種蒔く日々の移ろい(1)

 マリエが母からの手紙を読んだのは、昨日の晩のことだった。
 一日の勤めを終えて自室に戻ると、赤い封蝋で閉じられた手紙が届けられていた。封蝋に捺された印璽は確かにマリエの家のもので、手紙からは母が好んでいたベニバナソウの香りがほのかに漂っていた。
 マリエが城勤めを始めてから十年以上が過ぎたが、母から手紙が送られてきたのは随分と久し振りだった。家を出され、カレルの傍で近侍として働き始めたばかりの頃は何度か便りをくれていたが、それも最初の一年ほどのみの話だ。十年の間に母から貰った手紙は片手で数えるほどだけ、マリエの方も日々の忙しさにかまけてろくに連絡をしていなかった。
 そんな折に届いた手紙だ。マリエは懐かしさと胸騒ぎの両方を抱きながら、丁寧に封蝋を剥がした。

 手紙の内容は簡潔だった。
 娘によく似て生真面目で、王家に忠心篤い母親は、手紙の文面を美辞麗句で飾り立てるということを全くしない人だった。娘の息災を尋ねる文章はごく短く、そして本題の方も無駄のない、有無を言わさぬ調子で綴られていた。
 マリエの弟、ミランが先日十歳になったこと。
 ミランも真面目な子で大変物覚えがいいので、そろそろ城勤めを始めさせたいこと。
 そして、もうじき二十二になるマリエにはよい縁談を見繕うつもりでいるので、ミランに代わって実家へ戻り、身を固めて欲しいこと――母親の要望はつまりそういうことだった。
 ついては近いうちにミランの王子殿下へのお目通りの機会を設け、王子殿下に後任の近侍として気に入っていただけるよう口を利いて欲しいと添えられていた。その後しばらくはマリエの元で仕事を教わり、ミランが務めを引き継げる時が来たなら役目を交代するのがよい、とも。

「実に、あの母上らしい……」
 マリエはその手紙を読み終えた後、頬杖をつき、少しの間思案に暮れた。
 実のところ母からの要望に驚きはなかった。自分が娘に生まれた以上、いつかはこうして呼び戻されるのではないかと思っていたのだ。マリエの家は代々この国の王家に仕えており、単に城勤めをするだけではなく、王家の為に次代の担い手を生むという役割も決して疎かにはできない。
 だが十年の城勤めの間に――ほとんどはここ数ヶ月の短い間に、マリエを取り巻く状況と、マリエ自身の考え方はすっかり変わってしまっていた。当然ながら縁談を受ける気はなく、今はまだ城勤めを終えるつもりもない。何よりマリエの主が自分を手放すはずがないと、幸せな思いで確信している。
 しかし一方で、主の願い、そして自らの願いを叶えるならば、いつか城を去らなくてはならない。
 ここ数ヶ月の間に、他でもないカレルと誓い合ったことだ。生まれながらに身分の差がある二人にとって、欲しいものを何もかも手に入れ、欠けたることなき幸福を得る術はない。何かを貫き通すつもりなら、他の何かを諦めなくてはならない。マリエは近侍としての名誉ある務め、城勤めの慌ただしくも平穏な日々、深く想う人の傍らにいる幸い、そしてこれまでに築いてきた人生の全てを擲つつもりでいる。今はまだ母にも打ち明けていない話だが、いつかは告げに行かなくてはならない。
 そしてその時が来たら、カレルの傍には後任の近侍が必要だった。
 ならば母の言う通り、弟を城へ招く必要はあるのかもしれない。今すぐではないにせよ、何年かかけて彼に仕事を教え、彼が近侍として立派に務め上げられるまでになるまで見守る必要があるのかもしれない。近侍が変わることでカレルに不自由をさせてはならない。何よりもまず主の為に、先のことまで考えておかなくてはならない。
「ミラン……。わたくしの、弟……」
 次にマリエは目をつむり、ミランという名の弟の顔を思い浮かべようと試みた。だがいくら試してみても、恐らく小さいであろう少年の姿は何一つとして浮かんでは来なかった。
 当然だろう。あの家を出されてから、もう十年以上が過ぎていた。

