子供達の笑い声が響く/後編

 身支度を整えたアロイスは、ルドミラを宿舎の応接室に案内した。

 城勤めの騎士は宿舎への住み込みが基本だった。だから外に家族がいる者は、休みの日ともなれば実家へと帰ったり、あるいは宿舎まで家族や親類縁者を呼び寄せたりするようだ。その為に設けられているのがこの応接室だった。
 ご大層な名前はついているものの、広めの部屋を薄い板で三つの細長い区画に分け、そこに椅子と卓を並べただけの部屋だった。同時に三組が面会できるという建前ではあったが、当然のようによその組の会話は筒抜けとなる。お蔭で利用する者は少ないのだと聞いていた。

 現に、アロイスとルドミラが一つの区画で卓を挟んで向き合った時、隣の区画からは子供たちの笑い声が聞こえていた。
 どうやら若い騎士の歳の離れた弟や妹が、大勢で訪ねてきたらしい。あやす声に合わせてきゃあきゃあとはしゃぐのが天井まで響き、雰囲気こそ和やかではあったが、落ち着かないことこの上なかった。
「申し訳ございません、このような賑々しい場所で」
 アロイスは隣の区画へ聞こえぬよう、声を潜めてで切り出した。
 差し向かいに座る令嬢が肩を竦める。
「どうぞ気にしないでちょうだい。わたくし、子供は嫌いではありませんの」
「ありがたいお言葉です」
 頭を下げたアロイスの眼前に、美しい染物の包みが置かれた。ルドミラは繊手でそれをするすると解き始め、中からクルミのケーキが現れた。
 ケーキはよい焼き色をしていた。既に冷めているはずだが、香料の甘い匂いとクルミの香ばしい匂いとが入り混じり、食欲を心地よく刺激した。形も崩れたところはなくきちんとしていて、ナイフを入れるのが惜しくなりそうな出来映えだ。
「大したものでしょう?」
 令嬢が胸を張るので、アロイスも頷かざるを得ない。
「確かに、素晴らしい腕でいらっしゃいます。ですが」
 誇らしげなルドミラを見ていると、きつくものを言う気にはなれない。苦笑して、やんわりと続けた。
「どうしてこんなところへいらっしゃったのです。ここはあなたのような方が足を踏み入れてよい場所ではございません」
 嫁入り前の家柄貴い令嬢が、城勤めとは言っても所詮はむさ苦しい男所帯の騎士団宿舎を訪れる。客観的に見ても好ましい状況ではないはずだった。アロイスは諌めるつもりでいたのだが、ルドミラはそれを悟ってか、ことさら不満げにしてみせる。
「だって、お城へお邪魔したらあなたがいなかったんですもの。この間は毎日忙しいって言っていたのに今日はお休みだなんて、わたくしでなくても落胆するわ、そうじゃなくて?」
 確かに間は悪かったのかもしれない。忙しい身だと言っていた矢先の休暇だ、ルドミラの性格では宿舎まで押しかけてくる気になるのも無理はない。
 それにしても歓迎すべき状況ではなかったが。
「……そもそも本日、あなたは殿下との面会の約束をしておいででしたか?」
 答えを知っていて、あえて尋ねた。
 令嬢はかぶりを振る。
「いいえ。でも、わたくしは殿下ではなくてあなたに会いに来たんだから」
 そんなことを言われても。アロイスは内心で零す。

 休暇を今日に据えたのは、実のところカレルの都合と予定を踏まえた上でのことだった。
 身辺警護に人数を要する外出も、来客もない日を選んで決めた。今日のカレルは一日中居室にこもり、溜まりに溜まった歴史の勉強を、口うるさい家庭教師とやり合う予定になっていた。もちろんルドミラが訪ねてくる予定など入っていなかった。
 完全に不意を打たれた格好だった。目の前にクルミのケーキを出されても、アロイスはどう反応してよいのかわからない。顔を洗い、髭を剃り、髪を撫でつけて着替えも済ませたものの、頭の中は未だ霞がかかったようにぼんやりとしていた。
 なぜこんなことになったのか、まるでわからない。

