いつまで凍えるつもりなの、/後編

「好き勝手なことを言って、あなた自身はすっきりした気分でしょうけどね」
 ルドミラは真っ向からアロイスをなじった。
「そんな言葉を向けられた、こちらの身にもなってちょうだい」
 聡明さと気位の高さが顕著に表れる容貌に、今は怒りの色が滲んでいる。森に過ぎる夕陽の色と相まって、険しく、非難めいた表情に見えた。
 彼女の怒りが何に向いているのか、アロイスは把握できていなかった。

 だが、以前もこんな表情を向けられたことがあった。
 この森で。
 恋人たちの為の場所で、アロイスとルドミラが交わすのは真実と感情の応酬だ。そこに恋情はなく、共感もなく、ただただ深い隔たりだけが存在している。わかり合うことはないのだろう、カレルとマリエのようには。
 いや、あの二人とてどれほど理解し合っていると言えるだろう。アロイスにはマリエの覚悟だけがわかる。彼女がこれから向き合う艱難辛苦を、けれどカレルが全て知ることはない。
 代わりにアロイスが見守ってゆかなくてはならない。マリエの辛苦も、苦悩も、孤独も、何もかも。それらはカレルの与り知らぬところにあるべきもので、マリエならば、あの娘ならきっとひた隠しにするだろう。カレルの為に、そしてこの国の為に。
 想い合っている者同士にさえ理解し得ないことがある。
 愛情をもってしても尚、隠される思いがある。
 だとすれば、真実と感情をぶつけ合うだけのアロイスとルドミラがわかり合う機会など、永遠にあるはずもない。

 風が吹きつけ、遂には木々の枝を軋ませ出した。
 それでもルドミラは凛と直立し、こちらを厳しく睨みつけていた。
「身勝手な人」
 糾弾の言葉が耳を打つ。
「あなたって以前からそうだったわ。自分だけが何もかもわかっていて、正しいことをしているんだって顔で振る舞っていたわね」
 痛い指摘に、アロイスは唇を結んだ。反論のしようもなかった。
「殿下とマリエのことで厳しいことを言った、あの時だってそうよ。あなたは全てをマリエのせいにして、さも正義を行うみたいなそぶりで恐ろしい過ちを犯そうとしていたのよ。覚えているでしょう?」
 更なる指摘は音を立てて突き刺さる。
 痛かった。あの夜のことは今も尚、正しい判断だったかどうかわからない。その翌日に、カレルとマリエが想いを通じ合わせたことも然りだ。
 マリエがアロイスの言葉に従い、カレルの懸想を終わらせていたならどうなっていただろう。
 これから先、カレルとマリエが互いの選択を悔やまないと断言できるだろうか。
 何が正しくて何が間違いなのか、今でもアロイスにはわからない。わかっているのは結果だけだ、あの夜の行動が予想外の形で実を結んだ。それだけだった。
「あなたは殿下とマリエの仲が拗れるとは思わなかった、そう言っていたわよね? でもそれだってわからないじゃない。結果として上手くいっただけ、そういうことでしょう?」
 手厳しい物言いをされ、アロイスもさすがに堪えた。
 ルドミラの口ぶりは感情的だったがあながち的外れでもない。以前、書庫にて彼女に打ち明けた『本音』には実のところ裏があった。物わかりのよい年長の理解者、そういう立ち位置を騙りながら、現実のアロイスはそうではなかった。
 ルドミラも、ようやくそのことに気づいたのだろう。
「今だってそうよ。あなたは一時の慰みのつもりでわたくしをここへ連れて来たのでしょうけど」
 くいと顎を上げる仕種。
「わたくしはそうではなかったわ。そういうつもりでケーキを焼いてきたのではなくてよ」
 強い夕風の中、彼女は敢然と立っている。そしてアロイスを真っ直ぐに見上げる。
「それもわからないと言うのなら、あなたは本当に身勝手で、無神経な人ね」
 叩きつけられた言葉に抗弁する余裕もなかった。
 アロイスは声を失い、しばらく黙り込んでいた。

 傷つけるつもりはなかった。
 聡明な彼女なら、こちらの意図も汲んでくれるだろうと思っていた。
 だが、むしろ聡明だからこそなのか。自分の言葉で全てを理解してしまったからこそ、彼女は、傷ついてみせるのか。

 その時、脳裏に閃くものがあった。
 あの夜、アロイスがマリエに罪を負わせようとした時、最も傷ついていたのはルドミラだったのではないだろうか。
 カレルとマリエの不在を兵に感づかせてしまった罪の意識と、その後に訪れた破滅の局面。アロイスの言葉に従おうとするマリエをルドミラは強く咎めたが、それももしかすると自らの引き起こした事態の重大さを悟っていたからなのかもしれない。自分のせいで二人の関係が取り返しのつかないくらいに壊れてしまう、そう予感したからだとすれば。
 アロイスはルドミラの聡明さを読み誤っていた。
 先程気づいたように、彼女はやはり小娘ではないのだ。
 女らしい細やかな聡明さで、あの夜もうわべだけではなく全てを見ていた。そして今も、アロイス一人の言葉から広く遠い未来を見ている。歴史に残るものと残らないものの全てを、既に捉え始めている。

