種蒔く日々の移ろい(4)

 マリエは不思議な思いで、目の前の少年を見つめた。
 背丈はマリエの肩にぎりぎり届かない程度、色白の顔はあどけないが輪郭は少年らしく引き締まっている。艶のある黒髪は癖もなく真っ直ぐで、風が吹くと絹糸のようにさらさら揺れた。切り揃えられた前髪の下、曇りのない黒い瞳がじっとマリエを見つめ返している。
 自分の顔は毎日、鏡で見ている。だが十歳の頃の自分の顔は覚えていない。だから彼が自分と似ているのかどうか、マリエには判別がつきかねた。
 ただ、主が言うように髪の色は同じだ。

「いかにも、わたくしがマリエです」
 マリエは呼吸を整えてから、そういうふうに名乗った。
「ミラン、あなたの名前は母上から伺っております。はじめまして」
 愛想のかけらもない挨拶だったが、ミランは血の気のない顔を安堵に和ませた。
「はい。お目にかかれて嬉しゅうございます、ねえさま」
 声変わり前の少年の声でそう言うと、唇にも微かな笑みが浮かんだ。
 それでマリエも弟に合わせようと微笑んだ――少なくとも自分ではそのつもりだった。緊張のせいで顔の筋肉がよく動かなかったが、笑おうと努めたのは事実だった。
「よく一人でここまで来られましたね」
「はい。かあさまが地図を持たせてくださいましたので」
「風の強い日ですが、寒くはありませんでしたか」
「はい。外套も、今日の為に仕立てていただきました」
 初対面の弟相手に、マリエの話題の選び方は自分でもわかるほどぎこちない。だがミランはそれにも生真面目に、ひたむきに答えてくれた。
 お蔭でマリエの緊張もいくらか解れ、今度は自然に笑いかけることができた。
「話に聞く通り、あなたはとても賢い子なのでしょうね。わたくしも会えて嬉しいです」
 その瞬間、ミランの白い頬にぱっと赤みが差した。
「あ、あの、ありがとう、ございます……」
 黒い瞳が泳ぎ、言葉も急にたどたどしくなる。
 誉めたのは失敗だっただろうか。急にうろたえた弟にマリエも内心慌てたが、追い打ちをかけるようにミランが、おずおずと切り出した。
「ねえさまも……あの、と、とてもおきれいな方で、驚きました……」
「えっ」
 その言葉は余裕を取り戻したはずのマリエに不意打ちの一撃をもたらした。
 ミランは恥ずかしそうに続ける。
「実は、お会いするまでどんな方か想像をしておりました。かあさまに似ているのかなとか、大変なお仕事をしているならさぞ厳しい方なのだろうな、とか。でもお会いしてみたらとてもおきれいで、それにお優しそうな方だったので……」
 彼の方には他意などなく、初めて顔を合わせた姉を純粋に誉めているつもりなのだろう。

 だがマリエは激しく狼狽した。
 小さな子供と思っていた弟に思いがけず誉められて、ようやく解け始めていた緊張がぶり返した。
 これまで自分より年少の相手と言えば主としか接したことのなかったマリエは、主以外の十歳の少年がどのような口の利き方をするか、何も知らなかったのだ。まさにカレルの言う通り、侮ってはならぬ存在だった。

 それでも十年を越えた城勤めの成果か、マリエの狼狽はさほど面に出なかったようだ。上目遣いに姉の表情を見たミランは、たちまち我に返って慌てた。
「し、失礼なことを申し上げたでしょうか……」
「いえ、あの、失礼ということは……ない、はずです」
 マリエは呼吸を整えながら応じ、背にした城門の向こうから聞こえてくる忍び笑いにも反応せず話を戻した。
「本日は殿下にお目通りする日です。心構えはできておりますね」
「はい」
 そしてミランも真面目な顔つきになって顎を引く。今でこそ幼さが抜け切らぬ面立ちだが、あと数年もすれば凛々しく立派な青年になることだろう。
「殿下はとてもお優しい方です」
 そんな弟に、マリエも真剣に語りかけた。
「あなたが少し失敗してしまっても、殿下は必ず許してくださいます。ご挨拶の言葉を間違えたり、上手くひざまずけなかったり、緊張のあまり声が出なくなったとしても慌てることはありませんからね」
「はい、ねえさま。心得ました」
 どうやらミランの方は心構えもとうにできているようだ。
 それならマリエが必要以上に気を揉むこともないだろう。
「では、殿下の御前へ伺いましょうか」
 マリエがそう言って踵を返した時だ。
 城門の向こうにいた二つの影ががさっと駆け出し、大急ぎでこの場を離れていくのが見えた。まるで風のような速さで去っていき、あっという間に見えなくなる。
「あれっ、今、誰か……」
 ミランが怪訝そうな声を上げたので、マリエは咳払いをしてから弟に告げた。
「殿下にお会いする前に、お城の中を少し案内しますね」
「ねえさま、それでは殿下をお待たせすることになるのでは……」
「いえ、殿下もそれを望まれるはずです」
 きっぱりと断言したマリエに、ミランは目を瞬かせつつもそれ以上の反論はしてこなかった。
 マリエは弟を連れて城門をくぐり、可能な限りゆっくりと城内を歩き始めた。

