幾度も生まれる恋を殺して/中編

 二人きりになった書庫の中、ルドミラがようやくアロイスの方を見た。
「あなたとは一度、この見解の相違について話しを聞いてみたかったの」
 顔つきはにわかに険しくなり、はしばみ色の瞳に鋭い光が宿る。
「そもそも、殿下はあなたのことを随分と評価していらっしゃるようですけど、わたくしにはそうは見えなかった。あなたが殿下の仰るような職務熱心な忠臣だとは到底思えませんもの」
 令嬢の苛烈な先制攻撃に、アロイスは苦笑を噛み殺す。
 優しい言葉を賜れるとはつゆとも期待していなかったが、初手から容赦のない物言いだ。二人きりの時間はまだ始まったばかりだというのに、全く先が思いやられる滑り出しだった。

 アロイスは答えるより先に、書庫の扉に目をやった。
 ランタンの光越しに、その扉がごく薄く、指先すら入らないほど薄く開かれているのを確かめる。
 それでますますおかしさが込み上げてくる。どうやら殿下も、これからの舌戦がよほど気懸りでいらっしゃると見えた。
「何がおかしいの?」
 アロイスの視線には気づかず、ルドミラが硬い声で尋ねる。
「いえ、何も」
 一旦は否定したアロイスだが、ふと思いついて聞き返した。
「ご令嬢。これからあなたがお話しになることは、殿下のお耳に入ってはまずい事柄なのですか」
「ええ、そうよ」
 即座にルドミラは頷いた。
「だから畏れ多くも、殿下にはご退出願いましたの。だってわたくしとあなたが話し合って、和やかな会話になるはずがないんですもの」
 確かにその通りだ。アロイスは得心し、ならばと打ち明けた。
「では進言いたします」
「何かしら」
「この書庫は音が筒抜けです。あまり大声で話をすると、廊下にいらっしゃる殿下にも聞こえてしまうでしょう」
 それを聞いた途端、ルドミラが瞠目する。アロイスの出方を窺うような表情で、恐る恐る口を開いた。
「殿下が立ち聞きなんて品のない真似をなさるはずがないわ」
「ええ、無論です」
 アロイスは平然と応じる。
「立ち聞きではございません。どうしても、聞こえてしまうのでございます」
 以前、カレルと書庫で交わしたやり取りはまだ記憶に新しい。
 あの時のアロイスの答えを、カレルは疑いの眼差しで受け止めていたが――状況こそ違えど、やっていることは大差ない。今頃カレルは廊下で、『聞こえてしまう』こちらの会話を拾っているはずだ。書庫の会話が筒抜けであることは念頭に置いておくべきだろう。
 ルドミラは気まずげな顔をしていた。無礼を承知でカレルを退出させたのに、当のカレルの耳にここでの会話が拾われるようでは意味がないと思っているようだ。
 彼女が困り果てた様子でいたので、アロイスは助け舟を出してやる。
「小声で話せばよいことでしょう」
 ひざまずいたままの態勢から、令嬢へ顔を近づける。小さく形のいい耳元へ顔を寄せると、ルドミラはたちまち身を引いた。
「ちょっと、あまり近寄らないで」
「手本をお見せしているだけです」
 アロイスの囁きに、ルドミラは疎ましげな一睨みで応えた。
「こんな薄暗いところで、それも殿方に無遠慮に近づかれるのはよい気分がしなくてよ。ましてやあなたのことですもの……わたくしはあなたのこと、卑怯で狡くてどうしようもない殿方だと思っているのだから」
 間近に見る顔は険しくも美しく、しかし所詮は歳相応だった。美貌を誇る王子妃候補の一人と言えども、三十も半ばを過ぎたアロイスの目には小娘としか映らない。距離を詰めた程度であらぬ疑いをかけられるのは甚だ不本意だった。
 だから、余計な事とは思いつつも反論しておく。
「ご心配なく。私もいい大人、よちよち歩きを終えたばかりのご令嬢にはこれっぽっちも興味ございませんとも」
 それはルドミラにとってかなり屈辱的な言葉だったようだ。たちまち柳眉を逆立てた。
「失礼な言い方ね。あなただってお若く見えるけど、おいくつ?」
「三十六でございます、ご令嬢」
「では、三十六にもなって婦人に対する口の利き方もご存じないのね」
「ご婦人への接し方は存じておりますが、子供のお守りはなかなか難しいものでございまして」
 止せばいいのにと自分でも思うのだが、ルドミラの見事な喧嘩商人ぶりについつい乗せられてしまうアロイスだった。
 子供呼ばわりされたルドミラは、当然ながら怒りで顔を真っ赤にした。椅子から勢いよく立ち上がると、膝をつくアロイスを見下ろし、踏み潰さんばかりの勢いで地団駄を踏んだ。
「あんまりだわ! わたくしを見くびるのもいい加減にしてちょうだい! こう見えてもわたくし、殿方からいただいた懸想文の数と言ったらあなたを生き埋めにできるほどですのよ!」
 美しき令嬢らしからぬ怒声は、二人きりの書庫に大きく反響した。思わずアロイスは目を伏せたが、すぐに頭上で息を呑むのが聞こえた。
 空気の震えがゆっくり収まる。
 途端に書庫も、書庫の外も、不気味なくらい静まり返った。
「――今の」
 やがて、ルドミラがぽつんと言った。
 アロイスは視線を上げ、赤面する令嬢の悔恨の表情に気づく。
「殿下のお耳にも、聞こえてしまったかしら」
 独り言のように問いかけられ、アロイスは答えに迷った。だが嘘をついても取り繕えるものではなく、結局は正直に答えた。
「間違いなく、聞いておいででしょう」
 するとルドミラは、音もなく椅子に座り直す。
 そして吐息ほどの声で言ってきた。
「小声で話しませんこと?」
 元より、アロイスもそのつもりでいた。
 赤々と燃える令嬢の頬を眺めつつ、彼女はその苛烈さで、いくつの懸想の息の根を止めてきたのかと思う。美貌と知性だけなら誰より王子妃にふさわしいだろうに、この性格ではカレルはもちろん、じゃじゃ馬を馴らす御者にすら御しきれまい。

