どっちがこわい?/前編

 ルドミラと過ごした休暇の一日が終わり、そして数日が経った。
 表向きは、普段通りの日常が戻ってきた。アロイスはカレルへの感謝と忠誠を胸に、粛々と近衛隊長としての務めをこなしている。その忠心に何一つ変化はなく、そして任務と共にある日々そのものも、休暇を賜る以前とまるで変わりなかった。

 ただ、思い出さないわけでもなかった。
 貴い休日の記憶。昼下がりから日暮れ頃、そして星が出るまで過ごした恋人たちの為の森の情景。そこで凛と直立する、うら若き令嬢の険しい面差し――全ての記憶が色彩までも鮮明だった。
 それでもアロイスは務めの合間、一息つく瞬間にふと思う。
 あの日の記憶もいつかは、跡形もなく忘れてしまうかもしれない。だからそれまでは、粛々と抱え込んでおくしかない。
 半年振りの休日に起こった出来事のほとんどは、アロイスの胸のうちにしまわれていた。ルドミラが訪ねてきたことは近衛兵一同の耳にもしっかり入っていたが、その点について問われても当たり障りなく、菓子を届けていただいただけだと答えるに留めた。本音を言えば誰にも触れて欲しくなかったのだが、部下達の質問攻めを表向きはさらりと受け流した。
 アロイスは時が経つのを待っていた。数日やそこらではなく、もっと大きな単位で時が流れ、来るべき日が訪れるのを待っていた。その頃には自分も、全ての私情を呑み込んで、主命に従うことができるだろう。そう思っていた。

 だが、事態はもう少し早く動いた。

「――アロイス、話がある」
 ある日の午後、カレルが呼びつけるなり切り出した。
 すかさず馳せ参じたアロイスは、しかしひざまずく前にもう一つ命じられた。
「扉を閉めよ」
「御意」
 諾々と居室の扉を閉め、廊下と室内を遮断する。
 それから振り向いたアロイスは、椅子に腰かけた不機嫌そうな主と、主の傍らで気遣わしげにしているマリエの表情を認めた。
 胸騒ぎがした。
「もっと近くに寄れ」
 カレルが促したので、それに従い傍らへ寄った。
 改めてひざまずけば、すかさず告げられた。
「面を上げよ」
「は」
 短い声を発し、アロイスは顔を上げる。
 そして、見た。
 にこりともしないカレルの手に、何かが握られている。

 それは手紙だった。今朝方、城まで届けられたものだ。城の外から入ってくる品は近衛兵によって一応の検分がなされるが、手紙の文面を検めるのは近侍の務めであって、アロイスの務めではない。それでも差出人が誰かということだけは知り得ていた。かの令嬢だ。
 胸騒ぎがより強まった。今朝方、主の部屋に検分を終えた手紙を持っていく時、差出人の名は当然見ていた。その時も嫌な予感を覚えていたのだが、まさか本当に自分へ関わってくるとは。
 かの令嬢は手紙に何を記したのか。
 殿下はその手紙から、一体何をお知りになられたのか。