「とにかく」
 わからないなりに釘は刺しておこうと、口を開いた。
「ルドミラ嬢。あなたはここへ出入りするべきではありません。失礼ながら、用が済みましたら速やかにお帰りになることをお勧めいたします」
「相変わらず口うるさい方ね、隊長さん」
 ルドミラはアロイスの苦言を聞き流すように鼻で笑った。
「わたくしのことを心配してくれているのはありがたいわ。でも、そんなに心配されるようなことでもなくてよ。そう頻繁にやってくるつもりもないのだし」
「はあ、ですが……」
「ここへ一度や二度出入りしたところで、身分の違う騎士団のどなたかと噂が立つなんてこともないでしょう。もちろん隊長さん、あなたともね」
 弾けんばかりの彼女の笑みを、アロイスは複雑な思いで眺めやる。
 急造仕立ての応接室には似つかわしくない貴族令嬢が目の前にいる。今日もすっきりとした身動きのしやそうな水色のドレスを着て、ぴんと背筋を伸ばしている。社交界では引く手数多だという彼女の手作り菓子を食べられる自分は、きっと幸運なのだろう。
 心にもないことを思い、アロイスはあからさまに嘆息した。
「そこまでわたくしをさっさと帰したいなら、さっさと食べてしまってちょうだい?」
 ルドミラは相手の溜息も意に介さず、嬉々としてケーキを指し示す。そしてはしばみ色の瞳に期待の色を湛えてみせた。
 我に返ったアロイスは当然、困惑した。
「今、ここでいただくようにと、そう仰るのですか?」
 ルドミラが力いっぱい頷く。更に笑顔で続けた。
「ええそうよ。あなたが食べて、わたくしにお味がどうだったか言ってくれないと、作ってきた甲斐がないもの」
「しかし、ここには食器がございません」
 応接室は食事をする為の場所ではなく、そもそも食器の用意がなかった。それにお茶の用意もしていない。ケーキだけを食べるというのも味気ないものだ。喉に詰まってむせたりしたら、今度は当の令嬢からよからぬ誤解をされそうだった。
 思い悩むアロイスの耳に、薄い板の仕切り越し、子どもたちの笑う声が聞こえてくる。けたけたとまことに楽しそうな様子だ。隣は和やかで大変羨ましいと思う。こちらはまるで綱渡りの気分だというのに。
「いかがでしょう、ルドミラ嬢」
 アロイスは事を荒立てたくない一心で切り出した。
「ここは一つ、本日は私がこのケーキを賜りまして、次にお会いする時までに平らげておきます。ケーキのお味についてはその時にお話しするということでは――」 
「融通が利かないのね、隊長さん」
 そこでルドミラは、呆れたように薄く笑んだ。
「あなたがどうしてわたくしを早く帰したいのか、その気持ちは十分わかってよ。でもね、わたくしがこのケーキを作ってきた気持ちだって、少しはわかって欲しいわ」
 ちらと上目遣いの視線が向けられる。目元に艶っぽさは欠片ほどもないが、それがかえってルドミラの聡明さを引き立てていた。
「わたくしはあなたに感謝しているの。嘘や社交辞令ではなくてよ。本当のことよ」
 その聡明さで、刃物のように研ぎ澄ました言葉をぶつけてくる。
「だからあなたも嘘だとか、社交辞令だとか、その立場なんてことは考えないで欲しいの。わたくしのケーキを食べたいか、食べたくないか。まずはそれだけ答えてちょうだい?」
 聡明で、素直で、しかし卑怯な問いだと思う。
 貴族令嬢であることを差し引いても、若い娘に屈託なく手作りの菓子を持ってこられて、そこで『食べたくない』などと言える男がこの世にどれほどいるだろう。
 ましてこのケーキはルドミラが、アロイスの為に拵えたものだ。
 理由や経緯はどうあれ、その事実だけは間違いない。
「……是非、いただきたいと存じます」
 アロイスは苦笑いを噛み殺して答える。
 するとルドミラも、ほっと胸を撫で下ろしてみせた。
「じゃあ食べてちょうだい。わたくしは、あなたが美味しく食べてくれるところを是非見たいわ」
「まだ美味しいと決まったわけでは――」
 うっかり本音を口にしかけた。慌てて唇を結ぶアロイスを、ルドミラは軽く睨みつけてくる。
「あら、疑っているのね。美味しいに決まっていてよ、ちゃんと味も見てきたもの」
「失礼いたしました。見た限りの出来映えが素晴らしいですから、きっと味も優れていることでしょう」
「当然よ」
 ルドミラが機嫌よく、伏し目がちに笑んだ時だ。
 隣の区画からまたしても子どもの笑い声がした。
 楽しげにはしゃぐ声。今のアロイスにとっては懐かしい声だった。

