愛を食む人々(6)

 フランツはゴブレットの酒で喉を潤した後、こう切り出した。
「そなたの覚悟はよくわかった」
 優しく慈しむ眼差しがマリエを捉える。
 思いつく限りの言葉を尽くしたマリエは、軽い疲労に頬を紅潮させていた。それでも国王が口を開いたので居住まいを正す。
「そこまで申すのであれば、もはや私が留め立てする意味はあるまい」
 それからカレルに向き直り、父親らしい口調で続ける。
「お前にとって、最もふさわしい娘を選んだな、カレル」
「謙遜はいたしません。父上の仰る通りだと私も思います」
 カレルが自信たっぷりに頷いた。
 普段なら畏れ多さでいても立ってもいられなくなるマリエだが、今宵ばかりはそれが誇らしく思えて仕方がなかった。少しだけ恥じ入りつつも、決して俯かずに話を聞いていた。
「ならば、私から言えることは一つだ」
 フランツはそんなマリエに微笑みかけると、
「何が起きても、決して諦めるな」
 言葉の一つ一つを大切にするように、ゆっくりと続けた。
「恐らく、二人でいる時はどんな希望も信じていられるだろう。いかほどの覚悟で私の前に座っているか、その覚悟をするまでにいかほどの想いが育まれてきたか……目を見ればわかる。互いに深く想い合っていれば、どんな困難でも乗り越えられるものだ」

 マリエにはその意味がわかる。
 カレルが前に言ってくれた、『幸せにする』という約束を信じている。決してたやすいことではないだろうし、未来においては叶わぬ夢でしかないかもしれない。だが今のマリエはカレルの言葉を、約束を心から信じている。カレルが口にしたことは、いつか必ず叶えられるのではないか――そう思わせるような明るさ、前向きさにマリエは惹かれてきた。
 そしてその想いがあるからこそ、マリエは今、ここにいる。
 覚悟と決意を胸に秘め、先達の言葉を聞いている。

「だからこそ、孤独の中で諦めてはならぬ」
 フランツも、万感の思いを込めて告げた。
「二人が離れて過ごす時、時にその心を絶望が巣食うこともあるだろう。それは人の心を沈ませ、その目を曇らせる。だからこそ、そんな時こそ諦めてはならぬ」
 それはもしかすれば、フランツ自身がかつて体験した心の動きなのかもしれない。
 その頭に冠を戴く国王でさえ、絶望に掬われ、心沈み、その目を曇らせたことがあったのかもしれない。あるいはそうなりかけて、しかし諦めずに踏み止まったのかもしれない。
「幸いにして、そなたは一人きりではないようだ」
 フランツはそこで優しく微笑んだ。
「ならばその心はたやすく折れるものではなかろう。そなたを想い、案じてくれる人々がいる限り、そこに絶望のつけ入る隙はあるまい。そなたもそんな人々を大切にするがよい」
 まさにその通りだとマリエは思う。
 万人に受け入れられるはずのない決断を、肯定してくれた人がいる。受け入れはしないまでも、黙って見送ってくれた人がいる。マリエはそういう人たちを必要以上に案じさせないよう、自分が幸せであることを伝えていかなくてはならない。
 そしていつの日にか、自分なりの返礼ができたらいい。そんなことも思う。
「賜りましたお言葉、心に留めおきます」
 マリエは深々と首肯した。
 それからフランツの琥珀色の瞳を見つめ返し、語を継いだ。
「この先何が起きようとも、決して諦めぬことをお誓いいたします。もし挫けそうになった時は、陛下のお言葉を思い起こし、決して忘れぬように生きて参りたいと存じます」
「頼もしい答えだ」
 フランツもまた頷いた。
 その後で、今が食事の最中であることを急に思い出したようだ。表情を崩して言い添える。
「話が長くなってしまったな。食事の邪魔をしてしまったようで済まぬことをした」
「父上はいつもそうです。お食事の最中に大切な話をなさる」
 カレルが責めるでもなく笑ってみせれば、フランツも照れたように肩を竦めた。
「全くその通りだ。有意義な話はできたが、食事が残ればヘルベルトが気を悪くする」
 国王から顔色を窺うような視線を向けられ、ヘルベルトは黙って微笑む。
 その微笑から二人の間に長年培われてきた信頼が垣間見え、マリエは温かい気持ちになった。
 フランツもまた、決して孤独ではなかったのだろう。
「さあ、あとは食事を楽しむことにしよう」
 促すフランツの言葉を聞き、カレルとマリエは笑い合ってから、改めて食事を味わうことにした。
 その頃にはマリエの緊張もほぐれ、初めのうちはわからなかった食事の味がわかるようにもなっていた。大叔父が心を込めた川魚料理はどれも絶品で、この夜の思い出として、マリエの心に深く刻み込まれた。

