嘘に咲く花/後編

 弾まぬ会話は、感覚の相違が浮き彫りになった形で打ち切られた。
 書庫に気まずい静寂が戻ると、ルドミラは再び机に向かい、二冊目の読書を始めた。

 アロイスは窓辺へ引き返し、脅威の存在しない書庫に神経を尖らせる。
 全く、小娘のお守りも楽ではない。黙って本だけ読んでいてくれればいいものを、使いどころを誤っている聡明さのせいで、会話の度に神経が摩滅する。以前のようにかりかりされているのも困るが、あまり親しげに話しかけられるのも困りものだ。舌先三寸で黙らせられないルドミラは、アロイスにとって実に面倒な存在に思えた。

 そしてその面倒な存在は、アロイスとの会話を諦めたわけではなかったようだ。
「隊長さん」
 呼びかけられて視線を上げれば、ルドミラがこちらを向いている。ランタンの明かりの傍らで、彼女の姿は目映く照らされ、浮かび上がるように見えた。
 窓辺に立ったまま、アロイスは静かに応じた。
「どうかなさいましたか、ご令嬢」
 反応を返されたルドミラは、なぜか一瞬ためらうような間を置いた。それから妙にしおらしく切り出してくる。
「一つ、聞いてもよくって?」
「何なりと」
「あなたって、そんなに毎日忙しいの?」
 幾分か幼い口調で尋ねてきたのは、皮肉などではなく、純粋な疑問のようだ。
 今度は何を聞くのかと不思議にも思ったが、アロイスは表向きは礼儀正しく答える。
「近衛隊の任務は殿下の日々と共にございます。殿下がお忙しければ我々も多忙となる。そういうものでございますとも」
「そうなの」
 腑に落ちぬ様子のルドミラが、小首を傾げてみせた。
「でも、お休みはちゃんとあるのでしょう? そういう日は趣味に割く時間くらいあってもよさそうじゃなくて?」
 アロイスは、今度は吹き出すところだった。小生意気で聡明な令嬢も、身分相応、歳相応に世間知らずではあるらしい。
「あいにくと」
 短く答えてから、逆に尋ね返す。
「つかぬことを伺いますが、ご令嬢。あなたのお屋敷には、あなたの身をお守りする者がおありでしょう?」
「ええ」
 令嬢が素直に頷く。
「そしてあなたの御家には、仕え奉る従者が大勢おありでしょう? 執事に、小間使いに、女中にと」
「ええ。大勢いてよ、お城勤めの人たちほどではないけれど」
 ルドミラは瞬きと共に答え、あどけない口ぶりで言い添えてくる。
「今日だって小間使いが帯同したがっていたのよ。わたくしが殿下に拝謁する際はいつもついてきたがるのだけど、あれこれと口うるさい人だから、いつも用意をしている間に屋敷へ置いてくるの。御者がいれば馬車は動かしてもらえるし、わたくしは一人で出歩く方が余程気楽なんですもの」
 そう述べる令嬢は、かつて屋敷を抜け出し、一人で芝居を観に行ったこともあったと聞く。
 同じ轍を踏んだカレルの、あの日の出来事を思えば、アロイスはルドミラの従者たちに同情を禁じ得ない。人に仕えるというのは実に苦労の多いものだ。
「我々の務めも、概ね同じことでございます」
 アロイスは令嬢に対して告げた。
「殿下のなさることについて、それが実際になされるかなされぬかわからずとも、ありとあらゆる備えをしておくのが我々の責務。たとえ何も起こらなくとも、気を抜いている暇などございません。休んでいる間も同じこと」
 就寝中だろうと食事中だろうと、あるいは貴重な休日であろうと、必要とあらばすぐに駆り出されるのが近衛兵の仕事だった。その任務の重大さを鑑みれば、何人いようと多すぎるということはない。カレルの公務や急な外出には必ず帯同し、できる限りの人員を揃えて警護に当たる。時間が空けば訓練に精を出し、常に剣を磨いておかねばならない。のんびりしている暇などあるはずもない。
「でも」
 ルドミラは不服そうに反論してきた。
「わたくし、聞いたことがあってよ。お城勤めの人の中でも、近衛兵のお仕事は最も誇り高いのだって。陛下や、殿下の御身をお守りする任務は、騎士を目指す人たちの一番の憧れなのだって。それなのに、いざそのお勤めに就いたら働いてばかりいなくてはならないなんて、不思議だわ」
 彼女の言葉はどこまでも純粋だった。いつもこう素直ならば可愛いものなのだが――思考の脱線を自制しつつ、アロイスは答える。
「仰る通りです、ご令嬢。我々の仕事における名誉と誇りの高さは計り知れぬもの。殿下の御身をお守り出来るというのはこの上ない光栄です。言ってしまえばその名誉と誇りこそが、金銭よりも休暇よりも貴い報酬となるのでございます」

