさの残る顔に、随分前から固めていたであろう決意の色を浮かべて。
「ねえさまには、これまでのご苦労の分だけ、幸せになっていただきたいのです」
 それから頬を赤らめて、慌てふためきながら言い添える。
「そ、その前に、私もねえさまと一緒に過ごす時間が欲しゅうございますが……」
「ミラン……」
 マリエは胸が詰まる思いでいた。
 会ったこともなかった弟が、自分の苦労を偲び、幸福を願ってくれている。そしてその為に、今度は自身が懸命に働くのだと意気込んでいる。
 だがその弟に、マリエはまだ真実を告げられない。
「あなたはとても優しい子ですね、ありがとう」
 マリエは弟の小さな手を取った。
 手のひらで包むように握る。風のせいか、その手は少し冷たかった。
「あなたが立派な近侍となれるよう、傍にいるうちにたくさんのことを教えてあげましょう」
 そう語りかけると、ミランは夢見心地の表情で姉を見つめ返してきた。
「ど……どうかよろしくお願いいたします、ねえさま」
「ええ、もちろんです」
 マリエは深く頷くと、再会を約束して弟と別れた。

 弟が帰っていった後、マリエにはいつも通りの日常が戻ってきた。
「殿下、本日はありがとうございました」
 声をかけると、布一枚を隔てた浴室の中で主が笑う。
「私も愉快な時を過ごせた。礼を言うのはこちらの方だ」
「寛大なお言葉に感謝いたします」
「うむ。お前の弟があんなにもお前によく似ているとはな」
 湯浴みの最中のカレルの声は、マリエの耳によく響いて聞こえた。
「まるで城に来たばかりのお前を見ているようだった。懐かしいことだ」
 主はやはり、マリエと弟がよく似ていると感じているようだ。浴槽の湯をかき混ぜながらしみじみと語る口ぶりは、どこか嬉しそうだった。

 現在でもカレルは湯浴みの際にマリエの手を必要としていない。
 近頃はマリエの方も手伝いを申し出ることがなくなった。以前のように耳の後ろを洗い忘れたり、石鹸の減りが悪いということもないので、口を出す必要がなくなったというのが主な理由だ。
 他の理由もあるにはあるが、マリエはあえて目を背けている。

「殿下が弟を気に入ってくださったのであれば、喜ばしいことでございます」
「ああ、気に入った。働きぶりを見せてもらうのが楽しみだ」
 浴室の外と中で、二人は会話を続けた。
「では母にも、そのように伝えておきます」
 母に主の言葉を伝えれば、ミランもそう日を置かずに城へ上がることになるだろう。
 早速、手紙を送らねばなるまい――マリエはそこまで考えて、ふと、ミランが語った母の話を思い出す。
 ずっと顔も合わせていなかった母は、その間も自分のことを想ってくれていたようだ。そしてミランに、自分の話を語り聞かせてくれていた。
「ミランが城に上がる日が来たら、お前が迎えに行くがいい」
 労わるような優しい声で、カレルがそう言った。
「わたくしが、でございますか?」
「ああ。それならお前も、一時ではあるが家へ帰ることができよう」
 主の提案にマリエははっとした。
「お言葉ですが、それでは半日ほど殿下のお傍を離れることに……」
「構わぬ。たまには親に顔を見せてこい」
 どうやら主は、マリエが城に上がってから一度も家へ帰っていないことを気にしているらしい。温情ある言葉に、本来であればマリエも感謝を述べ、粛々と従うのが礼儀のはずだった。
 だがマリエはおずおずと応じた。
「わたくしは……その、帰らなくてはなりませんでしょうか」
「必ずや帰れと言っているわけではないが。帰りたくないのか?」
 カレルは驚いたように聞き返してくる。
 マリエ自身、今の今まで気づいていなかった。自分はあの家に帰りたくないのだと――どうしてかはわからない。だが、母と顔を合わせるのをこの上なく気が重いと感じている。
「そのようです」
 まるで他人事のように答えれば、カレルも訝しがってみせる。
「なぜだ」
「なぜかは……申し訳ございません。わたくし自身にもわからないのです」
「それもまた妙な話だ。理由もないのに帰りたくないと申すか」

 理由は、想像を巡らせれば浮かんでこないこともない。
 マリエの母は、娘に城勤めを終えて身を固めることを望んでいる。顔を合わせれば縁談について話が及ぶかもしれず、しかしマリエが未来に望むのは母の意に沿わぬ生き方であり、打ち明ければ母はきっと嘆き悲しむだろう。そのことに、気が重いのかもしれない。
 だが、それだけだろうか。

