愛を食む人々(5)

 晩餐の場として通された部屋は、応接間の奥にあった。
 室内はマリエが想像していたよりも狭く、ランタンの明かり一つで光が行き届くほどだ。その狭さゆえ、近衛隊長は扉の前での警護を余儀なくされた。今頃はこれも職務の一環と聞き耳を立てていることだろう。
 部屋の中央には部屋の広さに見合うだけの円卓が置かれ、椅子が四脚収められている。卓上には食事の支度がすっかり整っており、それについてフランツはこう言った。
「ヘルベルトが腕によりをかけて拵えたものだ。口に合うといいが」
 マリエはと言えば、この期に及んでもてなされるという事態への心構えができていなかった。一人密かにまごまごしていれば、見かねたのかカレルが耳元で囁く。
「案ずるな。もしお前がナイフを落としても、私が気づかれぬよう拾ってやる」
 主のおどけた口調にくすりとしつつ、マリエは深呼吸をしてから応じる。
「よろしくお願いいたします、殿下」
 そうこうしているうちにヘルベルトがマリエの為に椅子を引き、座るようにと目で示した。
「ありがとうございます」
 マリエが従い、腰を下ろすと、生真面目な王の近侍はやはり目で頷く。
 今宵の会食についてどんな思いを抱いているのか、その表情からは何も窺えなかった。

 憧れていた大叔父の仕事ぶりは実に的確だった。
 ヘルベルトは席に着いた三人の為にてきぱきと給仕をしたが、その所作の美しさはマリエが目を瞠るほどだ。三十年の経験に裏打ちされた給仕は何一つとして無駄な動きがない。
 そうしてマリエが見惚れている間に食事の支度は整い、ゴブレットに食前酒が注がれる。漂う香りから林檎酒だろうと思われたが、マリエはこれまで味見でしか酒を飲んだことがない。
「まずは乾杯と行こうか」
 フランツがゴブレットを掲げる。
 その後にカレルが続くのを横目で見つつ、マリエも控えめにゴブレットを持ち上げた。
 初めてきちんと味わった林檎酒は、不思議な味がした。リンゴを摩り下ろしたものともまた違う控えめな甘みと、リンゴそのものの芳醇な香りがある。ただ一口目でかっと頬が熱くなったので、あまり飲まないでおこうとマリエは思う。
 今宵の食事は川魚が中心だった。クルミの木で燻製にしたもの、野菜と共に酢漬けにしたもの、大皿料理にも新鮮な川魚の煮込みが出され、これにはカレルが驚いていた。
「父上、本日は魚ばかりですね」
「お前がこの間食べたいと言っていたではないか」
 フランツがそれに応じて曰く、
「だから今宵はヘルベルトに川魚を用意させた。献立も全て考えてくれたのだ」
 傍らに立つヘルベルトが無言でお辞儀をする。
 どうやらカレルは先日、川魚を食べ逃したことを余程引きずっていたらしい。招かれた会食の席で、招いた当のフランツに話すくらいだから余程だったのだろう。マリエは内心慌てたが、カレルはけろりとしたものだ。
「よく覚えておいででしたね、父上」
「お前と話したことは何もかも覚えている。大切な時間だからな」
 フランツは髯のある顔を照れくさそうにほころばせた。
 王としてその威光を翳らせることなく国を治めるフランツの、そんな表情をマリエは見たことがなかった。神々しいまでの威厳は影を潜め、年頃の息子を持つ父親らしい顔をしている。案外、父子二人でいる時はこんな顔をすることも多いのかもしれない。
 一方で、カレルはいつもとさして変わりない。マリエが知る素顔をそのまま父に向け、屈託なく笑っている。
「さすが父上は記憶力がよろしい。では私が先日お話ししたことも、全て覚えておいでですね?」
「無論だ」
 頷いたフランツが、ちらりとマリエに目を向けた。
 国王から注がれる温かな眼差しに、しかしマリエは当然ながら緊張した。思わず姿勢を正せば、フランツは瞳を細める。
「緊張しておるのか、マリエ。どうか楽にして欲しい」
 その瞳は琥珀色で、髪は光の加減で明るい茶色にも、暗い金色にも見えた。髯をたくわえた威厳ある顔立ちも含めて、カレルにはあまり似ていない。
 だが声音はカレルによく似ていて、優しい気遣いの声が耳に心地よかった。
「お心遣いを嬉しく存じます、陛下」
 マリエが震える声で応じれば、フランツは改めて微笑む。
「ヘルベルトの料理は口に合うかな。カレルの話では、そなたの料理の腕もひけを取らないとのことだが」
「え、ええ。とても美味しゅうございます」
 緊張のせいでそれほど食は進んでいなかったが、大叔父の料理は確かに絶品だった。どことなく、マリエの母が作る料理――ひいてはマリエの料理の味つけにも似ている。
「マリエは菓子作りも上手いのです。特にクルミのケーキは、もはや芸術品の域に達しています」
 ここでもカレルは堂々と惚気てみせて、緊張の中で作法を守ろうと必死のマリエを慌てさせた。
「ほう、芸術品か」
 フランツもすかさず興味を示し、
「それは是非食してみたいものだ。今度、届けてはくれぬか」
 と言いつつ、ヘルベルトの顔色を窺う。
 王の近侍は片眉を上げ、静かに口を開いた。
「畏れながら、陛下。私がマリエから作り方を教わるというのではいけませんか」
「せっかくだから彼女の手製のものがよい。マリエはカレルの近侍だぞ、構わぬだろう」
 それでヘルベルトは苦笑を押し隠すように唇を結び、説き伏せたと見るやフランツはマリエに向き直る。
「頼めるか、マリエ」
「はい。光栄に存じます」
 国王に頼まれて、よもや断れる者がこの国にいるだろうか。とは言え王の近侍への申し訳なさもあり、マリエは答えてからヘルベルトを盗み見た。
 大叔父は従姪の視線には応えず、粛々と給仕を続けている。

