愛を食む人々(7)

 マリエが目を覚ました時、寝室はまだ薄暗かった。
 ランタンの炎は寝入る前に消していた。そして窓の鎧戸は夜明けの微かな光を遮り、窓辺だけをうすぼんやりと照らしているに過ぎなかった。
 天蓋から薄絹が下りた寝台を照らす明かりは何もない。それでも瞼を開けたマリエの目に、カレルの白金色の髪が目映く飛び込んできた。光差すような美しい前髪の下、普段は凛々しいカレルの寝顔は実に穏やかで、満ち足りた様子に映る。
 思わず目を細めたマリエの胸にも、改めて至上の幸福感が満ちてきた。

 思えば、カレルの寝顔を見たのも久方ぶりのことだった。
 二人が初めて共寝した夜、カレルは一度も眠ろうとせず、マリエがうとうとしている様子すら楽しむように眺めていた。その時は昂りから寝つけないのだろうと思ったマリエだが、それ以降もカレルはマリエを寝室に招く度、ほとんど眠らない夜を過ごしていた。時々は気を抜いたように舟を漕いでしまっても、すぐに眠気を振り払い、短い夜を惜しむようにマリエの身体を抱き寄せた。いっそ頑ななまでの情熱ぶりもマリエの知る主らしくはあるのだが、共寝の度に眠らないのでは身が持つかと心配にもなる。
 だが今朝はしっかりと寝入っているようだ。毛布の中でマリエが身じろぎをしても、瞼が動く気配すらない。
 昨夜の会食で疲れていたのか。あるいはそれが和やかに終わり、安堵したのだろう。

 白金色の髪は暗がりの中でも淡い光沢を放ち、金糸銀糸の豪奢さを思わせた。
 毛先が少し跳ねているように見えたので、マリエは毛布の中から手を伸ばし、指先でその髪を梳く。普段はたとえ寝室に招かれてもそんな真似はしないのだが、カレルの寝顔を前にして、マリエの気も緩んだのかもしれない。
「殿下……」
 囁くように呼びかけつつ、さらさらの髪に指を通し、その感触を楽しむ。
 それから眠る頬に触れてみた。幼い頃の柔らかさはとうになく、今は張りのある若者らしい頬をしている。夜の間に少し冷えたようで、マリエはそれを温めるように手を添えていた。
 いつの間に、これほど凛々しくなられたのだろう。
 ずっと傍にいたはずのマリエも、その成長ぶりは目覚ましいものに見えていた。ついこの間までは手のかかるやんちゃな王子殿下だった。ほんの少し前までは、懸想に囚われ思い煩う年頃の少年だった。そして今は、日に日に凛々しくなっていく立派な青年に見える。少年時代の端整さは変わらず、あの頃の繊細な面影だけを脱ぎ捨てていくような成長に、マリエもしばしば見惚れている。
「……素敵な方」
 そう呟いてから、主を品定めするのは不敬ではないかとマリエは恥じた。