 ごう、と風が音を立てた。
 いつの間にやら夜の匂いを孕んだ風は、緑の葉を枝からもぎ取り、空へと巻き上げていく。その荒々しさに反応してか、鹿毛が再びいなないた。
 はっとして、アロイスは口を開く。
「ご令嬢、そろそろ帰りませんと」
「――嫌よ」
 ルドミラはにべもなく返答した。風が冷たくなってきたからか、小刻みに震えながら自らの肩を抱く。
「わたくしが帰ったら、あなたの休日は終わってしまうのでしょう?」
 鋭い問いだったが、誘惑的な響きでもあった。眼前の女は凍えそうなそぶりで、何かを要求したがっている。
「しかし、帰らなくてはなりません」
 そう告げてからアロイスは、胸裏でこっそり苦笑した。
 帰りたくないのは自分の方だ。彼女はそのことにも、きっと気づいている。
「嫌ったら嫌」
 いっそ似つかわしくないくらいの幼さで、ルドミラは応じる。こちらを睨む顔は美しく、けれど血の気が失せている。
 そうこうしている間にも、刻一刻と宵闇が迫りつつあった。ルドミラを帰さなければならない。アロイスは急かすように語を継いだ。
「帰りましょう。あなたを案じている者は大勢いるでしょうから」
 するとルドミラが目を瞠った。解れた髪ごと身体を震わせて、即座に叫んだ。
「あなただってそうでしょう!」
 木々に囲まれた狭い空に、その声は跳ね返って響く。
「あなたのことを案じている人間だっているのよ、わたくしと同じよ、何も違わなくてよ!」
 アロイスは息を呑む。
 そして彼女は、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「わたくしには……今は、殿下のお気持ちがとてもよくわかるの。だから――」
 凍える瞳に縋られた。
「帰りたくない、の」
 震える声がそう言った。

 わずかな間、次の行動に迷ったことを、アロイスは悔やんだ。
 なすべきことは決まっている。ルドミラを帰さなければ大事になる。それはカレルに対しても多大な迷惑をかけることとなるだろう。絶対にあってはならないことだ。
 そして令嬢の本意もわかっている。彼女は聡明ではあるが、決して冷静ではない。衝動から放たれた懇願には従うべきではない。それは懸想ではないし、懸想にしてはならない。

「帰りましょう」
 だから、あえて冷たく応じた。
 ルドミラが愕然とし、次いでそっぽを向いた。
「嫌よ」
 寒そうに震えているくせに、頑なにそう言い張る。
「嫌なんだから」
「しかし、ご令嬢――」
「しつこいわね。嫌だと言っているでしょう」
 彼女の横顔は凍えながらも続けた。
「どうしてもと言うなら、以前のようにすればいいのよ」
「以前のように、とは?」
 問い返せば答えは早く、
「わたくしを絨毯か何かのように抱えて、ぞんざいに扱って連れ帰ればいいわ。あなたにとってのわたくしは所詮そんなものなのでしょう? だったらそうすればいいじゃない」
 一息に告げられた。
 それでアロイスは深く、長く溜息をついた。そうするしかないのなら、仕方がない。
 川のほとりに立つ姿へ、静かに歩み寄る。風に晒された令嬢がびくりとしたので、あえて微笑みかけた。それから凍える身体の背中に触れ、傾げるようにして抱き上げる。横抱きにされても彼女は全く抗わなかった。顔が強張っていたのはきっと、寒さのせいだろう。
 震える彼女を鹿毛の背、鞍の上に優しく乗せる。来た時と同じように、横乗りの態勢で。
「……どういうこと?」
 続いて前部の鞍へ腰を下ろしたアロイスの背に、しがみつきながらルドミラは問う。
「あなたが怯えるといけないと思ったのです」
 アロイスは言い、手綱を握ってから馬の腹を軽く蹴る。
 馬は、薄暗くなった森の道を辿り出す。長い間待たされ、風の中に晒されていたくせに、まるで気遣うような従順さでゆっくりと駆ける。
「本当に、身勝手な人。酷いわ」
 風の中で、嘆く声がぽつりと聞こえたような気がした。
 否定はできなかった。何についても、そうだ。
 休日が終わる。最後の休日には相応しい、全てを断ち切る為の嵐が終わる。自分は彼女の記憶に残るだろうと思う。たとえどんな形だろうと。
「怖くはありませんか」
 振り向かず、アロイスはそっと尋ねてみた。
 答えはない。
「森を抜けたら少し急ぎます。しっかり掴まっていてください」
 二度声を掛けると、やっとくぐもった返事があった。
「ちっとも怖くなんかないわ」
 言葉とは裏腹に、彼女は来た時よりも更に強い力でしがみついてくる。凍える身体も触れていれば温かい。背中がじわじわと熱を帯びていく。
 それでも彼女は震えていた。馬が歩みを速めても、城に近づいても、ずっと震え続けていた。

 城へ戻ると、ルドミラは挨拶もせずに去っていった。
「お気をつけて」
 アロイスが礼儀に適う言葉をかけても、振り向くことはなかった。待たせてある馬車で帰るのだろう、無言で城門と向かっていく。
 月明かりに浮かぶ後ろ姿を、しばしの間眺めていた。感傷よりも名残惜しさよりも、現実を受け止めることが必要だった。次に顔を合わせる時は、お互い、平然としていられるだろうか。
 二人の間には何もなかった。
 それは事実だ。
 彼女の姿が見えなくなってから、アロイスは踵を返した。休日に付き合わせた鹿毛を厩に帰してやろうとして――ふと、今更のように寒気を覚えて身震いする。

 自分はやはり、わかったようなつもりでいるのかもしれない。
 今日の寒さはこの身体に、いつか酷く堪えることだろう。そんな気がした。