冗談にもならない/後編

 こんなに満ち足りた休日は久し振りだった。
 休日自体が久し振りなのだから、評価に自然と色がついてしまったのかもしれない。その可能性は否定せず、アロイスはこの時を噛み締める。
 ケーキを食べ終え、沢の水で喉を潤した後の、何気ない沈黙が心地よかった。ルドミラと二人で川のほとりに座っていても、以前のような張り詰めた緊張感は皆無だった。お互いに黙っていることに苦痛を感じず、時はただただ穏やかに流れていく。
 自分は今、城の外にいるのだと強く思う。
 カレルのことが気にならないわけではなかった。ともすれば、まんまとせしめた格好の休日に後ろめたさを覚えてしまう。嫁入り前の貴族令嬢を人気のない森まで連れ出し、手製のケーキまでご馳走に預かっているこの状況が部下たちの耳に入れば、一斉に羨望と非難の眼差しを向けられることだろう。相手が他でもないルドミラ嬢だと聞かされたなら、また違う眼差しを向けてくるに違いなかったが。

 だが今のアロイスは、隣にいるのがルドミラであろうとも、さして悪い気はしていない。
 それどころか美貌の令嬢を眺めていられる今を、よい時間だと思っている。
 彼女はやはり美しかった。ドレスの裾が地面に触れているのも気にせぬままで、鳥のさえずりに耳を傾けている。栗色の髪は木々の葉と共に風に揺れ、白く美しい額には木漏れ日が一筋射している。うっとりと伏せられた瞼は、そこから連なる鼻筋、そして唇まで全てが滑らかだ。その唇は開かれればあれやこれやと小生意気だが、黙っていれば人畜無害の、素晴らしい鑑賞品となり得た。日差しの下では表情も明るく、よりいきいきとして見える。色気こそなかったが、瑞々しい娘の姿を鑑賞するのも楽しいものだった。
 アロイスも三十六歳、女に興味はなくともない。しかしながら城勤めの身では縁遠く、最近はこと王子殿下の熱烈なる懸想ぶりが目の毒だった。独り身で生涯を終える覚悟はできていても、何の迷いもなく、というわけにはいかない。
 だからこそ改めて思う。
 ここは城の外なのだと。
 今は久し振りの休日であり、そして――いつよりも平和で、穏やかな記憶になるのだろう、とも。