 そういった思案を抱えたまま一夜を過ごせば、寝不足がよく表れた顔になる。
「どうした、マリエ。浮かぬ顔だな」
 翌朝、主の元へ食事を運んでいったマリエは、当然のように主に見咎められた。
「それに随分と眠そうだ。昨夜はあまり眠れなかったようだな」
 カレルの慧眼にひやりとしつつ、マリエは正直に答える。
「はい、少しだけ……」
 するとカレルは案ずるように近侍の顔を覗き込む。まず額に手を当ててきて、熱がないことを確かめたようだ。
「体調を崩したか」
「いえ、わたくしはすこぶる元気でございます」
 主との距離の近さに戸惑いつつ応じれば、カレルはいよいよ気遣わしげな顔をした。
「何ぞ気がかりなことでもあるのか」
 続いた問いには答えるのをためらう。
 縁談の件はともかくとして、弟のことはカレルの耳にも入れておかねばならない話だ。折を見て打ち明けたいと思っている。そしてその点だけは母の要望通り、近いうちにお目通りを叶えられたらとも考えている。
 だがその話は、今日のような日にすべきことではない。
「実はわたくしも、いささか緊張しておりまして」
 朝食の為の食器を卓上に並べながら、マリエは伏し目がちに答えた。
「緊張だと?」
「はい。本日のことで、つい気が逸ってしまうようでございます」
「なんだ、そういう理由であったか」
 途端にカレルは安堵したようだ。食卓の椅子を自ら引き、勢いよく腰を下ろしながら笑う。
「なぜお前が緊張する必要がある。お前の誕生日ではないのだぞ」
「お言葉ですが、今日の為に用意する品もいくつかございましたし」
「あの煩わしい賀宴の為にだな。全くご苦労であった」
「身に余るお言葉でございます」
 カレルの言葉は労い半分、ぼやき半分といった調子だったが、マリエは微笑んで礼を述べた。
「殿下にお気遣いいただき、わたくしも少し気が楽になりました」
 主の心優しさは寝不足の頭にも染み渡り、心地よい幸福感をもたらした。
 後にしなくてはならない打ち明け話にも、この主なら真剣に耳を傾けてくれることだろう。そう思えば不安はなかった。

 本日は、王子カレルの十九歳の誕生日だった。
 この日は祝日として定められ、国を挙げて祝福する決まりとなっている。城下町では祭りが催されると聞いているし、城では国の名士達を招いて華やかな晩餐会が開かれる手はずとなっていた。お蔭で今朝の城内はどこもかしこも慌ただしく、マリエもいささか気忙しさを感じているのは事実だった。
 マリエの母とて、この国において唯一の王位継承者である王子殿下の誕生日を知らないはずがない。にもかかわらず、なぜこんな時にこんな手紙を寄越したのだろう。昨夜マリエは訝しく思ったが、眠れぬ時を過ごすうち、ふと一つの推論が浮上してきた。
 恐らく母は、王子殿下の誕生日が間近であることを踏まえた上で、あえてこの時期に手紙を寄越したのではないだろうか。
 マリエに、家を出てからどれだけの年月が経ったかを知らせる為に。
 顔も知らない弟が、いつの間にやら城勤めできる年頃になっていた。そして自分は母親に、身を固めるよう促される歳になっていた。長年仕えてきた王子殿下は今日で十九になる。
 年月の流れる速さを、マリエは改めて実感していた。

