愛を食む人々(2)

 その夜、マリエはミランと夕食を共にした。

 普段は空き時間に交替で済ませてしまうことが多いので、姉弟二人でゆっくり食事をする機会はなかなかない。
 そのせいか、厨房で小さな食卓に着いたミランは始終にこにこと笑顔だった。
「殿下のお蔭で、ねえさまとお食事ができました。嬉しいことです」
 しかも今宵の献立は例の、カレルが大層楽しみにしていた川魚の塩焼きだ。
 鮮度が命の川魚は取っておいて明日の食事に回すということもできず、かといって川へ帰してやっても長くは生きられないだろう。命の恵みを粗末にするものではないと、カレルはそれを近侍の姉弟に授けたのだった。
「お魚、とても美味しゅうございます」
 塩焼きを口に運んで相好を崩す弟を、マリエも微笑ましい思いで見つめた。
「殿下には改めてお礼を申し上げなくてはなりませんね」
「はい。もっと大きなお魚が手に入ると一番よいのですが」
「わたくしたちで尽力いたしましょう。殿下にも喜んでいただけるように」
 調理の直前まで桶の中で泳いでいた魚は、確かにとびきりの美味だった。マリエとミランにとっては幸運なことだったが、食べ損ねたカレルにとってはそうではないだろう。
 無論、今頃はカレルも国王との食事を堪能しているはずだが――その場で上る話題によっては、堪能どころではないだろう。

 マリエは食事の間も、密かにカレルを案じていた。
 傍にいられないことがもどかしく、そしてどんなふうに話をしているのか、その内容が気になって仕方がなかった。
 マリエは国王としてのフランツしか知らないが、畏れ多いことながら、彼もまた一人の子を持つ父親には違いない。あれほど貴く偉大な存在を父に持つカレルは、その背中をどう見ているのだろうか。同じように、フランツがカレルをどのような息子として捉えているかも想像がつかなかった。
 それでも父子二人で囲む食卓が、明るいものであればいいと願っている。

 マリエがいる小さな食卓は、今宵は明るく、穏やかだった。
 ミランは育ち盛りらしい食欲旺盛ぶりで魚を平らげ、そしていつもより朗らかに話をしてくれた。
「そういえば先程、大叔父様にお会いしました」
 ヘルベルトに出会った話を切り出せば、ミランはたちまち身を乗り出した。
「本当ですか! 城内ではなかなかお見かけしないので、ご息災なのか気になっておりました」
「ええ、とてもお元気そうでした」
 大叔父とのやり取りの詳細は口にせず、マリエは深く頷いた。
「国王陛下の近侍ともなれば、きっと毎日お忙しいのでしょうね」
 ミランはやはり王の近侍に憧れているのだろう。
「大叔父様のご立派な働きはかねがね伺っておりました。かあさまが仰るには、大叔父様は我が一族の誇りであると。私が目指すべき未来の一つがねえさまなら、もう一つ、更に先にある未来は大叔父様であるとのことでした」
 黒い瞳をきらきらと輝かせ、熱く語ってみせた。
 そのもう一つの未来は、マリエが手放し、代わりにミランが受け継ぐものだ。彼の憧れは間違いなく現実になることだろう。ヘルベルトのように王の傍らで忠義を尽くし、一族の憧れや誇りを背負う未来がきっと訪れるはずだった。
 今はまだあどけない弟も、いつかは国王に寄り添うにふさわしい立派な青年となるのだろう。
「あなたが大叔父様のようになる日が楽しみです」
 マリエは新しい未来を夢見て微笑んだ。
 するとミランは頬を染めながらも、誇らしげに胸を反らした。
「必ずや立派な近侍になり、生涯かけてカレル殿下を支えて参ります」
「よい心がけです、ミラン」
 近侍として、弟に教えるべきことはまだたくさんある。
 だが心構えだけ見るなら、ミランは既に立派な近侍だ。この役目を引き継ぐことに何の不足もないだろう。

 それならマリエも、自らの未来についてのみ考えなくてはなるまい。
『あまりハナを泣かせるな』
 ヘルベルトがそう告げてきた理由はわかっている。彼が国王から得た情報のみで従姉を案じたのか、それともハナと直接話す機会があったかは定かでない。
 ただ母の為にも、自らの為にも、マリエは幸せに生きなくてはならない。
 もはや不安に惑う時期は過ぎていた。どんな未来が訪れようとも、マリエの行くべき道は一つだ。まだ見通せぬその道を、微笑んで、胸を張って歩むつもりでいる。

 姉弟の穏やかな時間が過ぎた後、二人はカレルの居室で主の帰りを待った。
 だが夕食として考えられうるだけの時が流れても、そのまま夜が更けてしまっても、カレルが戻ってくることはなかった。
 途中でマリエはミランだけを下がらせ、一人きりで待つことにした。そして日付が変わる頃、近づいてきた足音にはっとしたマリエを訪ねたのは、伝令の近衛兵だけだった。
「殿下は今宵、お戻りになれないそうです。マリエ殿には下がっているようにとのことです」
 アロイスの配下にあるその兵は、心なしかくたびれた顔をしている。
「殿下は、どのようなご様子でしたか」
 出すぎた振る舞いと知りつつも、マリエは尋ねずにいられなかった。
 だが兵も詳細は知らぬようで、困惑気味に俯くばかりだ。
「申し訳ありませんが、存じません。私は隊長殿から言づけられただけで……」
 結局何もわからないまま、マリエは主の居室を後にした。