 不意に、傍らの馬が鼻を鳴らした。
 それを合図にするように、ルドミラが瞼を開く。はしばみ色の瞳を細めてアロイスを見た。
「そうしていると、あなた、まるで別人みたいよ」
 微笑と共に零れた言葉に、アロイスは思わず瞠目する。
「別人とは。私が、誰か他の人間に映りましょうか」
「ええ。あなたがお城勤めの厳めしい近衛隊長さんだなんて、今はちっとも想像できないわ。街をのんびり歩いていそうな、普通の人に見えていてよ」
 令嬢は小首を傾げ、茶目っ気たっぷりの表情を見せた。
「実はわたくしね、近衛隊の皆さんの顔が、一様に同じく見えていたの。皆で同じ鎧を身につけて、揃ってしかつめらしい顔をして、無骨な男の方ばかりで……ちっとも区別がつかないんですもの」
 アロイスは表情の選択に迷い、ひとまず唇を結んだ。小娘にからかわれようとしているのか、笑われようとしているのか、まだ判然としない。
「あなたはまだよろしいわよね。胸に徽章をつけているから、顔がわからなくとも区別はついてよ。でもあの徽章もなかったら、あなたも隊の他の人も、皆一緒に見えてしまうわ」
 そう言ってから、ルドミラは柔らかい表情になる。
「でも……今は違うみたい」
 風が吹き抜けて、森の木々がざわめく。
 栗色の髪が揺れ、緑と水の匂いの中、微かな甘い香りがした。
「鎧姿ではないからかしら。それともお勤めの最中ではないから? どちらにせよ、今は別の人みたいよ、あなた。とても穏やかそうに見えるわ。ごく普通の家庭を築いている、どこにでもいそうな幸せな人に」
 彼女の言葉通り、今の自分が普段と違うことをアロイスも意識していた。
 近衛兵の務めには失敗が許されない。常に注意を払い、神経を尖らせ、確実に王族の御身を守らなくてはならない。そういう日々に身を置いていれば、穏やかな顔つきをしていられるはずがなかった。武装をしない日はなかったここ半年――自分はずっと、本来の素の表情を忘れていたのだろう。
 しかし、それが必要なものなのかはわからない。カレルの為に生きるなら、何を忘れてしまっても、何を失くしてしまっても構わないはずだ。
 今更、他の誰かの為に生きるつもりもなかった。ただあの方の幸せだけを願っていた。
「ねえ」
 黙っているアロイスに、彼女は尚も語りかけてくる。
「思うのだけど、あなた、やはり趣味を持ってはいかが?」
 くすくすと、鈴を鳴らすような声で笑いながら、
「趣味と言うと大仰だけど……せっかくのお休みの日に、昼まで寝ているだなんて不健康よ。食べることと寝ることが一番の幸せっていうのも、つまらないことでしょう?」
 冗談めかした口調で、だが熱心に言葉を重ねてくる。
「生きていたらもっと楽しいことがあってよ。例えばほら、今日みたいに森まで出て、こんなふうにのんびりと過ごすことだって」
 ルドミラの眼差しは、真っ直ぐにアロイスへ向けられていた。
「誰かにお菓子を作ってもらって、それをいただくことだってそうよ。そういう楽しみをお休みの日くらいは持ったってよろしいんじゃないかしら」
 アロイスは何も言えずに黙った。唇を引き結び、じっとルドミラを見つめ返した。
 彼女はわずかな戸惑いを見せながらも、視線は逸らさずに続ける。
「……もしよかったら今度、皆でお茶会をしない?」
 差出口だと思ったのだろうか。そこでルドミラの笑顔が陰り、取り成すような微笑に変わる。
「皆でと言うのは殿下とマリエとわたくしと、それからあなたのことよ。一度わたくしの方から殿下とマリエをお誘いしたかったのだけど、マリエは殿下の御前では、一緒にお茶を飲むなんてしないでしょう。だから、そこにあなたがいてくれたら、マリエだって気兼ねなく殿下のお隣に座れると思うの。どうかしら?」
 断じて、そうは思わない。アロイスは内心で一蹴する。

 わかるからだ。
 マリエなら、何があろうとカレルと卓を共にするはずがないと。
 一緒にお茶を飲もうなど、あの近侍の娘がふるまうはずはない。決して。それは同じ立場の自分だからこそわかる。
 忠誠心は親愛の情の傍にある。アロイスはもちろん、カレルの懸想を拒まなかったマリエもまた同様だろう。心の奥深くに根ざした思いは意識よりも素早く反応し、感覚的に自分たちと貴い人とを選り分ける。
 あの方と同じ卓は囲めない。あの方と食事やお茶を共にすることはできない。アロイスはそう思う。そしてマリエもまた、そう思うに違いない。
 ルドミラの提案は、二人にとって冗談にもならない。