 この国では、王族の食事は各々の近侍が作るものと定められている。
 それは暗殺を防ぐという観点からでもあるが、食事における健康管理も含めて、近侍は王族の命を預かる務めであると言ってもいい。
 マリエとヘルベルトは仕える人こそ違うものの、その使命は同じだ。
 ならばマリエが作るケーキは、少なくとも王の前に出して問題はないはずだった。

 だが職務倫理はともかくとして、国王に食べさせるケーキともなると重圧も相当のものになる。
 無論、カレルの為にいつも心を込めて、日々最高の出来を心がけて焼いてはいる。いるのだが、マリエの主はたとえケーキを焦がそうと文句も言わずぺろりと食べてくれる寛容な人物だ。国王に捧げる品ならそうはいかない。まず焦がした時点で持ってはいけないし、わずかな瑕疵でもヘルベルトに撥ねられてしまうことだろう。
「マリエのケーキなら、父上もきっと虜になるはずです」
 カレルは相変わらず屈託なく、その虜ぶりを国王の前でも曝け出している。
 恥じ入りつつも緊張の解けないマリエに笑いかけ、
「自信を持て、マリエ。あのクルミのケーキは食べた者の心をことごとく蕩かしてきたではないか」
 その言葉にマリエも思わずはにかんだ。
「殿下……ありがとうございます」
 そうして自然と目を合わせた二人を、フランツは温かく、どこか懐かしそうに見ている。
「十年、だったな」
 やがて穏やかに呟いて、マリエとカレルを同時に振り向かせた。
「カレルの傍らで十年、よく支え続けてくれた」
 フランツは声にも感謝を滲ませて続ける。
「私は王として生きてきたが、父としては不足だらけだ。そなたの愛がカレルを支え、育ててくれたのだと思う。そなたが傍にいてくれて本当によかった」

 その言葉は本来ならば至極光栄なもののはずだった。
 城に上がってから十年、マリエの過ごしてきた年月は全てがカレルと共にあった。苦悩も、研鑽も、幸福も、いとおしさも――全てがカレルの為にあり、そしてカレルによって生じたものだった。それが国王に認められたというのなら、これ以上の喜びはない。
 だがマリエはもうわかっている。
 それは自分だけに限った話ではなく、カレルもまた同じ情動をマリエに対し、抱いていたことを。

