砕けた言葉

 書庫へ戻ってきたカレルは上機嫌だった。
 廊下から中でのやり取りを窺っていたはずだが、改めて和解が済んだ旨の報告を受ければ、たちまちに表情を明るくした。そしていそいそと二人の前に現れると、実に満足げな面持ちで、アロイスに小さく一つ頷いてみせた。
 それだけで十分、主の労いの意思がわかった。
 アロイスは無言で恭しく一礼した。務めは果たしたと、内心安堵もしていた。

 カレルは、ルドミラに対してはこう告げた。
「ルドミラ嬢、あなたの優しさと寛容さに感謝する」
「お褒めにあずかり光栄です、殿下」
 席を立った令嬢は、可愛らしくお辞儀をする。栗色の髪が尻尾のように揺れていた。
 それから、ちらとアロイスに目を向けてきた。
「でも、隊長殿も話のわかる方でしたのよ。さすがは隊長に選ばれた方、実に真っ当で、冷静な視点を持っておりましたわ。わたくしも素直に仲直りをする気になれましたもの」
 評する言葉にも棘はない。アロイスは意外さに唇を結び、会釈一つでその評価を賜る。
 直後に視線を上げれば、ルドミラと目が合った。
 微かに笑んだ面差しは、不思議な親しみに満ちていた。もちろん、かつての刺々しい雰囲気と比較しての親しみであって、どちらかと言えば秘密の共有者に釘を刺すような、脅しめいた微笑でもある。もしかすれば長らく秘めてきた想いをようやく吐き出せて、肩の荷が下りたというところなのかもしれない。
 今のアロイスに、十八の小娘の胸中などそう理解できるものではない。できることと言えば、教わった秘密を守ることだけだ。だから黙っていた。
 二人が共有する秘密を知らぬカレルが、笑顔で語を継いだ。
「アロイスを気に入ってもらえたのなら嬉しい。歳こそいくらか重ねてはいるが、これでなかなかに物わかりのよい男だ。重ねた歳の分だけ頼りにもなる」
 一言余計ではあったが、カレルからの賞賛はやはり嬉しいものだった。アロイスは表情を変えず、胸裏でだけ笑む。
「この一件も落着したな。重畳なことだ」
 カレルは息をつくと、ルドミラの傍へと歩み寄る。そして彼女の為に、もう一度椅子を引いた。
 ルドミラが瞬きをしたので、カレルは晴れやかに告げる。
「では、ルドミラ嬢。どうぞ読書を続けてくれ」
「あら、よろしいんですの?」
 促されてもルドミラはすぐには従わなかった。
 むしろ気遣わしげに眉尻を下げ、問い返してきた。
「マリエがお茶菓子を用意して待っているのではございませんの? ここに来てから随分と経ってしまいましたし、長居をしては申し訳ないですわ」
 確かにその手はずではあった。
 この書庫にどれほどの長居をする予定だったのかはアロイスのあずかり知らぬところだが、マリエはカレルの居室で、お茶の用意を整えて待っているはずだ。彼女の近侍としての忠心は並々ならぬものがあり、いつ何時カレルが戻ってきてもいいように、完璧に備えているだろうと思われた。あまり長く待たせるわけにはいかないだろう。
 と言うより、カレルならそろそろマリエの顔を見たいと思っている頃合いだろう。
 ルドミラの疑問に対し、カレルは穏やかに応じる。
「あなたに気にしてもらうことではない。今日の招待は、元々はあなたを書庫へ案内する為だった」
 黙するアロイスは密かに瞠目した。自分が事前に聞かされた話とは違うようだが、果たしてどちらが真実なのやら。
「招いておきながらろくに本も読ませぬようでは申し訳ない。存分に堪能してからで構わぬ」
「まあ、そうでしたの」
 するとルドミラも、はしばみ色の瞳を意外そうに丸くした。
「わたくしはてっきり、近衛隊長殿との仲直りの方が主の目的だと思っておりましたわ。殿下もその為にわたくしを招いてくださったのだと。違いましたのね?」
「それも、確かに重要な目的ではあったのだが」
 照れ笑いのカレルが、白金色の髪を手で梳きながら弁解する。
「しかしながら、あなたに謝意を示したかったのも事実。先だっての一件についても、本日の件についてもそうだ。だからあなたが斟酌する必要は何もない。どうか気兼ねなく読書を続けて欲しい」
 だが、それを聞いたルドミラは、やがて静かにかぶりを振った。
「お言葉ですが、殿下。そのお気持ちだけでも十分ですわ」
「何と、もうよいと申すのか」
「ええ。殿下がお忙しいことはよく存じておりますし、わたくしの為に貴重な時間を割いていただくのも申し訳ないですわ。それに」
 戸惑うカレルを取り成して、令嬢ははにかんだ。
「おしゃべりに興じて、わたくしも少々喉が渇いたところでございます。マリエのお茶とお茶菓子が恋しいと思っておりますの」
 社交慣れという点においてもルドミラより劣るカレルが、そこではっとしてみせた。慌てて答える。
「済まなかった、そういうことならば望む通りにしよう。だが、あなたは本当によいのか」
「ええ。お願いいたしますわ」
「そうか」
 客人の首肯を得ても尚、カレルには心残りのある様子で黙り込む。その間だけで、カレルがルドミラに対していかほどの謝意を抱いているかが察せられた。
 思案の末、カレルはよいことを思いついたというように切り出した。
「ならば、次の機会を設けようか。ルドミラ嬢」
「え?」
 令嬢が目を瞬かせると、カレルは意気揚々と続ける。
「また日を改めて、あなたをこの書庫へ招待しよう。次こそはあなたに、読書だけに専心してもらえるように。どうだろうか?」