 自室に戻ったマリエは寝間着に着替え、長い黒髪に櫛を入れていた。
 鏡に映る表情は曇っている。カレルを信じてはいるものの、こうも帰りが遅いと気がかりだった。
 果たして夕食の席で、国王と王子の間にはどんな話し合いが持たれたのだろう。カレルが部屋に戻ってこないのは、それがあまりにも長引いたせいなのだろうか。そうだとすれば、その要因は――。
 推測ならいくらでもできるものの、正解は本人に伺うまでわかるまい。マリエは堂々巡りを続ける思索を打ち切り、鏡の前を離れて寝台に横たわった。だが明かりを消しても、毛布に包まり目をつむっても、一向に眠気はやって来ない。
 焦れるような思いに、毛布ごと寝返りを打った時だった。
 マリエの私室の扉が、控えめに叩かれた。
「え……」
 初めは風の音かと思った。
 だがその音は二度、三度と、一定の間隔を置いて繰り返された。明らかに誰かが戸を叩いている。こんな夜分遅くに訪ねてくる相手は、一人しか思い浮かばない。
「……ミランですか?」
 マリエは扉越しに、弟の名前を呼んだ。
 聡明で頼もしい弟のミランも、城の古い造りの私室で過ごす夜は苦手だったようだ。マリエは何度か彼に乞われて、寝つくまで傍にいてやったことがある。幼い頃とは違って『寝る前のお話』が上手になったマリエは、いつも手際よくミランを寝かしつけていた。
 近頃では城での暮らしにも慣れてきた様子だったが、風のある夜は心細くなるのかもしれない。
 こっそりと微笑んだマリエをよそに、扉の向こうの訪問客はこう答えた。
「私だ、マリエ」
 低く抑えた青年の声は、明らかにミランのものではなかった。
 むしろマリエにとって他の誰とも聞き違いようのない――、
「――どうして、こちらに?」
 動揺はしたが、かろうじて相手の敬称を口にすることは避けた。
 マリエの私室は城の片隅にある。身分を考慮し他の使用人たちから離れたに部屋を貰ってはいたが、隣室には城の執政が暮らしていたし、すぐ階下には弟の部屋もある。
 つまりこの部屋の前を、誰がいつ通りかかってもおかしくはない場所だった。
「経緯は後だ。誰かに見つかる前に入れてくれ」
 耳によく馴染んだ声がせがむので、マリエは大慌てで扉を開ける。
 すぐに白金色の髪の青年が転がり込んできて、片腕でマリエを抱き寄せながら、もう片方の手で扉を閉めた。
「殿下……」
 抱き締められながら、マリエはようやくカレルを呼んだ。
 やや混乱してはいたが、その腕の感触、着衣越しの心地よい体温、それに記憶に刻み込まれた匂いに深い安堵も覚えていた。
 今日はもう顔を見ることもできないと思っていた。
「遅くなって済まなかった。存外に話が長引いてな」
 カレルはマリエの顔を覗き込み、こつんと額をぶつけてくる。
 至近距離にあるその表情は、やんちゃ坊主とは違う、大人の男らしい企み顔だった。
「お前が一人で気を揉んでいるのではないかと、その足で訪ねに来た」
「仰る通りです。お気遣いありがとうございます、殿下」
 マリエが感謝を伝えれば、カレルはそれに短い口づけで答える。
「……うむ。私もできれば今宵のうちに伝えておきたかったからな」
「では、わたくしに何かお話が?」
 その言葉には身を強張らせたマリエだが、
「案ずるな。お前を脅かすことは何もない」
 緊張を解きほぐすように、カレルは優しい声で言った。
「ひとまず、落ち着いて話をしよう」
 そして、恐らくは椅子を探そうとしたのだろう。そこで初めて部屋の中を見回したが、青い瞳は一呼吸の間にマリエの部屋を一周し、驚きに目を瞬かせた。
「話には聞いていたが、思っていた以上に質素だな」
 椅子は机に備えつけてある一脚だけ、あとは寝台と服をしまう戸棚と鏡、それに寝台が目につく程度の小さな部屋だ。
 その狭さにはマリエも慣れていたが、寝台の上の毛布がいかにも寝起きであるというように丸まっていることに今頃気づいた。慌ててカレルの側を離れると、毛布を広げて寝台を覆い、それから主に向き直る。
「失礼いたしました、お見苦しいところを……」
「気にするな。夜遅くに訪ねたのは私の方だ」
 カレルは気遣わしげに笑う。
「それより、寝ていたところを起こしたのなら詫びよう」
「いいえ。横にはなりましたが、寝つけずにいたところでございます」
 かぶりを振ったマリエは、その後で一脚しかない椅子を引いた。
「粗末なものですが、どうぞお座りください」
 そして主に勧めると、カレルはそれを一瞥してから肩を竦める。
「一つしかないではないか。お前はどうする?」
「わたくしは立ったままで構いません」
「今は仕事中ではないぞ、マリエ。共に座らなければ落ち着いて話もできぬ」
 それからカレルは整えられたばかりの寝台に視線を投げ、こう言った。
「お前さえよければ、寝台を借り受けたい」
「か、構いませんが……」
 マリエは平静を装おうと、ぎこちなく頷いた。
 それでカレルが先に、毛布で覆われた寝台に腰を下ろしたので、恐る恐る歩み寄ってすぐ隣に座った。

 日が変わったばかりの真夜中、小さな部屋とその周囲は静まり返っていた。