 だから言った。
「畏れながら申し上げます、陛下」
 マリエはおずおずと、しかし黙ってはいられない衝動に駆られて言った。
「わたくしにとっても殿下は、畏れ多くも心の支えでございました。城に上がってからの十年、殿下がわたくしをお気遣いくださり、そして慈しみくださったからこそ、わたくしの今日があるのだと存じております」
 それを聞くカレルがマリエを見やる。
 その眼差しが変わったのはいつからだっただろう。仮に境目があったとして、マリエの鈍さでは気づけもしなかっただろうが、今はその目で見つめられることをこの上ない幸福に思う。国王とは違う青い瞳が、マリエを何よりいとおしげに映している。
「愛というなら……わたくしの方こそ、殿下の愛に支えられてきたのだと存じます」
 マリエは生真面目にそう語った。
 同じ食卓を囲むフランツは、いつしか食事の手を止めていた。そしてまじまじとマリエに見入り、しばらくしてから深い息をつく。
「それでそなたは、カレルと共に生きることを選んでくれたのか」
「は、はい。それだけ、ではございませんが……」
 真っ直ぐに尋ねられればさすがにうろたえもする。
 それだけではなく、マリエの中にはもっと明確な感情も根づいているのだが、それを国王の前で口にするのは憚られた。マリエの想いは長い歳月の間だけで育んだものではなく、どこかではっきりと変質したものだ。その境目もまた、いつかはわからない。だが自らがカレルを見る眼差しも、昔と今とでは全く違うのだろうと思う。
「父上、マリエが困っております。婦人に直截的な言葉を求めるのはいかがなものかと」
 カレルがそこで口を挟んだ。
 するとフランツがはっとして、すぐに苦笑した。
「確かにそうだ。二人に迷いがないことは、ここまでで十分にわかっている。これ以上尋ねるのも野暮というものか」
 だがそれでも、拭いきれない何かの思いがあるらしい。
 何かの思い出を手繰るように、誰かの面影を重ねるように、フランツはマリエに告げる。
「私は王としてではなく父として、そなたを王子妃にできぬことを残念に思う」
 それが手の届かぬものであることを、マリエもとうに知っている。
 だから惜しいとは思わない。
 届かなくてもよい。たった一つの幸いがあれば。
「そなたが今日の決断を悔やむ日が来なければよい、とも思う」
 フランツが続けた言葉に、マリエはかぶりを振る。
「お言葉ですが、陛下。後悔はいたしません」
「なぜ、そう言い切れる?」
「違う決断をすることで生じる後悔に比べれば、些末なことでございます」
 今や揺るがしがたいこの想いを殺して生きていくのは、マリエにとって耐えがたいことだった。
 たとえどんな未来が訪れようとも構わない。
「だが、その決断はそなたを孤独にするであろう」
 フランツは先に語った通り、王ではなく、父として言葉を重ねているようだ。
 時折カレルの方を見ながら、気遣わしげに、どこか苦さも滲ませながら言う。
「もしも運よくそなたが世継ぎを身ごもったとして、その子は取り上げられ、乳母の手に預けられる。そなたが城に戻ることは叶わず、生涯を歴史の陰でひっそりと送ることになる」
 無言のカレルはマリエを見ている。
 幸せにすると、かつてそう誓ってくれた王子は、今も迷いのない目でマリエを見ている。
 ならばマリエにもためらう必要があるはずはない。
「覚悟の上でございます」
 間を置かず、マリエは答える。
「それに城を離れる日が訪れても、わたくしは孤独ではございません」
 一人ではない。
 そのことも、既に知っている。
「わたくしを案じてくれる人がおります。守ると言ってくれた人も。それにわたくしの家族が、いつもわたくしの幸いを願ってくれます」
 人数にすればごくわずかだが、マリエは確かに孤独ではなかった。
「そして殿下が、わたくしを想ってくださいます」
 遠く離れても。
 たとえ、二人が望まぬ未来が訪れようとも。
 マリエはカレルの言葉を、誓いを、何よりも固く信じている。
「ですからわたくしは、この先何が起きようと、どんな未来がやってこようと、この意志を貫く所存でございます」
 国王フランツに、マリエは切々と訴えた。

 その時、フランツも、ヘルベルトも、そしてカレルもマリエを見ていた。
 各々が向ける眼差しは異なっていたが、その中には一つとして、憐みの色は存在しなかった。