 実を言えば、この書庫に客人を招くのも決して容易なことではない。
 客人は無論、カレルの御身にも何かあれば一大事だ。どこへ行くにもその行き先には、朝のうちから念入りな検分を行うのが常だ。それは城内であろうとさして変わらない、近衛兵の責務だった。
 仕事が増えること自体に不満はない。ないのだが、やはりそこまでしなくてもとアロイスは思ってしまう。今日までの経緯がどうであれ、殿下はきちんと謝意を示しているはずだ。そのことにもしかの令嬢が、不満を持っているというのなら、いささか不敬ではないだろうか。
 聡明な令嬢にしかるべき反応を期待し、アロイスはさりげなく視線を定めた。

 ルドミラも案の定、再び眉尻を下げていた。
「お気持ちは嬉しゅうございますが、殿下にご負担をおかけしてしまうでしょう」
「それも、あなたが気にすることではない。あなたがこの書庫へ再訪したいと望むなら、叶えなくてはならぬ。約束したのだからな」
 カレルは堂々たる口ぶりで言い切ったが、さしもの令嬢も二つ返事というわけにはいかなかったようだ。書棚には未練ありげな視線を送りつつも、しばらく思案に暮れていた。
 その視線がふと、黙って控えるアロイスに留まった。
 ルドミラはたちまち、少女らしい明朗闊達な笑みを浮かべた。
「殿下、もう一つだけわがままを申し上げてもよろしいかしら」
「私に叶えられるものなら、申すがよい」
「ええ。次の機会を用意していただけるのなら、是非、近衛隊長殿の帯同をお願いいたしますわ」
 アロイスは、その発言にぎくりとした。自分の役目は果たしたと、少なからず油断していたのだ。
 一体、どういう意図なのだろう。和解を果たすまでは疎ましがる一方だった自分に、再度の帯同を願うとは。アロイスには、ルドミラの真意が全く読めなかった。
「アロイスをか? あなたがそう望むのなら構わぬが」
 幾分か怪訝そうにしながらも、カレルは快諾する。
 それを受けてルドミラは続けた。
「ありがとうございます、殿下。では、わたくしと隊長殿の二人だけで書庫へ通していただくということでも構いませんこと?」
「ふ、二人でか?」
 カレルが驚きに目を見開く。主の反応をそのままアロイスも受け継ぎ、事の成り行きを見守るべく息を潜める。ますますもって令嬢の意図が読めない。
 主従の反応を見てか、ルドミラは悪戯っぽく笑んだ。
「殿下に再度お付き合いいただくのは心苦しいですし、だからと言ってお城の書庫へ招待していただけるせっかくの機会を逃がしてしまうのも惜しいんですもの。わたくし一人でと申し上げたら何かと問題もありましょうけど、近衛隊長殿が一緒なら、わたくしが狼藉を働く心配もございませんし、殿下にもお許しいただけるのではと思った次第ですの」

 なるほど、とアロイスは声に出さず呻いた。
 確かに筋は通っている。カレルの勉強嫌いももはや令嬢の知るところであるようだし、聡明な彼女が気を遣うのも頷けた。この書庫の蔵書は希覯なものも多く、外部の人間を一人にしておくのはやはり好ましいことではない。ルドミラの申し出は十分腑に落ちる内容だった。
 しかし、筋が通っていようと何だろうと、アロイスには到底許容しがたい申し出でもあった。自分はあくまでもカレルの近衛だ。小生意気な令嬢の子守をするのが任務であるはずもない。カレルの元を離れてルドミラに帯同するなどと、とてもではないが受け入れがたい。
 カレルとて、絶対の信を置く自分を客人一人の為に遣わせるはずがない。