 彼女の言う通り、近衛兵という任務は最も誇り高く、そして選出される際の審査も最も厳しいものとされている。
 実力もさることながら家柄や出自、それに志や思想までを調べ出されることとなる。それらを無事に通過しても、待っているのはひたすらに神経を張り詰めさせている日々だ。何年も持たずに辞めていく者も多い。
 それでも、アロイスがこの地位に留まり続けていられるのは、ひとえにカレルの存在あってこそだ。
 あの方の御為ならば、何もかも擲っても惜しくない。
 マリエが抱いているその思いと同じものを、アロイスはもう少し不敬な心境で胸に抱いている。カレルに対する感情は、どうしても忠心のみというわけにはいかなかった。

 アロイスの言葉を聞いたルドミラは、何とも言えない顔つきになった。異を唱えたがっているようであり、しかし反論の言葉が浮かばないのか、複雑そうにアロイスを見上げている。
 やがて長い睫毛を伏せると、彼女はぽつりとつぶやいた。
「ではあなたは、近衛隊長としての名誉と誇りでできているのね」
「恐らくは」
 冗談めかして答えれば、ルドミラはぎこちなく苦笑した。
「それなら、これからの生涯もずっと、その名誉と誇りだけで生きていくつもりなの?」
「そのつもりに存じます」
 もっとも、今ある名誉と誇りもいつかは擲たねばならないものだ。
 その時、引き換えに手に入れるものは何か。恐らくは、ほんの一握りの人間しか知り得ない、しかし近衛兵でいる以上の名誉と誇りだろう。となればやはりアロイスは、それらだけでできていると言っても過言ではないのだろう。
「わたくしには何だかよくわからないわ」
 ルドミラが本を閉じる。
 興味深いものであるはずの書物の内容よりも、今は目の前の不可解な事柄に向き合おうとしているようだ。真っ直ぐにアロイスを見つめて、続けた。
「殿下のお傍でお仕えできるのはとても名誉で、誇り高いことに違いないでしょうね。でもだからと言って、あなたのような生き方はどうなのかした。お役目のことばかりで、まるで自分がないように思えるんですもの」
 言葉の割に口調は非難めいてはおらず、案じるようですらあった。
「このままでは、あなたという存在は、近衛兵としてのあなただけになってしまうのではなくて? あなたはそのお役目の為だけに生きているのではないのでしょうに。それとも、そういう生き方でも、名誉と誇りがあればどうということもないのかしら?」
 令嬢の言葉は素直で純粋だったが、アロイスにとっては綺麗事でもあった。嘘で誤魔化すのもたやすいのだが、何となくそういう気になれないのは、相手が幼すぎるせいだろう。
 そこでアロイスは、幼子に諭すように答えた。
「もちろんでございます。私はただ、殿下の御為になれればそれだけで十分」
「そう。それでは、趣味の時間なんて到底持ってはいられないわね」
「だとしても、不幸な生き方とは思っておりません」
 趣味など持ちようがなくとも。休暇が取れなくとも。親元へ帰郷したのがいつか、全く思い出せなくとも。
 主たる人の為、いつか何もかもを投げ出すことになろうとも。
 アロイスに迷いはない。ルドミラはああ言ったが、自らの生涯は剣を持つ為だけにあるのだと思っている。
「やっぱり、わからないわ」
 ゆっくりとかぶりを振る令嬢は、少し前の記憶を手繰るように続けた。
「あなた方のこと、わかったようなつもりでいたけれど……そこだけはどうしても、わからないわ」
「当然でございましょう」
 アロイスが思い出していたのも、恐らくは同じ記憶だ。
 ――何もかも全ては、あの夜に通じているのかもしれない。
「あなたは貴い身分のご令嬢。我々の生き方までを、無理に理解する必要はございません。あなたはあなたらしく、素晴らしいご生涯を送られればよいのです」
 離れた位置から振り返る彼女を見つめ、アロイスはあの夜の出来事を思う。
 ルドミラから苛烈な正論をぶつけられ、それを不遜な物言いで退けた夜のことを。
 あの一件を寛容に許してはもらえても、アロイスがああいう行動に出たことを芯から理解されることはないはずだった。ルドミラは人に仕える身分ではない。
 あの夜、嘘の事実を飲み込んだマリエも、それを強いたアロイスも、どちらもカレルの為を思って判断し、行動していた。
 人に仕えるというのは、つまりそういうことだ。
「そう、なのかしらね」
 どことなく寂しげに、ルドミラが零した。
 真っ直ぐにこちらを向いた視線は、しかしアロイスではない、別の誰かを見据えているようだった。羨望とも憧憬ともつかぬ眼差しに、アロイスの目には映った。

