嘘に咲く花/中編

 書庫の様子は、先日訪れた時と何一つ変わりなかった。
 ランタンの明かり一つでは照らしきれない空間に、書棚と机がずらりと並んでいる。空気は埃っぽく、少々黴臭い。今日は廊下に人の気配もなく、書庫にいるのもルドミラとアロイスの二人だけだ。お互いに黙り込むと、息をするのも気が引けるような静寂がわだかまる。
 アロイスは慣れぬ臭いに顔を顰めつつ、ルドミラの動向を見守っていた。

 他に見るべきものもない、というのが理由だった。
 薄闇に目を慣らしてはみたものの、書庫の風景は退屈で面白みに欠けている。元より読書に興味を持てぬ質のアロイスは、来たばかりだというのに既に暇を持て余し始めていた。それでこの場に唯一居合わせた小娘を観察していることにしたのだ。
 ルドミラは書庫に入ってからというもの、黙って読書に没頭している。耳を澄ませば古い紙を捲る慎重な音と、腰かける椅子が軋む音、そして小さな唇から漏れる微かな吐息が聞こえてくる。読書をしているルドミラの横顔からは小生意気さも勝気さも影を潜め、貴族令嬢としてふさわしい淑やかさ、たおやかさを備えているように見えた。
 だからこそ、アロイスはルドミラを注視していた。真っ直ぐに視線を向けるのではなく、窓辺に立ち、腕組みをして、目の端からそっと眺めていた。
 彼女は、見栄えはよいと思う。
 読書をしている時の姿勢のよさ、結い上げた栗色の髪の艶、細身のドレスが似合う華奢でしなやかな体躯、そして磁器人形と見まごうような美しい顔立ち。まさに比類なき美貌の持ち主と二人きりだ。アロイスが今よりもう少し若かったなら、この時間をもっと楽しむこともできたのかもしれない。
 だが女として見るには、歳が離れすぎている。
 となれば、アロイスがルドミラを観察している理由は一つ――小動物を眺めるような気持ちだ。退屈しのぎにはちょうどいい、毛並みのよい猫が目の前に一匹いる。

 アロイスの不遜な胸中を察したわけではないだろうが、その時、ルドミラが席を立った。
 どうやら一冊を読み終えたようで、閉じた本を携えて書棚へ向かう。
 とっさにアロイスも窓辺を離れ、声をかけた。
「何か、お役に立てることは」
 ルドミラが、ドレスの裾を翻らせて振り返る。
「いいえ、なくてよ」
 愛想よく答えた彼女は、手持ち無沙汰に突っ立っているアロイスに気づき、くすっと笑った。
「退屈そうね、隊長さん」
「……そんなことは、決して」
 図星を突かれ、アロイスは曖昧に笑い返す。
 するとルドミラが怪訝そうにした。
「あなたも本を読めばよろしいんじゃなくて? ただ突っ立っているのも空しいものでしょう?」
「そういうわけには参りません」
 アロイスは即答した。
「私は殿下から、あなたを遇するようにと拝命仕った身。あなたを蔑ろにして読書を楽しむなど論外にございます」
「構わなくてよ。蔑ろにされるのは慣れているもの」
 揶揄するように答えたルドミラは、その後でやんわりと言い添えた。
「わたくしが狼藉を働くと思っているなら見張っていても構わないけど、今更そんなふうには思わないでしょう? なら、あなたも読書を楽しんではいかが?」
 今更、というのも言い得て妙だ。和解の時を経て、現在のアロイスはルドミラに対して疑念を持ってはいない。しかし読書をする気がないのは宣告述べた通りの理由からだ。出過ぎた真似をしてカレルの名を汚すことだけはしたくなかった。
 それもこの令嬢が相手なら、今更の思惟なのかもしれないが――彼女はカレルの知己だ。アロイスがどんな振る舞いに出ようとも、ルドミラなら気にも留めず、むしろ共に読書を楽しむ同士を求めてさえいるのかもしれない。
 思案を巡らせるアロイスに対し、ルドミラは首を竦めてみせた。
「それとも、もしかしてあなたも読書が好きではないの?」
 虚を突く問いに、一瞬、言葉に詰まる。
「確かに、好んで読むというほどではございませんが」
「あら、もったいないこと。何ならわたくしが、あなたの興味を引く本を見つけてあげましょうか」
 ルドミラの言葉は親切心によるもののようだが、全く要らぬ世話だった。
「お言葉は嬉しゅうございますが、これでも任務中でありますゆえ」
 アロイスが真面目なそぶりで答えると、ルドミラはつまらなそうに唇を尖らせた。
「そう」
 くるりと書棚の方を向き、古びた本の一冊に手を伸ばしたところで、ふと思い出したように、
「そういえば、殿下から伺っているわ。あなた、お花が好きなんですってね?」
「――ええ、まあ」
 またしてもアロイスは言葉に詰まり、曖昧に答えた。
 どうやらあの一件が、ルドミラの耳に入ってしまったようだ。