 目の前にあるクルミのケーキには、アロイスにも忘れがたい思い出がある。
 マリエが初めてそのお菓子を作った時、カレルが大喜びを覚えていたのだ。城に上がったばかりのマリエが、幼い王子殿下に気に入られるお菓子をと苦心して作り上げたケーキで、カレルはその努力に十分見合うはしゃぎようを披露した。何せ食べ終えてからも興奮冷めやらず、また食べたい食べたいとしきりに繰り返していたほどだ。
 アロイスに対しても、クルミのたっぷり入ったケーキがいかに美味しいかをとうとうと語り聞かせてくれた。その時の、まるで我が事のように誇らしげなカレルの顔が胸裏に蘇る。ささやかながら、懐かしくもいとおしい記憶だった。
 きっとこの先も、アロイスを支え続けていくだろう思い出の一つだ。
 そして今のアロイスは、自分より十以上も若い娘に、そのケーキを突きつけられる事態に陥っている。
 それも少し前までは軋轢の絶えなかった相手で、その上貴族のご令嬢だ。状況を改めて振り返ると、何ともおかしい気分になってきた。全く奇妙な縁もあったものだ。

「ねえ」
 令嬢の甘えるような声が、アロイスの意識と視線を引き戻す。
 見れば、ルドミラは応接室に設けられた板の間仕切りを眺めていた。その向こうには子供たちの笑い声が響く。
「子供は嫌いじゃないけど、ここはケーキをいただくには相応しい場所じゃないわ。そうじゃなくて?」
 ルドミラの言葉に、アロイスは素直に同意を示す。
「仰る通りです。それにここへ、あなたのような方を長々と引き止めておくわけにもいきません」
 そして更に語を継いだ。
「なら、お茶とケーキをいただくに相応しい場所とはどちらでしょうね」
「わたくしは客人よ。あなたが考えてくれないと」
「私の意見を述べてもよろしいですか、ルドミラ嬢」
 アロイスが笑んで確かめ、差し向かいに座る令嬢もたちまち微笑み、首肯する。
「ええ。是非聞きたいわ」
「外で味わうお茶はことさらに美味しいものだと、殿下が以前言っておいででした。野掛けというのはいかがでしょうか」
 その提案に、ルドミラは口元に手を当ててみせた。
「野掛け? 構わないけど、この辺りによい場所でもあって?」
「ございます。少なくとも、人目を忍ぶには最適の場所が」
 そこまで言ってから、ふと大切なことに思い当たる。敏捷かつ体力の有り余っているカレルならともかく、ルドミラならばあの場所へ歩いてゆくのは大変かもしれない。
 そう考え、アロイスはもう一つ尋ねた。
「ところで、ルドミラ嬢。乗馬の経験はおありですか?」
 問われた令嬢は怪訝そうにしながらも、若い娘らしい笑い声を零す。
「いいえ。全くの初めてよ、隊長さん」
 鈴が鳴るようなその声の朗らかさは、不思議と胸の奥に響いた。

 クルミのケーキにまつわる、新しい記憶が刻まれた瞬間だったのかもしれない。