 無論、寝室にいるのは二人きり。そして当のカレルも眠っているとなれば咎め立てする者もいないのだが、マリエはカレルの頬から手を離し、もぞもぞと毛布に潜り込む。
 するとその毛布の中で、マリエの身体が温かい腕に包み込まれた。
「きゃっ」
「私が寝ている間に何をしている」
 マリエを抱きすくめたカレルが、笑いを堪える声で囁いてくる。
 それで恐る恐る面を上げれば、カレルの青い瞳がマリエを見つめていた。先程までは確かに寝入っていたはずだが、寝ぼけ眼というわけでもなく、しっかりした眼で見つめてくる。その口元は引き締めきれない笑みに歪んでいた。
「お、起きていらしたのですか」
 どぎまぎするマリエに、カレルはもっともらしく応じる。
「あれだけされれば目も覚める」
「申し訳ございません、わたくし、不敬な真似を――」
「何をもって不敬とするかは難しいところだな、マリエ」
 カレルはマリエの狼狽ぶりを楽しんでいるのか、そこでくつくつと喉を鳴らした。
「私の前で服を脱ぐ者がいたらそれは無礼だが、お前に限ってはそうではあるまい?」
「あ……あの、お答えしにくいご質問です……」
「あるいは私の背中に爪痕をつけても、お前なら許される。違うか」
「ですから、その……」
 マリエが答えに窮すると、カレルはいよいよ朗らかに笑ってみせる。
「だから気にするな。むしろお前は、普段からもっと私を誉めるべきだ」
 どうやら例の呟きは、寝入っていたはずのカレルの耳にしっかり届いていたらしい。
 マリエはそれでも恐縮していたが、毛布の中で抱き締められれば心地よい体温に心がとろけていくのがわかる。カレルの胸に頬を押しつけつつ、おずおずと囁いた。
「殿下は、素敵な方でございます」
「そうであろう。お前に釣り合うよう成長したのだからな」
「いつまでもお慕いしております。これから、何年先までも」
「私もだ、マリエ。いつまでも私の心はお前のものだ」
 心からの想いを打ち明ければ、それを越えるような言葉をくれる。マリエが思わずはにかめば、カレルはそれが嬉しいというように一層顔をほころばせる。
「お蔭で今朝はよい目覚めであった。毎朝こうでもよいぞ、マリエ」
 しかしそれではマリエの方が朝からのぼせるかもしれない。
 あえて返事をせずにいると、主はマリエに脚を絡めながら続けた。
「それに昨夜は課題が一つ片づいた。ますますよい気分だ」
「昨夜の会食のことでございますね」
「ああ。あんなに上機嫌な父上を見たのは初めてだった」
 カレルはそう呟いて、マリエを抱き締めたまましばし黙考に耽った。
 物思いに沈むその顔を、マリエも同じように黙って見守る。するとその視線に気づいたカレルが、照れたように苦笑した。
「少し前まで、私にとっての父上はよき王だった」
 マリエの黒い髪を優しく撫でながら、静かに語った。
「王ではあったが、父ではなかった」
 その言葉にマリエが瞠目すると、カレルはその身体をきつく抱き締める。
「そう言えば語弊があるか。王として敬愛し、次代を担うものとしてその背中を見つめてきた。だがそれゆえに、父上を私に近しい者として見るのは難しかった。父上が悪いわけではないのだが、よい手本であり過ぎたのかもしれぬ」
 十年以上仕えてきたマリエでさえ、それは初めて聞く胸中の吐露だった。
「ちょうど傍には、よくないことを教える手本がいたからな」
 そこでカレルは少し笑った。
「彼奴を父代わりだと思ったことはないが……兄のようには思っていたな。まあ、随分と歳の離れた兄にはなるが」
 マリエにも、それはよくわかる。
 カレルが新しい知識――こと木登りや川泳ぎや剣術といった、王子殿下の御身を脅かしかねない遊びを覚えた時、その発端には必ずアロイスがいた。幼いカレルに幽霊の話を吹き込んだ時は、温厚なマリエも反感を覚えたほどだ。もっともそんなアロイスの存在が、幼くして親元から離されたカレルの支えであったことも疑いようがない。
 普段なら王子の軽口の後は近衛隊長の咳払いが聞こえてくるものだが、さすがに閨房の語らいまでは漏れ聞こえていないようだ。静かな寝室に、しばらく二人のくすくす笑いだけが響いていた。
「何にせよ、昨夜は父上の父らしさをとくと見せてもらった」
 カレルは尚も笑いながら振り返る。
「あんなに緊張する父上も初めてなら、楽しそうにする父上も初めてだった」
「緊張……? 陛下がですか?」
「ああ。気づかなかったか?」
 それでマリエも昨夜のやり取りを顧みようとしたが、緊張というならマリエの方がよほど緊張していた上、慣れない酒も飲んでいた。国王陛下は温厚かつ寛容な人物だったとだけ記憶されていて、緊張していたかどうかなど判別のしようもない。ただ、あれほどの偉大な王ですら慣れぬ客人に緊張するのだとすれば、マリエも実に不敬な親しみを覚えた。
「つくづく、よい夜であったな」
 カレルがしみじみと、マリエの耳に囁いてくる。
 この上なく満ち足りたその様子に、昨夜の安眠の理由がよくよくわかったマリエだった。