 全くの誤解なのだが、カレルはアロイスを花を愛する人間だと思っている。
 事の発端は、かつてカレルが懸想の末に煩悶していた頃のことだ。あまりの進展のなさ、もどかしさを見かねたアロイスは、カレルに対して助言を供した。
 だがカレルの懸想の相手は周知の通り、側仕えのマリエだ。アロイスがカレルの面前にひざまずく時、彼女もまた主の傍らにある。それゆえに直截的な進言ができず、アロイスは婦人を花に喩えて焚きつけたつもりだった。
 だが三十を過ぎた男の婉曲的な恋の助言は、マリエはもちろん、当のカレルにも何一つ理解されなかった。二人は揃ってアロイスが花好きだと思い込み、かくしてアロイスは鍛え上げた外貌には似つかわしくない趣味を、主によって悪気なく仕着せさせられたのだった。
 現実には、特別花が好きな訳でも、詳しいわけでもない。後にカレルから摘んできた花のお裾分けをされた際には、花の名前を尋ねられ、答えに窮したこともあった。

 そんな偽りの趣味を、この令嬢にも知られてしまうとは。
 カレルがどういった経緯でルドミラに語り聞かせたかは不明だが、またややこしいことになったとアロイスは途方に暮れた。
「しかし、殿下がなぜあなたに、そのようなお話を?」
 思わず問い質せば、ルドミラは澄まして答える。
「わたくしから伺ったのよ。先だってのお茶の時間に、あなたのことを教えていただきたいと申し上げたの。あなたにはきちんとお礼をしなくてはならないと思ったから」
「お礼などとそのような、お気遣いは無用でございます」
 むしろ面倒なので勘弁して欲しい。アロイスは心中でのみ、そう付け足した。
 当然ルドミラの耳には届くこともなく、かえって親しげに微笑まれてしまう。
「あら、遠慮なんてしなくても結構よ? わたくしはあなたに心から感謝しているんですもの、今日のこともそうだし、この間のお話だって然りよ」
 書棚から取り出した本を胸元に抱えたルドミラが、そこで微笑をはにかませた。
「あのお話はあなたに聞いてもらえなければ、誰にも言えずにいたと思うの。そしてあなたに聞いてもらえて、気分がすっとしたのよ。本当はどなたかに打ち明けたかったのかもしれないわ……叶えようもなかった懸想なんて、そんなものでしょう?」
 アロイスは反応に困り、唇を結んだ。そうしていると真面目な顔だけは取り繕えそうな気がしたからだ。
「だから何かでお礼がしたいの」
 ルドミラの言葉には嘘が見えない。だからこそ反応に困る。
「あなたが花を好きだと言うなら、何か珍しい苗でも贈らせてもらうわ。どうかしら?」
 しかし身分貴き令嬢にそう言われて、ずけずけと欲しいものを口にできるほど厚かましくはないつもりだ。
 アロイスはきっぱりと答えた。
「先程も申し上げた通り、お気持ちだけで十分でございます」
「だから、遠慮は要らないと――」
「私は近衛隊長として多忙な身。花をいただいたところで、じっくり世話をする暇もございません。ですからお気持ちだけいただくのが相応かと存じます」
 畳み掛けるように言葉を重ねれば、ルドミラもはっと唇を閉ざした。抱えた本に視線を落とし、不満そうに声を漏らす。
「……そう。残念ね」
 だがアロイスが安堵する暇もなく、すぐに面を上げた。まだ諦念の見えない表情が、新しい思いつきに輝いている。
「それなら隊長さん、あなたの趣味を教えてちょうだい」
「趣味、でございますか?」
 聞き返しつつ、アロイスは今更のように焦り始めていた。
 どうやらこのご令嬢、言い出したら聞かぬ質のようだ。全く何から何まで、誰かによく似ていらっしゃる。
「ええそうよ。あなたの好きなものを教えてくれたら、それをこの度のお礼として贈らせてもらうわ。もっとも、あまりにも高価な品は無理ですけれど」
 ルドミラは屈託なく笑う。
「間違ってもお馬だとか、お屋敷だとか、宝石だらけの装飾品だなんて言わないでちょうだいね? わたくしのお財布で賄えるものにしてもらえるとありがたいわ」
 さすが貴族令嬢ともなれば、贈り物として思い浮かべる品々の豪奢なこと。その途方もなさに、アロイスは眩暈すら覚えた。
「趣味と仰いましても……そのようなものは特別ございません」
「ないの? 何一つ?」
 ルドミラがそこで、形のいい双眸を見開く。
 信じがたいとでも言いたげに語を継いだ。
「ないなんてことはないでしょう。あなた、趣味もなしに日々を過ごしているというの?」
「そもそも、趣味の為に割く時間がございません。近衛兵の務めとは日々王族、そしてこの城と共にあるものでございますゆえ」
 ましてや近衛隊長ともなれば、身辺警護だけが務めではない。執務室を与えられている通り、時には机に向かって書類仕事をする必要もあるし、公務があれば日程の管理調整から警護の作戦つ餡までを請け負い、時には兵たちの士気を高める訓示を練ったりと、決して暇な身分ではないのだ。
「お勤めが忙しいということなの?」
「その通りでございます、ご令嬢」
 アロイスの答えに、ルドミラはすかさず異を唱えてきた。
「だからと言って、お勤め以外に何の楽しいこともないなんておかしなことだわ。そんなのって無味乾燥というか、全くつまらないじゃない。ねえ、あなたにだって日々の楽しみくらいはあるんじゃなくて?」
 問い詰められたアロイスは、やむなく素直な答えを口にする。
「楽しみと申し上げるなら、寝ている時と食事の時が何より楽しゅうございます」
 それは皮肉でも何でもない本音のつもりだったのだが、ルドミラは心から哀れむ眼差しを向けてきた。
「あなたって、寂しくて、とてもかわいそうな方ね」

 そんな目をされても、困る。