 迎賓の間や中庭、書庫などを一通り見て歩いた後、姉弟は王子殿下の居室へ辿り着いた。
 待ち構えていたカレルは自ら椅子から立ち上がり、ミランを出迎えてみせた。
「よくぞ来た。お前に会うのを、私は心から楽しみにしていたぞ」
 城門からこの部屋までの距離を駆け戻った後だというのに、カレルは息が乱れた様子もなく平然としている。日頃の鍛錬の賜物だろう。
 唯一、白金色の髪だけは風に吹かれたように乱れていたが、ひざまずいたミランの目には映らなかったはずだ。
「カレル殿下、この度は拝顔の栄に浴し、心より光栄に存じております」
 頭を垂れるミランが、すらすらと挨拶の言葉を口にする。
 弟の早熟さにマリエは少々驚いたが、カレルはさして驚かなかったようだ。
「面を上げよ」
 鷹揚に命じると、ひざまずくミランの前に屈み込む。
 ミランも静かに顔を上げ、面前のカレルを真っ直ぐに見つめ返した。
「……堂々としたものだ。その歳にして既に肝は据わっておるようだな」
 カレルが感心した様子で呟く。
 それから真剣な面持ちのミランに、もう一度じっくり見入った。
「にしても、お前は姉とよく似ているな」
 そう口にした時、カレルは実に愉快そうな笑みを浮かべた。
「その眼差しの強さといい、柔和な顔立ちなのに表情ばかりもっともらしいところといい、さすがは姉弟だ」
 主の言葉をマリエは少しばかり恥ずかしく思ったが、それはミランも同じだったようだ。
「あっ……そ、そんなに似ておりますでしょうか……」
 先程までの落ち着きぶりはどこへやら、途端に頬を染めて動揺してみせる。
 それがおかしかったのか、カレルは声高らかに笑った。
「恥じ入る顔までそっくりだ! 血の繋がりというものは見事だな、マリエ」
「殿下。畏れながら、弟をあまりおからかいになられませんよう……」
 マリエが口を挟めば、カレルは心得たというように頷いた。
「そうだな。よく似た困り顔が二つ並ぶのも愉快なものだが」
「殿下」
「わかっておる。初手はこんなものでよいであろう」
 カレルは満ち足りた様子で椅子に腰かけると、再びミランに向かって声をかけた。
「ミラン、戻ったら家の者に伝えよ。私への拝謁が叶ったこと、そして私がお前を大層気に入ったことをな」
 するとミランははっとして、素早く頭を下げた。
「身に余るお言葉でございます、殿下」
 傍らで同じように頭を下げながら、マリエは密かに胸を撫で下ろしていた。
 主の優しさこそ信じてはいたが、初めて会う弟のことは何も知らない。ここまで立派に挨拶の言葉を述べられるとは全く思いもしなかった。母が手紙に記していた弟の優秀さは親の欲目などではなく、紛れもない真実だったようだ。
「お前の姉はこの上なく有能な、私にとって自慢の近侍だ」
 欲目というなら、カレルの今の賛辞の方がよほど欲目に近い。
「私はお前の姉の働きに幾度となく支えられ、救われてきた。お前も姉のようにありたいと思うのなら、それが遠き道程であることを心し、そしてそれだけの姉を持ったことを誇りに思うがよい」
 過分とも思える言葉に、今度はマリエの方が顔を赤らめた。もしかすれば弟に初めて会う姉の為に誉め言葉を少し上乗せしてくれたのかもしれないが、それにしても気恥ずかしくなるほどである。
 だがミランの方は目を輝かせ、むしろ嬉しそうな顔を見せた。
「はい、殿下。私も必ずや姉のような、立派な近侍になりとうございます」
「よい返事だ」
 カレルも嬉しそうに笑い返すと、ただ一人恥じ入るマリエに目をやり、言った。
「ではマリエ、本日はお前の有能な働きぶり、弟にも見せてやるがいい」
 それはマリエにとって全く無茶な注文に思えたが――ミランが黒い瞳を輝かせて姉を見やったので、謙遜じみたことも言えず従うより他なかった。
「はい、殿下。仰せの通りにいたします」

 ちょうど午後の茶の時間が近かった。
 マリエはじっと見守る弟の眼差しに戸惑いつつも、いつも通りに茶の支度を済ませた。本日の茶菓子はヤマブドウの砂糖漬けを乗せたパイで、さくさくと硬めの網掛けパイの中に濃紫に熟したヤマブドウの砂糖漬けがたっぷりと詰められている。マリエは手際よく茶を入れ、茶菓子を切り分け、全力疾走の後で腹を空かせたカレルに振る舞った。