 後日、マリエは約束通りにクルミのケーキを焼き、国王の元へ届けた。
 執務中の国王に代わり、それを受け取ったのは王の近侍ヘルベルトだ。国王の居住区画に通じる静かな回廊にて、二人は再び顔を合わせた。
「済まないが、検分をするのが決まりなのでな」
 一言詫びた後、皿の覆いを取り払ってケーキの検分を始める。
 マリエが心を込めて焼き上げたケーキは会心の出来で、しっとりとした生地は気泡もなくなめらかに仕上がっていた。普段カレルの為に焼く時は香りづけの酒を控えめにしていたが、そのカレルの助言により、今回は酒を効かせた糖蜜をたっぷり染み込ませてある。
 ヘルベルトはケーキを眺め、その香りを嗅いでから目を細めた。
「さすがはハナの娘だ。上手に焼き上げるものだな」
「ありがとうございます」
 マリエが頭を下げると、ヘルベルトはケーキの覆いを元に戻す。
「これも決まりだから言っておくが、私も一切れ味見をさせてもらうからな」
「承知しております、よろしくお願いいたします」
「ああ。楽しみにしている」
 およそ毒見役を務めるとは思えぬ微笑を浮かべ、ヘルベルトはマリエを見下ろす。
 国王と共に人生を歩んできた王の近侍は、従姪をどこか感慨深げに眺めていた。それはあの夜の国王フランツの表情ともよく似ていた。
「お前を、ああいう形で迎える日が来るとは思いもしなかった」
 そのヘルベルトがそう言って、マリエは気恥ずかしさに瞬きを繰り返した。
「わたくしも陛下の居住区画へ馳せ参じるのは、大叔父様の役目を引き継ぐ時だと思っておりました」
「それがいつああいう形に成り代わったのか、一度じっくり尋ねてみたいものだな」
 大叔父の冷やかすような物言いが、マリエにとっては新鮮だった。
 思えば、顔を合わせてまともに話をしたこともない相手だ。彼がどんな思いで王の近侍を務めているのか、その背中を見つめるマリエやミランをどう捉えているのか、知るよしもなかった。
 この先の未来で、いつか、じっくり言葉を交わす機会が訪れるだろうか。
 今はその暇もなく、ヘルベルトはただ慈しみを込めてマリエを見つめている。
「これだけは覚えておくといい。お前がどこへ行こうと、何になろうと、我が一族の血を引くことに変わりはない」
 そうして穏やかに続ける。
「私も、お前の幸いを願っている。だから必ず幸せになれ」
 孤独ではない。
 一人ではない。
 その思いを、マリエはこの時改めて噛み締めていた。
「はい、大叔父様」
 深く頷き、生来の真面目さで言い添える。
「一族の名に恥じぬよう、胸を張って生きて参ります」
 するとヘルベルトはおかしそうに吹き出して、
「そういうところもよく似ているな、ハナに」
 それからケーキの大皿を手に踵を返し、きびきびと数歩進んだところで足を止める。何か思い出したように、見送るマリエを振り返った。
「ときにマリエ。少し先の未来において、陛下は私ではない側仕えをご所望らしい」
「……え?」
 唐突な言葉にマリエは戸惑ったが、ヘルベルトはむしろ愉快そうに肩を竦める。
「我が国の為に身命をなげうってこられた陛下だ。私はせめて未来においては、全て陛下のお望み通りにと思っている」
 それはつまり――。
 マリエもカレルもまだ知らない、『お芝居の結末』を語る未来、なのだろうか。
 はっとするマリエに、ヘルベルトは言う。
「だからもし将来、何かで人手が必要となったら、私を呼ぶといい」
 少しばかり照れながら、しかし冗談でもなく語を継いだ。
「産後は何かと人手がいるものだろう。必要になったら声をかけてくれ」
 マリエは驚きに立ち竦んだ。
 お芝居の幸いな結末を望むマリエも、自らの未来はまだ見通せていない。もしも全てが願う通りに叶うなら――そうあって欲しいと望む未来では、確かに彼の手を必要とすることにもなるだろう。
 だから、マリエはこう答えた。
「よろしくお願いいたします、大叔父様」
 全てが幸いに、いい方に叶うことを願い、希望を込めて頷いた。
「ああ」
 ヘルベルトも大きく頷き返し、それから再びマリエに背を向けると、王のいる居住区画へと消えていく。

 マリエはカレルが待つ居室へ、たった一人で歩き始める。
 白金色の髪の王子殿下は、クルミのケーキをとても羨ましがっていた。あとで私の分も焼いて欲しいとねだられて、仰せの通りにと答えていた。だからまず戻ったら、心を込めてクルミのケーキを焼くことにしよう。
 それを味わうカレルの顔を見るのが、今から楽しみで仕方がない。