「これは、ルドミラ嬢から私の元へ届いた手紙だ」
 やはり機嫌の悪そうな口ぶりで、カレルがおもむろに切り出した。
 手紙を指先に挟み、眇めるようにアロイスを見下ろしてくる。
「かの令嬢はお前に話したいことがあるそうだ。是非話をする機会を持ちたいのだと。お前なら何のことか、心当たりはあるな?」
「――は、いえ、心当たりとは……」
 さしものアロイスも、一瞬呼吸を乱してしまった。
 かの令嬢は何を考えているのか。自分に話があるというだけならまだいい。そのことをわざわざ殿下の耳にお入れするとは何事か。動揺する思考は次の言葉を生み出せず、しばし声を失っていた。
 アロイスの反応を見てか、カレルは眉を顰めた。
「手紙の中には、詳しいことは記されていなかった」
 少年期を脱した低い声で続ける。
「ただ、その際には私にも立ち会って欲しいとあった。私に証人となって欲しいのだそうだ」
「何と……畏れ多いことを」
 アロイスは耳を疑う。
 よもやそんな不躾なふるまいを、事もあろうに王子殿下に突きつけようとは。彼女の勝気さは十分に知ってはいたが、ここまで横柄な態度を取るとはにわかに信じがたい。
「お言葉ですが、殿下。本当にかの令嬢がそのようなことを?」
 主の言葉を信じないのも不敬で不躾なふるまいだろう。しかし今は形振り構ってもいられず、アロイスは思わず尋ねた。
 そしてカレルは、頓着した様子もなく答える。
「ああ。そう書いてある」
 反応から察するに、カレルはルドミラに腹を立てているわけではないらしい。後の言葉も先程よりは柔らかく続いた。
「ルドミラ嬢は私の知己、そして大切な友人だ。頼み事をされて無礼だ何だと言うのもおかしかろう」
「し、しかし、殿下……」
「それよりもだ。私はかの令嬢がお前にしたいと言う、話の内容の方が気になる」
 カレルの表情に真剣さが戻る。
 言いかけた反論は口を噤んで飲み込み、アロイスはカレルの疑問に答えた。
「畏れながら申し上げます。私はその話とやらに、全く心当たりがございません」
「本当か?」
 即座に問い返され、内心は押し隠して首肯する。
「もちろんでございます」
 実際、心当たりといっても曖昧なものしかなかった。
 先日の、森で過ごした休日のことだけだ。
 あの日の出来事は未だに鮮明で、だがどうにもならない記憶でもあった。自分とルドミラの間には何もなかった。それだけは確かだ。
 この期に及んで、どんな話をしたいと言うのだろう。察しもつかなかったが、どうあれ聞く耳を持つべきとは思わなかった。
「ルドミラ嬢はお前に話があるとのことなのだぞ」
 カレルが重ねて尋ねてくる。
「お前のあずかり知らぬような話を持ち出してくるとは、到底思えぬのだがな」
 疑いよりも色濃い困惑の眼差しが向けられ、アロイスも反応に困る。
 いくら王子殿下が相手とは言え、あの日のことを自発的に打ち明ける気にはなれなかった。命令であってもできることなら黙っていたい。胸にしまい込んでおきたい。
「私は存じません、殿下」
 アロイスは尚もそう答えた。
 椅子の上のカレルが訝しそうにしてみせたが、やはり打ち明けようとは思えなかった。そもそもはっきりした心当たりですらないものだ。
 と、そこへカレルが視線を転じた。
 傍らの近侍に短く告げる。
「マリエ、席を外せ」
「……かしこまりました」
 近侍が一礼し、足早に部屋を後にする。
 その際、彼女は一度も振り向かなかった。カレルからおおよそのことを聞いているのか、あるいは態度だけで察したのだろうか。らしくもなく、こちらを気遣うそぶり一つ見せなかった。