「うむ、今日の茶菓子も実に美味い。よい出来栄えだ」
 カレルはいつものように、惜しみなく茶菓子の出来を誉めてくれた。
「光栄に存じます、殿下」
 弟の来訪に、マリエも少しばかり張り切ってみせたところはある。努力を認められ、マリエは思わずはにかんだ。
 ミランはそんな姉の一挙一動を熱心に観察していた。一瞬の表情の変化すら逃さぬ真剣さで見つめ続けていたが、次第にその視線がちらちらと卓上に、主にヤマブドウのパイに注がれるようになっていた。早熟かつ優秀とは言えやはり十歳、腹が空いてくれば目の前の茶菓子が気になりだすのも致し方のないことだ。
 そしてそんな少年の動向を見逃すカレルではなく、
「お前も腹が減っているのであろう。一切れ分けてやろうか」
 そう声をかけて、ミランを激しく動揺させていた。
「い、いえ、滅相もない……申し訳ございません、行儀の悪いことをいたしました」
「気にするでない。お前の姉は菓子作りにも長けておるからな、美味そうに見えて当然」
 まるで我が事のように、カレルはマリエ手製の茶菓子を誇ってみせる。
「しかも見た目以上の、極上の美味さときている。味わいたくなったであろう?」
「え……で、ですが……」
 ミランは困り果てた様子で俯いたが、微かに喉を鳴らす音をマリエも聞いた。
 するとカレルはいよいよ楽しげに畳みかける。
「今日のお前はまだ城勤めを始めたわけではなく、ただの客人に過ぎぬ。客人に菓子を振る舞うのはむしろ礼儀に適ったことではないか?」
 さしものミランもこれには答えを出しかねたようだ。やがて救いを求めるようにマリエを見上げてきた。
 そこでマリエは微笑み、弟に優しく語りかけた。
「殿下がよいと仰っているのです。お礼を申し上げて、お言葉に従いなさい」
 少し前ならば、弟がたとえ城勤めをしていなくとも許しがたいと思っていたことだろう。ほんのわずかの間に、マリエもいくばくかの寛容さを身につけていた。
 あるいは、主の気持ちを汲むのが上手くなったという方が正しいのかもしれない。
「ですが、ねえさま……」
 姉に薦められてもなお、ミランは困った顔をしていたが、
「もちろんこれは、母上には内緒です」
 マリエが唇の前に指を立てると、ミランはようやくほっとした様子でカレルの傍まで近づいた。
 カレルはマリエに命じ、ミランの為にとヤマブドウのパイを切り分けさせた。その際、できる限り大きく切れと言い添えることも忘れなかった。

 結果、ミランは皿からはみ出すほどの大きなパイにありつき、それを急ぐ様子でもぐもぐと食べ始めた。一口食べるごとに表情を輝かせ、口の周りを子供らしく汚しながら、いつしか夢中になって食べていた。
 大きな一切れが消えてしまうのもあっという間のことで、ミランは満足げに息をついた後、思い出したように表情を引き締めた。
「大変美味しゅうございました。ご厚意に感謝いたします、殿下」
「うむ」
 そのもっともらしい顔を見て、カレルは吹き出さないよう苦心していたようだ。
 マリエは弟の傍に屈み込み、その口元を黙って手巾で拭いてやった。ミランはまたしても赤面していたが、姉の行動には素直に、されるがままになっていた。
「どうだ、ミラン。お前の姉は確かによくできた姉であろう」
 カレルが問いかけると、ミランはおずおずと首肯した。
「はい。あの……仰る通りです、殿下」
「私の自慢だ。この世のどこを探しても、マリエほどの者はおらぬ」
 誉めちぎられると当のマリエは何やら居心地が悪くなる。
 普段から誉め言葉を惜しむ主ではないが、今日はミランの目を気にしてか、一層惜しみなく言葉をくれているようだ。お蔭でマリエは落ち着かず、訳もなく瞬きを繰り返したり、熱くなった頬に手を当てたりと忙しない。
 ミランは姉の狼狽をよそに、真面目な顔で応じた。
「私も、殿下にそう言っていただけるほどの近侍になりたいと存じます」
「無論だ。お前にもゆくゆくは私の支えとなってもらいたい」
 カレルはそう言って、弟と姉の顔とを見比べながら続けた。
「マリエはこの世に一人しかおらぬが、それはお前も同じこと。お前なりの立派な働き、これより期待しておるぞ」
「はい、殿下。お傍にお仕えできる日を心待ちにしております」
 曇りのない瞳を輝かせ、ミランは少年らしく微笑んだ。

 マリエは弟の横顔を見守った後、そっと主の表情を盗み見た。
 一瞬だけ目を合わせたカレルは、どこか意味ありげな、秘密を共有する者同士の笑みを浮かべてみせる。それでマリエは心を掻き乱され、どぎまぎしながら目を逸らす。
 弟にこの目合いを見咎められてはいないかと、更に落ち着かない気分になった。

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