愛を食む人々(3)

 マリエが見る限り、カレルは機嫌がいいようだ。
 隣に座ったマリエを見つめて、そっと柔らかく微笑んでいる。長い話し合いの後だというのに疲れの色一つ見せず、いきいきと青い瞳を輝かせている。

 だがマリエの方はとてもそわそわしていた。
 今宵の会食で何が話し合われたかは察しがついている。カレルは案ずるなと言ったが、さすがに国王陛下が相手では気を揉まずにはいられない。果たしてどのような審判が下ったのか、覚悟をもって聞かねばなるまい。
 隣に聞こえないよう、マリエは深呼吸を繰り返した。
 その吐息が震えているのを、もちろんカレルは聞き咎めた。
「どうした、緊張しておるのか」
「はい、少しだけ……」
「少しというふうにも見えぬがな」
 頷くマリエの顔を覗き込んできた後、どこかたしなめるように苦笑する。
「お前がそう硬くなっていては、こちらも話がしにくい」
「も、申し訳ございません」
 慌てて詫びてから、マリエは気を落ち着ける為、もう一度深く息を吸った。
 そしてふうと大きく吐き出した時、それを支え励ますように、カレルが手を握ってきた。
「案ずるなと言ったはずだ。私を信じて欲しい」
 幼い頃から知っている王子の、この上なく頼もしい言葉だ。握る手は大きく、そして火照ったように熱かった。その熱さが薄着のマリエにはひたすら心地よい。
 マリエは心からの信頼と、幸福感を胸に頷いた。
「もちろんでございます、殿下」
 それでカレルも頷きを返し、それから視線を真向かいの壁に投げる。
 記憶を手繰り寄せるように、一言一言、ゆっくりと口にし始めた。
「父上と、お前の話をした」
 ――思った通り、だった。
 覚悟はしていたが、直接耳にすればどうしようもなく身体が震える。手を握られていなければもっと動揺していたかもしれない。
「お前にとってはあまり心地のいい話ではないだろうが」
 カレルはそこで肩を竦め、
「父上は私とお前のことを……まあ、おおよそは知っていた」
 と続けたので、マリエはその瞬間、むしろ生きた心地がしなかった。
 その『おおよそ』は一体どこまでの範疇なのだろう。マリエがカレルの未来に寄り添い、影となって生きる決意をした、そのことは是非知っていていただきたいと思う。だがそれ以上の――二人の関係について、全てではないにせよほとんどを把握しているというなら、マリエは今後しばらくは国王のご尊顔を直視できないだろう。
「仕方あるまい。同じ城にいる私の近況を知らぬ存ぜぬではかえって頼りない」
 カレルは肝が据わったもので、あっさりとそう言ってのけた。
「それに父上が知ってくれていたお蔭で、話の通りも早かったからな」

 国王と王子が、王子の懸想について話をする際、そこではどのような言葉が用いられるのだろう。
 マリエにはカレルが国王フランツと、そういう話をする姿が全く想像できなかった。これが近衛隊長アロイスとの会話なら、いつものように軽口を叩き合う様子がたやすく思い浮かぶのだが。
 何にせよ、事実として父子の間には未来についての会話がなされた。
 そしてマリエ自身についても、確かに話された。