「私は緊張というより、ただひたすら気が重い」
 十九歳のカレルは、自らの誕生日の賀宴を少々億劫だと思っているようだった。
「なぜ宴というものには舞踏がつきものなのだろうな」
 マリエが茶を入れる手つきを眺めつつ、物憂げに溜息をついてみせる。
「さあ……なぜでございましょうか。喜びを全身で表しているのかもしれません」
「それなら踊りでなくともよいではないか。私は宴でする舞踏というやつが嫌いだ」
 その言葉通り、これまでの宴の席においてもカレルはとかく舞踏を嫌がった。
 マリエの目から見れば決して拙劣だというわけではなく、むしろ生来の敏捷さを活かせば誰よりも華麗に踊れるはずなのだが、当の本人が毛嫌いしているのだからどうにもならない。城で舞踏会が開かれる度、並みいる美しい令嬢達の熱い視線を集めつつ、誰を誘うこともなくひたすら飲み食いだけして、令嬢の父親達がこっそりと『どうか一曲お相手を』と乞いに来て初めて重い腰を上げるのがこれまでのカレルだった。
「思うに、舞踏を初めに思いついた男は、単に女の手を握る口実が欲しかっただけであろう」
 遂には舞踏の起源にまで不平を唱え始めた。
「全くそんなくだらぬ口実で厄介事を思いつかれては、後世を生きる者に迷惑ではないか」
 訳知り顔で語る主に、マリエも思わずくすりと笑う。
「その口実が今日の文化になり得たとすれば、偉大なことでございますね」
「傍迷惑な文化だがな。どうせ披露するなら違うものがよいのだが」
「では殿下なら、一体何をご披露なさりたいのでしょう」
「そうだな……乗馬、剣技、川泳ぎに木登りなどはどうだ」
 果たしてそれらをどのような会場で披露されるおつもりなのか。マリエは微笑ましい思いで主の話に耳を傾けた。
 決して口にはできない本心では、マリエもカレルに踊って欲しいとは思わない。カレルが誰か他の婦人の手を取り、華やかな賀宴の場で楽しげに踊る姿を、自分がどんな思いで見つめることになるか想像もつかないからだ。
 これまでには過ぎりもしなかった思いだった。身分の違う相手に想いを寄せるうち、その手が自分ではない婦人に触れることを憂鬱だと感じるようになっていた。
 無論、マリエの口からそうと告げるわけにはいかない。
 カレルならば素直に受け取り、マリエの望み通りふるまうに決まっているからだ。
「美味しいケーキが並ぶ宴、というのもよろしいかもしれませんね」
 茶を入れ終えたマリエが口を開くと、カレルも精悍さを増した笑顔で応じる。
「それはよい。お前が焼いたものであれば最高の宴になるであろう」
「光栄に存じます」
 そこでマリエは、用意しておいたクルミのケーキを取り出して食卓へ載せ、
「おめでとうございます、殿下。ささやかながら、わたくしからのお祝いでございます」
 カレルは優しく目を細めて、食卓の脇に立つマリエを見上げる。
「今年も、お前が一番に私を祝ってくれたな」
「近侍としての特権であると……そう存じております」
 これから始まる今日、大勢の人々がこのめでたき日を祝うことだろう。
 カレルが会う全ての人が、十九歳を祝う言葉をかけてくることだろう。
 だがその誰よりも早く、マリエは祝福の言葉をカレルに告げることができる。それは常に付き従う近侍にこそ許される、甘美な特権だとマリエは思う。
「お前は私を喜ばせるのが上手いな」
 そう言うなりカレルは腰を浮かせ、傍らのマリエを抱き寄せて勢いよく口づけた。
「あっ」
 ぶつかるような口づけに思わず声を上げれば、唇を離したカレルが会心の笑みを浮かべる。
「お前のお蔭で今日は素晴らしい日になった。この後何が起ころうともな」
「そ、それは……よいことでございました……」
 マリエは内心激しくうろたえながら、震える手でクルミのケーキを切り分けた。
 手紙のことが再び脳裏をかすめたが、やはり日を改めるべきだと思う。せっかく主がいい気分でいてくれるのを、わざわざ小難しい話で台無しにすることもあるまい。

 今日という日を、主が思う通りの素晴らしい日にしなくてはならない。
 それもまた、近侍として果たすべき務めの一つであるだろう。

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