「お言葉ですが」
 長い沈黙を置き、アロイスは静かに答えた。
「私に趣味は必要ありません。殿下のお傍にいられる幸せだけで、十分でございます」
 はっとしたように、ルドミラが両眉を上げた。
 それから慌てるそぶりで反論してくる。
「それは――それはもちろん、その通りでしょうね。殿下のお傍にいられるのは大変な名誉だし、幸せに違いないもの。でも、それだけというのもいささか寂しいでしょう?」
「いいえ、十分でございます」
 同じ言葉を繰り返し、頑なに反論した。
「むしろ得がたい幸せをいただいていると存じます。私は殿下が日に日に大きく成長してゆかれるそのお姿を、近くで拝見していられるのですから」
 だが、それすらも永遠に得られる幸せではなくなった。
 カレルの傍を離れなければならない日が、いつか、そのうちにやってくる。城の外へ出てゆき、二度とは戻れなくなる日が訪れる。覚悟はできていたが、感情が揺れ動かないわけではない。
 アロイスの言葉に気圧されたのか、ルドミラは唇を開けたまま、しばらく言葉を発さなかった。
 だから代わりに、アロイスが自ら語を継いだ。
「お礼を申し上げなくてはなりません、ルドミラ嬢」
 姿勢を正し、改まった調子で切り出した。
「今日は大変に楽しい日で、そしてケーキも大層美味しゅうございました。こんなによい休日はもう二度とないでしょう」
「二度と……?」
 ルドミラが、呆けた声で問い返した。
 それでアロイスは頷き、
「ご婦人と過ごす休日は、これが最後になるかもしれません」
 冗談のつもりもなく告げる。
 当然、令嬢も笑わなかった。むしろごくりと喉を鳴らした。
「どういうこと?」
「私はいつか、近衛の務めを辞すこととなります」
 そう告げれば、今度は目を見開かれた。
「冗談でしょう、隊長さん」
「いいえ。今日明日の話ではありませんが、いつか、そのうちには」
 真実であることを、語気を強めて伝える。
「あなたが辞めてしまったら、殿下の御身は一体誰がお守りするの?」
「近衛隊には十分な人数がおります。私が申し上げるのも何ですが、精鋭揃いです。後任も二人ほど心当たりがありますし、問題はないでしょう」
 アロイスは微笑を作ったが、ルドミラに笑う余裕はないようだった。気を落ち着けるように一つ息をついてから、探るような視線と共に問われた。
「では……辞めて、どうするつもりなの? 殿下のお傍にいるのが幸せだと言ったあなたが、殿下のお傍を離れて、何をすると言うの?」
 その問いにも正直に答えた。
「殿下にとって、最も大切な方。その方をお守りするのです」

 風が吹いた。
 色めき立つように木々がざわめき、鹿毛の馬もいなないた。それでも令嬢は凛とした姿勢でこちらを見ていた。栗色の髪がなびいても、身動ぎ一つしない。
 自然と、アロイスは目を細めていた。彼女に対する深い感謝の念が湧き起こる。
 ――今日はよい休日だった。心からそう思った。
「私に趣味は必要ございません。私の剣と生涯は、この先いつまでも殿下と、殿下の大切な方の為にあります。ですからもしかすれば、今日が私にとって最後の休日となるのかもしれません」
 そう言って、アロイスは心からルドミラに頭を下げた。
「本当に感謝しております、ルドミラ嬢。お蔭でよい休日でした。あなたのような若くて美しい、そして聡明なご婦人と今日を過ごせたことを、とても幸いに思います」
 そして、令嬢の凍りつく双眸を捉えて、更に続ける。
「殿下から伺いました。あなたは殿下にとってのご友人であり、そして歴史の真実を知る方でもあるのだと」
 心なしか、風が強くなってきたようだ。
 森に差し込む日の光も煮詰められたように濃さを増し、日の終わりをそっと匂わせ始めていた。
「ですから私は、この森にあなたをお連れしたかったのです。あなたに真実をお話しておきたかった。殿下の御為にも、きちんと打ち明けておきたかった」

 あるいはそれも、おためごかしなのかもしれない。
 いつかこの森でルドミラ自身に言われたように、アロイスがただ彼女に打ち明けたいことを、主の名を持ち出すことで正当化しようとしているだけなのかもしれない。
 そうだとしても伝えておきたかった。きっと、いつよりも幸せな休日となる今日をくれた彼女に、感謝を込めて告げたかった。

 城のすぐ裏手にあるこの森に、密かに与えられた役目のことを。
 この作られた森は、城に入ることを許されぬ者の為にある。