 二人きりになった室内は、奇妙な沈黙に包まれた。
 ここにマリエがいないと言うだけで、雰囲気ががらりと変わったように感じる。どうやらカレルは彼女の目を気にしていたようだ。
 深く息をついてから、思いのほか鋭い声を放つ。
「洗いざらい吐けとは言わぬ」
 突き刺さるような視線を、アロイスは黙って受け止める。
「だが、私にも多少はわかるのだ。ルドミラ嬢は軽い戯れでこのような頼みをしてくるような人ではない。つまり――」
 もう一つ、苦しげな吐息が落ちた。
「この度の頼みは、かの令嬢の切実かつ重大な願いであると見た。どうしてもお前と話がしたいのだと、そして私にも立ち会って欲しいのだと申してくるからには、並大抵の意思ではあるまい」
 アロイスは無言でいた。何を答えてよいものか、わからなかった。
 答えたくないのは確かだ。たとえ相手がカレルであろうとも。
「お前に問おう」
 厳かに、カレルが切り出す。
「私はお前に、無理を強いているのではないか。私がお前に命じたことが、お前を悩ませているのではないか」
 そう口にしたカレル自身が、この時、酷く悩ましげに見えていた。
「私が――お前とかの令嬢とを、苦しめてしまったのではないか」
 ――大したものだ。
 カレルの言葉を聞いたアロイスは、心中密かに呟く。そこまで読み取れるようになったとは、大人になったものだと思う。男女の機微など、幼い殿下には一生わからぬだろうと思っていたのに。
 だが、いつまでも子供でいてくれるわけがない。それはカレルに限った話ではなく、誰も彼もがそうなのだ。だから自分もいつかは城を去らねばならない。歴史に残ることはなくとも、素晴らしい名誉だと思う。
「お言葉ですが、殿下。仰るようなことは断じてございません」
 アロイスは素直にそう答えた。
 私情がどの方向へ振れようとも、カレルへの思いが変わることはありえない。感謝と忠誠と親愛の情をもって、これからもその生き様に従う所存だ。その結果アロイスが何かを失ったとしても、カレルを恨むことも憎むことも、そして悔やむことすらないだろう。
 だからこそ、しまい込んでおきたかった。あの日の記憶はルドミラ本人にさえ掘り起こして欲しくはなかった。いつか全てを飲み込める日まではそっとしておいて欲しかった。
 そうしなければ――。
「私とかの令嬢の間には、何も起こりはしませんでした。殿下に案じていただくこともございません。どうぞお気遣いなく」
 なるべく穏やかに答えれば、カレルは眉を顰め、苦い顔をする。
「嘘を申すな」
「嘘ではありません。あなたの御許では、全てがそうなるのです」
 アロイスは言う。淡々と、何事もないように。
「あなたは特別なお方です、殿下。生まれながらにしてこの国の今と未来を背負っておいでなのです。そのあなたが、私に関する瑣末なことをお気になさるようではいけません」
 これからカレルは、多くのものを犠牲にしてゆかねばならない。
 国政においても、世継ぎとしてもだ。
 眼前で、今は微かに震えている双肩に、この先の未来においては重い荷が圧し掛かることになる。それをわずかなりとも減らせるよう、アロイスにもなすべきことがあった。
 例えば、懸想にもなりえなかった感情すら断ち切ってしまうことだ。
「かの令嬢は素晴らしいご婦人です。しかし、私の思いはただそれだけです」
 言いながら、アロイスは主の姿をじっと見据える。
 幼少の頃から傍らで見守ってきたカレルが、いつの間にやら立派な青年となっていた。心根の優しい人間に育った。青い双眸に、優しさゆえの迷いとためらいを湛えてアロイスを見つめている。
 その表情に、この上ない幸福を覚えて、アロイスは言った。
「ですからどうか、かの令嬢にもお伝えしてください。私からお話しすることは何もない、そう申していたと」
 言葉と、万感の思いを重ねる。
 今や迷いもためらいもなかった。

 カレルはしばらくの間、逡巡していたようだ。
 だが、やがて表情が変わった。全ての感情を抑え込んだ面差しが固く結んだ唇を開き、何かを宣言しようとした。
「お前がそう申すのなら――」
「殿下。あ、あの、よろしいですか」
 カレルの言葉を遮るように、扉の外で、マリエのうろたえた声がした。
 弾かれたように視線を転じたカレルは、先程までの逡巡とは比べ物にならない速さで応じる。
「どうしたマリエ、何事か」
「ルドミラ様が、こちらへ。立ち入ってもよいかとのことなのですが」
 マリエが告げた扉越しの言葉に、アロイスはぎょっとした。
 なぜ彼女がここに来ているのか。しかも今日、しかも今この瞬間に。
 慌ててカレルの方を見ると、王子殿下はさも今思い出したというふうに口を開く。
「おお、そうであったな。ルドミラ嬢は今日、話し合いの機会を持ちたいということだった」
「な……何ですと!」
「そう言えば、お前にはまだ話していなかったか」
「全くの初耳でございます!」
 アロイスは焦燥に駆られて叫んだ。
 だがもはや、どうしようもなかった。