「……私は構わぬが」
「殿下!」
 そのカレルが思いのほかあっさりと返答したので、思わずアロイスは声を上げてしまった。
 カレルとルドミラが揃ってこちらを向く。二人の表情は揃って穏やかで、笑んでいた。
「ルドミラ嬢が是非にと申しているのだ」
 たしなめてくるカレルの表情は、聞き分けのない従者を諭すようですらあった。
「和解も済ませたのだし、何の問題もないであろう。アロイス、頼まれてはくれぬか」
 迷うことすらなく懇願されて、アロイスは大いに面食らった。
 無論、王子殿下の命令は数少ない例外を除いては従うべきものだ。今回のそれは例外にも当たらぬごく些細な命に他ならない。
 だがそれでも、諾々と拝命はできない。
「お言葉ですが殿下、私は近衛隊長として殿下をお守りすべき身でございます。その私に殿下の御許を離れ、ご令嬢の相手をせよと仰るのですか」
「そうだ」
 またしてもあっさりと答えられた。
「殿下、ご冗談を」
 狼狽に近い心持ちで、アロイスはカレルを注視した。同じようにカレルも、澄んだ瞳でアロイスを見つめ返してくる。真っ直ぐな眼差しは素直過ぎるほどだが、その素直さが今は物憂い。
「大したことではない、気負う必要がどこにある」
 カレルは微苦笑を浮かべ、ひたすらアロイスを宥めた。
「お前は私に代わり、ルドミラ嬢をここへ案内し、客人として丁重に扱えばよいだけだ。私の警護をするよりも余程楽かも知れぬぞ」
 いくら殿下のお言葉でも同意しがたい。
 ――楽なはずがない、断じて。
「わたくしも、あなたに特別なもてなしを求めているわけではありませんのよ」
 そこでルドミラが、穏やかに口を挟んできた。
「ただ、いてくれるだけでいいんですの。わたくしが狼藉を働く人間ではないということを見届けてくれるだけで。殿下がよいと言ってくださったんですもの、あなただって構わないでしょう?」
 構う。非常に構う。
 しかしカレルの命令とあっては拒絶できるはずもない。せっかく和解したルドミラの機嫌を損ねてしまうのも問題だろう。端からアロイスに選択の余地はなかった。
 アロイス自身、筋だの本分だのは既に飲み込んでしまっている部分で、後は情動的な拒絶反応のみを残しているに過ぎない。それすらも飲み込んでしまうには、諦め一つがあればよかった。反論の言葉は噛み砕いてしまうべきだった。

 カレルの真っ直ぐな眼差しを確認する。主は自分の答えを待っている。素早い決断が肝要だ。
 そして諦めた。
 噛み砕いて、無理矢理に飲み込む。
「御意のままに」
 アロイスは平静を装い、答えた。
「頼んだぞ、アロイス」
 返ってきたカレルの言葉には、深い信頼の情が込められている。今はそれだけが救いだ。
「では、次の機会も近々設けよう。次こそはゆっくり読書を楽しんでもらいたい」
「ええ。お心遣いに感謝いたしますわ、殿下」
 ルドミラはカレルにお辞儀をすると、すぐさまアロイスの方を見やる。まるで子供が甘えるように、和やかに笑いかけてくる。その微笑みがかえってアロイスを戦々恐々とさせた。
 書庫の蔵書よりも余程希覯なものを見た、そんな気がした。

 その後、ルドミラはカレルの居室でお茶を飲み、お茶菓子を堪能し、上機嫌で帰っていったという。
 アロイスは茶席にまで立ち会ったわけではないので、これらは全て事後にカレルから聞かされた話だ。だがそれを裏づける根拠もある。お茶が済み、カレルの居室を辞したルドミラは、廊下の警護に戻ったアロイスにわざわざ駆け寄ってきて、笑顔で挨拶を残していった。
「それではごきげんよう、隊長さん」
 可愛らしく笑いかけながらの挨拶は、他の近衛兵たちの前で行われ、大いに彼らの度肝を抜いたようだ。後にアロイスは部下からの質問攻めにあった。

 それどころか、当のカレルにすら問い詰められた。
「和解に至ったのは幸いなことだが、一転して随分と気に入られたようではないか」
 訝しげなカレルの問いに、アロイスはかぶりを振りたい気持ちでいっぱいだった。
 問われたところで答えようがない。あの小娘の心中は、アロイスには全く理解の及ばぬものだ。
「一体、いかような手を使った? 頭を床に擦りつけて謝り倒した、というわけではあるまい」
 カレルはアロイスの口を割らせようと、そこで冷やかすような笑みを浮かべた。
「それともお前の得手である、婦人に対する手練手管を駆使したか? ルドミラ嬢がそういうものに陥落するとも思えぬが」
「お言葉ですが、そもそも得手だと申し上げた覚えもございません」
 アロイスは控えめに反論した。二十代の頃ならともかく、三十を過ぎ、隊長の徽章を授かった現在では、婦人に手練手管を駆使する暇すらないというのが実情だった。
 それに、かの令嬢に対しては、そんなものを用いてすらいない。
 だからこそこの度の指名は、全く釈然としないのだった。