「マリエ」
 惑う胸中を見透かしたように、カレルが低い声を発した。
「お前は、何を恐れている」
「わたくしが? いえ、恐れてなど……」
 とっさに否定しようとして、直後、マリエは気づく。
 主の言う通りだった。自分は、何かを恐れている。
「……仰る通りです。わたくしは、怖いのかもしれません」
 一転して、マリエは認めた。
「何が怖いと申すか」
「母から叱られるような気がするから、でしょうか」
 その答えは嘘ではなかったが、真実だという確信もなかった。
「私とのことをか」
 浴室の主が問い返し、ほんの一瞬、マリエは口ごもる。
「あの……わたくしの母も、忠心篤き臣民でございます。殿下のご意向に反するようなことを申し上げるはずがないと存じます」
 マリエの知る母は、もしかすればマリエ以上に誇り高き忠誠心を持つ人物だった。王子殿下の望みを知れば、少なくとも表立って異を唱えるとは思えない。
 それに、たとえ母が何と言おうとマリエの心が変わることはない。叱られようとも、嘆かれようとも、悲しまれようとも、マリエはたった一つの未来を迷わず選ぶつもりでいる。
「ですから、怖いというのもおかしな話ではございますが……」
 マリエは首を傾げながら主に語った。
 叱られても構わないと思っているのなら、自分は一体何を恐れて、帰りたくないと思うのだろう。
「わたくしは、帰りたいとは思っておりません」
 その気持ちだけは確信を持って口にできた。
 浴室には深い溜息が響く。
「そうか……。お前がそこまではっきりと申すなら仕方あるまい」
「せっかくのお心遣いにもかかわらず、申し訳ございません」
「気に病むな。私の方こそ、先にお前の望みを聞いておくべきだった」
 カレルの声は沈んでいた。気落ちしたのかもしれない。

 主の厚意を踏みにじったようで、マリエは今更のように後悔の念を抱いた。
 だがそれすら制するように、主は浴槽の湯を手で――あるいは足で撥ね上げた。
 響いた大きな水音にマリエはびくりと身構えたが、主が湯から上がる気配はなく、しばらくしてから声だけが聞こえた。
「マリエ、私はな。何よりもお前の本心が知りたい」
 浴室に響く声は低く、それでいて切実だった。
「お前の心を疑うわけではない。だが時折、お前がわからなくなる」
「わたくしの心は、もちろん全て殿下のものでございます」
 マリエは恥じらいながらも即答した。それこそが偽らざる本心だった。
「だが、母を恐れ帰りたくないという気持ち、それもまたお前の心であろう」
 カレルは問いを重ねてくる。
 今度は戸惑い、即答はできなかった。
「仰る通りですが、それはわたくしの事情でございますし、殿下とは何も――」
「そういう心も知りたいと、私は言っているのだ」
 マリエの言葉を遮り、カレルは声を尖らせ主張する。
「お前が仮面を被っているように思える時がある。その心に誰も立ち入らせまいと、強固な壁を幾重にも張り巡らせているように」
 そして苦しげに息をついてから、続けた。
「私はそれが不安なのではない。疑っているわけでもない。ただ、知りたいのだ」
 マリエはいよいよ困惑を深め、反応に困った。
 仮面を被っている自覚はなかった。それどころか自分は時々とてもわかりやすく顔に出るようだし、主もそれをいつも的確に見抜いてみせる。マリエからすれば、これ以上主に隠している心があるだろうかと思うほどなのに。
「お言葉ですが、わたくしは何も隠しているつもりはございませんし、殿下が知りたいと仰るのであれば正直にお答えいたします」
 浴室に向けて反論すると、カレルはまた溜息をつく。
「何でも答えると申したか」
「はい」
「そうか、では試しに一つ尋ねるぞ」
 そして微かに笑ったかと思うと、
「近頃のお前はかつてのように、湯浴みをする私の世話を焼こうとはしなくなったな。着替えの手伝いをするとも、湯上がりに香油を塗らせろとも言わなくなった。あれはなぜだ」
 一息にそう言って、浴室の外のマリエを慌てさせた。