 もっとも、ほぐれたとは言え緊張が全て消え去ったわけではなかった。
 会食がつつがなく終了し、王の居住区画を後にしたカレルとマリエは、そのままカレルの居室へと戻った。
 そして互いにほっと一息ついたところで、マリエはなぜか頭がくらくらしてきた。
「マリエ、どうした?」
 いち早く異変を察したカレルの問いにも答えられず、思わずその場に屈み込む。全身が熱を持ったようにかっと火照り、吐く息も妙に熱く感じられた。
「もしかすると、お酒が回ったしまったのかもしれません……」
「今頃か!」
 カレルが驚くのも無理はない。マリエが今宵飲んだ酒は食前のリンゴ酒だけだ。それもゴブレットにたった一杯飲んだだけだった。
 その後でマリエは国王フランツに自らの胸中を話し、彼の言葉には真面目に耳を傾けた。ヘルベルトが拵えた食事に舌鼓を打ち、食後にはお茶までごちそうになったのだった。その間、マリエは酔いを自覚することさえなかった。
 だが一段落ついて、見慣れたカレルの居室に戻ってきた途端、解けた緊張がマリエの身体に酒を行き渡らせたらしい。一度屈み込んだら立ち上がれなくなってしまった。
「ともかく、一旦座れ」
 カレルはそんなマリエを優しく助け起こすと、ひとまず椅子に座らせてくれた。
 その上、飲むようにと水まで持ってきてくれたので、マリエは恐縮しながらそれを飲む。冷たい水が喉を駆け下りていくと、気分がいくらか落ち着いた。
「確かに、酔っ払いの目をしておるな」
 屈んだカレルが、マリエの目を覗き込み苦笑する。
 マリエは恥じ入りつつ詫びた。
「申し訳ございません、殿下」
「なぜ謝る? 酔いも忘れるほど緊張していたということであろう」
 それは事実その通りなのだが、リンゴ酒たった一杯で立ち上がれないほど酩酊するというのも情けない話だ。
「こんなによく効くものだとは存じませんでした……」
 マリエが実感を込めて零せば、カレルはあっさりと笑い飛ばした。
「お前が酒に弱いのか、それとも飲み慣れておらぬからか。何にせよあれはそこまで強くない酒だぞ」
「何分、お酒をいただいたのも初めてでございましたから」
「それで必要以上に効いたというわけか」
「ええ、恐らくは……」
 マリエは嘆息し、火照る頬に手を当てる。
「しかしながら、お酒のお蔭で雄弁になれたとも言えるのかもしれません」
 これまで酒そのものにいい印象を持てなかったマリエだが、今宵はその力が有用に働いたのだろう。嘘偽りなき本心とは言え、素面であれだけの言葉を、それも国王陛下その人に告げられたとは自分でも驚きだ。とすれば、緊張のせいで酔わなかったというより、自らの酩酊ぶりに気づけなかったという方が正しいのかもしれない。
「酒の力だけではあるまい。今宵の振る舞い、酔っ払いのものとはだれも思わぬ」
 カレルはマリエを大いに賞賛してくれた。
「父上の前でよくぞ言ってくれたな、マリエ。お前の堂々とした態度は実に美しかった」
「過分なお言葉です、殿下」
 頬が一層熱くなるのがわかり、マリエは思わず俯いた。
 そんなマリエを労うように、カレルがそっと肩を撫でてくる。
「しかし、酒の飲み方はもっと学んだ方がよいな。次の機会には私が教えてやろう」
「殿下はお酒に精通していらっしゃったのですか? 一体、いつから――」
「私はもう十九だぞ。子供扱いするでない」
 一笑に付した後、もう子供ではない王子の顔にふと懐かしげな影が差した。
「先程のお前の様子、芝居を見に行った時のことを思い出したぞ」
「そういえば……あの時も、こんなふうにくずおれたのでしたね」
 体調を崩したのと酒に酔ったのでは全く状況が異なるものの、マリエもあの日のことを懐かしく振り返っていた。二人にとってはほろ苦い記憶だが、決して忘れることのできない出来事でもある。

 あれから長い時が過ぎた。
 マリエは今、あの頃には想像もつかなかった未来にいる。
 そして、あの頃は知り得なかった幸福を手にしていた。

「あの日のお芝居は、一体どんな結末を迎えたのでしょうか」
 在りし日に思いを馳せつつ、マリエは共に芝居を観た主に問いかける。
 するとカレルは椅子に座るマリエの肩を優しく抱いた。そして同じように静かな声で応じた。
「その結末は、恐らく遠くない未来で明らかになるであろう」
 国王によく似たその声が、確信したように予言を紡ぐ。
「父上のお言葉通りだ。諦めなかった未来がやってくる」
 それを聞いたマリエは、思わずカレルの顔を見上げた。
 王子殿下の表情は、口調の通り自信に満ち溢れている。何かを知っているのかもしれないし、知り得ぬことを推測のみで確信できているのかもしれない。
 ただ、誰かの幸福を信じて疑わぬ顔には違いなかった。
「その結末を、わたくしも伺うことができるでしょうか」
 マリエが尋ねると、カレルは何でもないことのように、ごく当たり前の顔で頷いた。
「無論だ。共に見届けることにしよう」
 どうやらお芝居の結末は、カレルとマリエの未来の先に存在しているらしい。それが幸いなものであればいいと、マリエはまだ顔も知らぬ婦人の為にも、強く願わずにはいられなかった。
 祈りを込めて、マリエはそっとカレルにもたれかかった。
 すぐ傍にある温もりに身を預けるのが、今宵は一段と心地よい。
「どうした? まだ酔っておるのか」
 カレルが楽しげに笑うので、マリエは一瞬だけためらった後、心の赴くままに応じた。
「そのようです。ですからもう少しだけ、お傍に……」
「遠慮はするな。存分に甘えるがよい」
 優しい声で許したカレルは、その後で幸せそうに呟いた。
「酒の力とはまさに偉大だな、マリエ」

 もしかすれば、明日の朝を迎える頃には、マリエも違う感想を抱いているかもしれない。
 自分らしからぬ振る舞いを思い起こし、やはり酒など勧められても飲むべきではなかったと、慌てふためいているかもしれない。
 だが今宵のうちは酔いに身を任せるのも、そんな自分を支え、抱き締めてくれる人がいることも、マリエは幸せでたまらないのだった。