「……陛下は、何と仰っていたのですか」
 ここまで来ると黙ってもいられず、マリエは思わず続きを促す。
 それを無礼と叱ることはなく、むしろ心得たようにカレルは口を開いた。
「初めは、諌められた」
 一度言葉を区切りながらも、間を置かずに語を継ぐ。
「私の為ではなく、お前の為にこそよく考えるべきだと言われた。私の選択は私だけでなく、お前の命運をも動かすことになるのだと――私もお前もとうに知っていることではあったが、父上も同じように思ったようだ」
 その懸念は、かつてアロイスがマリエに対して語ったものとも同じだった。
 カレルはマリエの命運を握っている。その選択はマリエを幸福にも不幸にもでき、命そのものの存続すら左右することだろう。
 今はその全てをわかった上で、そして信頼した上で、マリエは未来をカレルに預けた。
「だから私は言葉を尽くした」
 淡々と、カレルは事実を語る。
 そのような物言いも、かつての王子殿下であれば決してしなかっただろう。
「父上と議論を重ねた。私の決意が揺るぎないことも、お前が私の命令でなく、自らの意思で私に寄り添ってくれることも全て話した。私はその想いに報い、必ずや幸せにすると誓ったことも、全てをだ」
「殿下……ありがとうございます」
 マリエが感謝を述べると、カレルはマリエをいとおしげに見下ろした。
「大変だったぞ。父上はたやすく納得してくれなかった」
「では……」
「ああ。最後には私の言葉を、事実の一端として受け止めてくれた」
 父と子の議論は、ひとまず何らかの決着を見たらしい。
 カレルは最も大切なことを口にするように、一度短く嘆息した。
 それから真剣な眼差しを向けてきた。
「父上はその事実を、今度はお前の口から確かめたいのだそうだ」
 それについては、マリエからすれば望むところだ。
 自分のあずかり知らないところで審判が下されるよりは、自ら弁明できる機会を貰える方がずっといい。
「構いません、殿下。わたくしに是非機会をお与えください」
 すかさず申し出れば、それはいささかカレルを驚かせたようだ。青い瞳を大きく瞠ってみせた。
「お前がそう申すとはな」
「これはわたくしのことでもございます。殿下だけにご尽力いただくわけには参りません」
「いや、お前に覚悟ができているのなら喜ばしいことだが」
 カレルはなぜか戸惑い気味に、マリエを見ながら更に続ける。
「実を言えば、父上はお前と二人だけで話がしたいと言い出したのだ」
「陛下が……そのようなことを?」
 今度はマリエが驚いた。
 王子の近侍として国王と顔を合わせたことも、言葉をかけられたこともあるが、個人的な話をしたことは一度もなかった。マリエにとって雲の上の存在である国王に、たった一人で相対すのは、より覚悟のいることだ。
 だがそれも、カレルの為なら。
「陛下がそうお望みなら、わたくしが一人で拝謁いたします」
 驚きつつもそう告げれば、カレルはますます面食らったようだ。
「お前はそこまで覚悟を決めておったのか」
「はい。殿下に添い遂げる、その願いを叶える為なら何でもいたします」
「……全く、想われるというのも幸いなことだな」
 しみじみとカレルは言い、それから少々気まずげに、大きな手で白金色の髪をかき上げた。
 次の言葉は言いにくそうに切り出された。
「更に明かすならな……私は父上がそう言い出した時、真っ向から反対した」
「わたくしの拝謁を、でございますか」
「ああ。それではまるでお前一人を矢面に立たせるようで、私はいい気分がしない」
 どうやらカレルは、マリエを守ろうと力を尽くしてくれたようだ。
「だから父上には、我々二人で話をさせるよう頼み込んだ。無論、父上の言い分もわかる。お前が私に命ぜられて従っているのでないと知る為には、私が隣にいては不都合だろう。だが我々が二人でいるところこそ、父上には見てもらうべきだと私は思う」
 そこでカレルは何か面映い記憶でも蘇らせたようだ。
 照れ笑いと共に囁く。
「昔、ルドミラ嬢を怒らせた時のようにな。我々は傍から見ればわかりやすいという話だ」
「ございましたね、そのようなことも」
 マリエもはにかんで思い出話に応じた。
「あの時はわたくしがケーキを焦がしたのがいけなかったのです」
「しかし焦げたところで味は劣らなかったぞ」
「ありがとうございます。ですが、あれでは客人には出せません」
「私が黙っていれば見えぬところで処分されていたのか。危うかったな」
 思い出話は二人の心を弾ませ、気分も声も朗らかにさせる。
 当時こそ互いに気に病むような失敗談ではあったが、今ではすっかり笑いを誘う記憶へと変わっていた。寝台に並んで腰かける二人は、一時だけ幼い少年少女のように笑い合った。