 書庫の机と、窓辺とを結ぶ視線は、そのまましばらくランタンの光の中を横切り続けた。
 それがふっと解けた時、二人の間にあった奇妙な沈黙も止んだ。
 ルドミラが、うって変わった声音と共に口を開いたからだ。
「ところで、隊長さん?」
「何でございましょう、ご令嬢」
 変わったようでもあり、全く何も変わらないようでもある語調でアロイスは応じる。
 そして、返ってきたのは意外な言葉だった。
「あなた、甘いお菓子は好き?」
「お菓子と仰いましたか? まあ、食べる時もございます」
 唐突な問いを訝しがりながら答えれば、ルドミラは我が意を得たりというように両手を打ち合わせた。
「よかった。なら、あなたへのお礼はクルミのケーキということにしてもよろしいかしら?」
 アロイスは、令嬢の口にした菓子が、王子殿下の大好物だということを知っていた。
 だからこそ、それをルドミラが自分に贈ると言い出したことに驚いた。
 驚かせたのが嬉しいというように、ルドミラはにこやかに語を継ぐ。
「わたくしも、マリエが作るあのケーキが大好きなの。前に作り方を教わる約束をしたから、上手く焼き上げられたらあなたに差し上げるわ。この間と、今日付き合ってもらったお礼にね」
 ルドミラの繊手はすべすべときれいなもので、傷一つ見当たらない。そこにいかほどの料理経験があるかは、アロイスの慧眼でも見透かせなかった。
 不安を抱くアロイスをよそに、ルドミラは気炎を上げている。
「わたくしの作ったケーキが食べられるなんて、この上ない光栄で、この上ない名誉よ」
「ええ……、光栄に存じます」
「そうでしょう? いつになるかはお約束できないけど、楽しみにしていてちょうだい」
 最後にそう言い足されたことで、アロイスは幾分か安堵した。社交辞令で終わる可能性を見出したからだ。
 身分貴きご令嬢に、その手を汚させて菓子を作らせるなど分不相応も甚だしい。作り方を一から教わるのであればそうそう上手く作れるものでもないだろうし、気位の高い彼女が中途半端な出来のものを見せに来るとも思えない。となれば実現しないものと捉えてよさそうだ。
「では、いつか」
 面倒事は避けたいアロイスは、曖昧に笑んで頷いたのだった。

 その後、何がしかの達成感を得たルドミラは、存分に読書を楽しんだ。そして書庫を退出してからはカレルの居室でお茶を飲み、歓談の時を過ごしたという。
「それではごきげんよう、隊長さん。お約束の品、いつか必ずお渡ししますわね」
 去り際、アロイスに愛想よく挨拶をしてきたところも前回と変わらずだ。お蔭で令嬢が去った後、アロイスは再び部下たちからの質問攻めにあう結果となった。
 それにおざなりに答えながら、クルミのケーキの件は頭の片隅へと追いやった。近衛隊長として忙しない日々を過ごしていれば、そのうちに忘れてしまえるはずだった。貴族令嬢が近衛兵風情にケーキを焼いてくるなど、アロイスの想像の範疇を超える出来事だ。起こり得るはずがなかった。

 実際、数日も経たぬうちに忘れかけていた。