 頬の赤みと感情の高ぶりが収まってから、ルドミラは小声で話し始めた。
「あなたのことで、わたくしが引っ掛かっているのは、あの夜の一件。あれに尽きてよ」
 あの夜の件と言われて、アロイスもすぐに察した。
 城を抜け出したカレルとマリエを捜索すり為、城の裏手の森に立ち入った夜のことだ。そしてアロイスがルドミラから手厳しい糾弾を賜った夜でもある。
 そしてやはり、ルドミラもその話を口にした。
「殿下は正直に、ご自分のなさったことをお話しになったわ。そして反省もしていらっしゃった。なのにあなたは殿下ではなく、マリエに全ての罪を着せようとしていたでしょう。あれはなぜ?」
 はきはきと、強い意志を感じさせる口調でまくし立ててくる。
「マリエなら殿下のご命令に逆らうはずもないと、あなただって知っていたはずだわ。まして自分から殿下をそそのかすなんて、絶対あるはずもないのに」

 あの近侍の娘のことは、アロイスもよく知っている。
 自分よりもはるかに忠心篤く、カレルの為ならどんな労も厭わない娘だ。それだけに視野の狭いところがあるのが欠点だったが――今でも思う、あの度の町行きを、せめて自分には打ち明けてくれていたらよかったのに。
 アロイスはマリエが城に上がった日から、彼女のことを知っていた。初めて顔を合わせた時、彼女はまだ年端もゆかぬ少女だった。務めは違えどカレルに仕える者同士、それなりに信頼は勝ち得ていたと思っていたのだが、どうやら不十分だったようだ。
 あれから、全てがよい方向へ運んだもかかわらず、アロイスはまだあの一夜の騒動を過去のものにできずにいる。
 ルドミラもきっとそうなのだろう。