 だが今の二人は子供ではなく、眼前には向き合うべき現実がある。
 真夜中の静けさに笑い声が溶けた後、やがてどちらからともなく唇を結んだ。
「わたくしは、どちらでも構いません」
 わずかな沈黙の後、先に口火を切ったのはマリエの方だった。
「一人での拝謁でも、殿下がご一緒であろうとも。わたくしが陛下に申し上げるべきことも、恐らく変わりはないでしょう」
 緊張していないわけではない。
 だが、覚悟はとうにできていた。
 心に決めた未来を守る。その為ならどんなことでも厭わない。それを失ってしまうことより怖いものは、今のマリエにはない。
「お前の覚悟、しかと受け取った」
 カレルは何かを噛み締めるように、ゆっくりと顎を引いた。
「父上には伝えておこう。お前を引き合わせる日が楽しみだと」
「わたくしも、それまでにお伝えすべきことを整理しておきます」
 マリエは『楽しみ』だとまでは言えそうになかったが、それでも決して憂鬱ではなかった。
 緊張に気分が上擦り、身震いをしながらも、その日に向けた決意を固めていた。
「それにしても、迷いのないよい答えをしてくれたな」
 満足げなカレルがふと手を伸ばし、マリエの黒髪に触れる。
 とうに寝間着姿のマリエは、今は頭巾を被っていない。熱い手は遮るものなくマリエの髪を梳き、そしてその感触を楽しむように二度、三度と繰り返す。
「さすがは私のマリエだ」
 カレルがそう口にした時、マリエは胸の奥が甘く痺れるのを感じた。
 するとそれだけで頬に熱が駆け上り、先程までの堂々とした態度は鳴りを潜めてしまう。
「あの、そういう仰りようをされると……どうお答えしてよいのか……」
「何だ、嬉しくないのか」
「い、いえ、嬉しゅうございます。とても」
 気恥ずかしさに身悶えつつも、心からそう答えた。
 マリエがどれほど慕おうと、王子殿下はたった一人で独占できるような存在ではない。
 それでも二人でいる時は、マリエはカレルを独り占めすることができる。少なくとも今のところ、王子殿下の寵愛を受けられるのはマリエだけだ。できればこの先もずっと、そうであって欲しい――強欲と言われようとも願わずにはいられない。
 ただ、こうして過ごす時間にも限りはある。
「殿下、今宵はお疲れでしょう。そろそろお戻りになられては?」
 気遣うつもりで告げた言葉だったが、言われた途端、カレルは心外そうな顔をした。
「私に夜のうちに帰れと申すか」
「まさか、ここで夜を明かされるおつもりですか?」
「お前の部屋を夜分に訪ねたのだ、当然そういうものであろう」
 カレルは期待に輝く眼差しでマリエを見、それから二人で座る寝台に視線を落とす。
 急にどぎまぎしてきたマリエは、離れがたさを覚えながらも応じた。
「このようなみすぼらしい部屋でお過ごしいただくのは、いささか心苦しゅうございます」
 もちろんそれは謙遜ではなかったのだが、カレルはそういうふうに受け取ったらしい。すぐにかぶりを振ってみせた。
「初めて訪ねたが、お前の部屋はとても居心地がよい」
「お言葉ですが、何もないところでございます」
「私にとってはそうでもない。もうしばらく留まり、ここの空気を味わっていたい」
 言うなりカレルはマリエの唇を奪い、尚も深く口づけてきた。
 その時初めて、マリエは微かな酒気を感じ取った。もしかすると今宵の会食ではいくらかの酒が出されたのかもしれない。だとすると身体を撫で始めたこの手の熱さも、酔いのせいだろうか。
「頼むから薄情なことは言うな。帰れなどと……私は離れたくはない」
 唇を離したカレルが懇願の声で囁く。
 青い瞳に揺れる渇望を目の当たりにして、マリエはあっさりと翻意した。離れがたかったのはマリエとて同じ、この時間を引き伸ばせるというならこれ以上の幸いはない。
 そう思ってカレルの背に腕を回すと、あとは二人でもつれるように倒れ込んだ。

 だがその時、廊下から無粋な咳払いが聞こえた。
 決して大きな音ではなかったが、薄い扉越しに聞きつけるには十分だった。
 怪訝に思うマリエが目を開けると、カレルは気にしたふうもなくマリエの手首に唇を這わせている。
「殿下、どなたかが外にいるのでは……」
 恐る恐る尋ねれば、やはり眉一つ動かさずに答える。
「ああ、アロイスがいる」
 考えてみるまでもなく、カレルが城内の移動において護衛の兵を伴わないことはまずなかった。マリエの部屋まで来たのもお忍びという体ではあるが、随伴者がいる可能性を考えなかったのは迂闊だった。
 しかも今の咳払いがここまで聞こえたということは、これまでの二人の会話も、もしかすれば――。
「殿下、お戻りください」
 我に返ったマリエは、切実な思いで訴えた。
 当然、カレルはいい顔をしない。眉を顰めて抗議してきた。
「ここまで来てか? お前も酷なことを申す」
「アロイス様が待っているのでしょう。お戻りになるべきです」
「待たせておけばいい。彼奴は色恋には理解ある男だ」
 カレルの主張とは裏腹に、廊下からはもう一度控えめな咳払いが聞こえてきた。
 こうなるとマリエも冷静になってしまって、カレルの肩をそっと押し返す。
「あの……恥ずかしゅうございますから……」
「何を今更」
「今更などということは……あの、お願いでございます」
 それでカレルも不承不承身を引いたが、
「このお預けは川魚を食べれぬことより辛いぞ、マリエ」
 恨み言の後で、カレルはマリエの寝間着から覗く左の鎖骨に噛みついた。歯を立てられたと思ったのは一瞬だけ、後はより強く唇で吸いつかれ、訳もわからぬ間にカレルが面を上げる。
 そして渇望の色が消えない瞳でマリエを睨むと、唇を離したばかりの鎖骨を指差した。
「よいか。これを見て、私のことだけを考えて一晩過ごせ」
 未練を振り切るように寝台から立ち上がり、カレルはマリエの部屋を出ていく。
 その後で王子と近衛隊長の間にどんなやり取りがあったか、マリエの耳には聞こえていなかった。

 寝台の上で呆然としていたマリエは、しばらくしてから我に返り、恐る恐る視線を下げた。
 まだ感触の残る鎖骨を眺めた後、速くなった鼓動を抑え込むように膝を抱える。
「お、仰せの通りにいたします、殿下……」
 あとは呟いた通り、煩悶する長い夜を一人で過ごした。