 なぜかと言えばそれは、カレルがマリエの世話を必要としなくなったからだ。
 浴室に立ち入るな、着替えの時にはこちらを見るなと命じたのはカレルの方で、マリエも年頃の王子の意向を酌むうちに湯浴みの際には一切手を貸さなくなった。それもまたごく最近のことだ。幸い、近頃のカレルは石鹸の減りが極端に遅いということもなく、自ら進んで香油を使うようになったのもあり、マリエが手を貸す必要は一切なくなっていた。
 だが、他の理由もある。マリエがあえて目を背けている理由が。

「わ、わたくしの手など必要ございませんでしょう?」
 マリエが動揺して聞き返すと、
「では、必要だと言ったらどうする?」
 カレルは含んだ物言いで更に問いを返してきた。
「私はもうじき湯から上がるが、お前に香油を塗って欲しいと言ったら、お前はどうする?」
 主に見えないところでマリエは息を呑んだ。頬に熱が上がってくるのがわかる。心が激しくざわめいて、思わず胸元で両手を握り合わせた。
 だが自分の答えは決まっている。
「……ご命令とあらば、もちろん仰せの通りにいたします」
 顔が見えないのを幸いと澄まして答えれば、
「命令ではないと言ったら?」
 それすら推し測ったかのようにカレルは畳みかけてくる。

 命令ではないなら、そんなことは――できない。
 したくないわけではない。むしろ主の望むことであれば何であっても叶えて差し上げたいとマリエは思っている。無論、それは忠心からではない。
 だが、マリエも近侍である前に年若い婦人だ。想いを寄せる殿方が湯浴みをしているところへ踏み込んでいき、動じることなくその身体に触れられるかといえばそんなはずがなく。

 近侍としての務めと乙女心を天秤にかけたマリエは、やがて消え入りそうな声で言った。
「殿下が望まれるのであれば……」
 その答えはもしかしたら、カレルにとっても意外なものだったのかもしれない。
 一瞬の間があって、
「では、頼む」
 口ぶりは平然と、カレルはそう言った。
 マリエは覚悟を決める暇もないまま、香油で満たされた小瓶を握り締め、浴室と外とを隔てる布をくぐった。

 途端に視界を湯煙が覆い、ほのかな石鹸の芳香と室温の高さに眩暈がした。高い位置にある採光の為のガラス窓からは、眩い残照が差し込んでマリエの目を灼いた。
 濡れた浴室の床を進めば、白い大理石の浴槽の中にカレルはいた。マリエの出方を探るつもりでいるのか、まだ湯からは出ていない。濡れた白金色の髪を無造作に後ろへ流し、額を晒したその顔と目が合い、マリエは焦りながら視線を逸らした。その時、幅の広い裸の肩も見えてしまって、えも言われぬ罪悪感を覚えた。
 とは言え、ここまで来たのもまた自らの意思だ。
「殿下、あの……参りました」
 マリエは俯いたまま告げると、更に一歩近づこうとした。
 だが踏み出したところに濡れた床はなく、
「マリエ、危ない!」
 カレルが叫んだ時にはもう、マリエの身体は浴槽に満たされた湯の中に落ちていた。
 派手な水音が響き、盛大に飛沫が上がった。いきなりのことにマリエはもがき、目を開けていられなくなり、早速大量の湯を飲んだ挙句、苦しさに我を失いながら湯の中で手足をばたつかせた。すると誰かが自分の手を掴んで引き上げようとしてくれたので、無我夢中でその手に縋り、浴槽の床に足をつけてどうにか立ち上がる。
「も、申し訳ござ……けほっ」
 むせながら、片方の手で大きな手を握り締め、もう片手では目に入ってくる湯を拭った。全身ずぶ濡れなのはわかっていた。
 だが、この浴室にいるのが自分と、もう一人だけだという事実は早々に失念していた。
「湯を飲んだか。大丈夫か、マリエ」
 自分の手を握り締め、もう片方の手で抱きかかえるようにして背をさすってくれている、聞き慣れた声の主を、マリエは目を開けられるようになるまで見ることができなかった。
 そして目を開けられるようになった時、見てしまった。
「しかし派手に落ちたな。どこも打っていないといいのだが」
 浴槽の中でずぶ濡れのマリエを抱きかかえているのは、他でもないカレルだった。
 湯浴みをしている最中だった為、当然ながら、一糸まとわぬ姿だった。

 いっそ気絶してしまいたいとマリエは思う。
 しかしマリエは貴婦人ではないので、そうそう都合よく気を失ったりはできないのだった。

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