 険阻な面持ちの令嬢に、アロイスは言葉を選びながら答えた。
「もちろん、仰る通りです。彼女には殿下を焚きつけるような真似はできません」
「だったらどうしてなの? どうしてあの場で、マリエを犯人に仕立て上げなければならなかったの?」
 いかにも純真な年頃らしい真っ直ぐな問いをぶつけられ、アロイスの口元には自然と笑みが込み上げてくる。まるで殿下と話しているようだと、密かにカレルのひたむきな面差しを思い浮かべていた。
「『もしものこと』があった場合を想定したのです、我々は」
 笑みを殺したアロイスは、目の前のルドミラと、廊下で聞いているであろうカレルに告げる。
「あの方の御身に、あの時こそ危険なことは何もございませんでした。しかしもしも、あの方が危ない目に遭われていたら? あの方がご無事ではすまなかったら? 最も重い責任を負うのは他でもないマリエ殿です」
 カレルはあの夜、罪を認めたマリエに対して言った。
 ――必ずお前を守り抜いてみせる。
 アロイスもすぐ傍らで聞いていて、それで確信した。殿下はまだご存じない。近侍も、近衛兵たちも皆、近しい者の命は全てあの御手によって握られていることを。
 マリエを守るつもりでいたカレルが、彼女の身を危険へと無造作に晒していた。
 そのことを、あの日のカレルはまだ知らなかった。
「殿下にはその事実をわかっていただきたかった。おわかりにならないうちは、マリエ殿を傍に置く資格さえないのだと、自覚していただきたかったのです」
 アロイスがいつも通りの声で告げると、書庫の外から聞き覚えのある咳払いが聞こえた。
 ルドミラは素直にびくりとしてみせ、それからまた声を落とす。
「資格だなんて、随分偉そうな口ぶりね。そのせいで、もし殿下とマリエの仲が拗れてしまったら、あなたはどうするつもりでいたの?」
 令嬢の問いに、今度は危うく吹き出しかけた。

 こればかりは断じて打ち明けられまい。
 マリエに、殿下の懸想を終わらせて欲しいと頼んだことなど。
 アロイス自身は、あれすらも正しい判断だったと思っている。カレルとマリエが今の関係に落ち着いたのは僥倖のめぐり会いであり、懸想を終わらせずに済んだことを評価するのも結果論にしか過ぎない。
 マリエがもし、アロイスの頼み通りにカレルの懸想を殺してしまったとしても、カレルの為にはよい結果となっただろう。
 だがこれも偉そうな言いようではある。
 ならばあの時の自分には、どれだけの資格があったと言うのか。
 あったのは罪を負わんとする闇雲な覚悟だけで、心底ではカレルとマリエが選び取った結末に、安堵さえしているくせに――。

 胸裏で渦巻く青臭い葛藤は、あえて見て見ぬふりをした。
 そして答えを待つルドミラに、大人らしく静かに説く。
「あれほど仲睦まじい殿下とマリエ殿が、私などの横やり程度で仲を拗らせるなどとお思いですか、ご令嬢」
 これも狡い物言いだと自覚してはいたが、そう言うしかあるまい。
「お二人には、少しくらいいざこざがあった方がよろしかったのです。男女の仲とはそうしたいざこざを経て、より強固に結びつくものでございます。ことお二人の場合、何事もなければいつまでもほのぼのと平行線のままでしたから」
 もっとも、その頃の二人のことをアロイスは好いていた。
 ほのぼのと平行線の会話を交わして、逢い引きの真似事をしているカレルとマリエを眺めているのがが好きだった。
 今の二人はあの頃とは違う。会話はそれなりに噛み合うようになってきたし、近衛兵を前にしても構わず視線を交わし合っている。仲睦まじさには一層の磨きがかかり、独り身のアロイスとしては時々やっかみたくなることもあるが、好ましさと微笑ましさに変わりはない。
 あの二人も、いつまでも幼いままではないのだろう。
 いつかは男女の機微を知り、現実のほろ苦さを知り、そして想いを貫く為にそれ以外のものを手放す生き方を選び取るのだろう。
 それでもアロイスは、あの二人をこれからも見守り続けるつもりでいた。二人の今のありようを寿ぐのは、やはり結果論に過ぎないのかもしれないが――現実として、紆余曲折を経て訪れた今は、カレルとマリエにとっても、そしてアロイス自身にとってもこの上なく幸いなひとときだった。
 今の記憶がいつかの未来で、アロイスを支える礎となるはずだ。

 いつしかルドミラは、アロイスの話に熱心に耳を傾けていた。
「確かにそうね」
 真面目な顔で顎を引いた後、この時初めて少しだけ笑んだ。
「お二人の仲が拗れるなんてこと、あるはずがないのよね。それはわたくしだって、殿下に初めてお会いした時から、十分なくらいにわかっていましたもの」
 どこか悔しげにしながらも、安堵が滲んだ優しい微笑だった。