十二歳と十歳

 石造りの立派な劇場には、同じように立派な応接室が設えられていた。
 床を覆う絨毯は光沢のある毛織物で、歩くと履物がふかふか沈み込んだ。窓のない四方の壁には滑らかな絹の壁掛けが飾られている。天井近くの蝋燭立ては意匠を凝らした玻璃細工だ。それから革張りの椅子が二脚、いかにも特別な客人の為に並べられており、傍らの円卓には既に茶の支度が整えられていた。
 マリエがこの応接室に通されたのは今日が初めてではない。しかしこの部屋の他は入り口と来賓用の通路しか足を踏み入れたことがなく、客席から芝居を観たことは一度としてない。劇場を訪れるのはあくまでも主に随伴する時だけで、主が観劇している間は黙ってここで控え、劇の終幕に合わせて茶を淹れるのがいつもの仕事だった。

 今日も主は観劇を終え、今は円卓に突っ伏しているところだ。
 まだ茶にも茶菓子にも手をつけていない。どうやら酷くくたびれているらしく、傍らに立つマリエと目が合えば、呻くように訴えてきた。
「疲れた」
「お疲れ様でございます、殿下」
「本当に疲れた。……芝居というやつは、どうしてあんなに退屈なのか」
 応接室でカレルの帰りを待つ時間も退屈ではあったが、カレルはそれ以上の苦行を強いられていたらしい。しばらく愚痴が続いた。
「歴史の話は小難しくて嫌いだ。出てくる人間が多すぎて覚えられぬし、覚えられぬうちからどんどんと話は進んでしまうし、そのくせ特に面白いことも起こらぬ話ばかり続くし、諦めて寝ようと思っても太鼓の音がうるさくて寝られはしない」
 マリエの耳にも地響きのような太鼓の音だけは聞こえていた。舞台から離れたここまで届いたということは、客席ではさぞ大きく響いたことだろう。
「唯一の救いは、父上が帰ってしまったことだな」
 やっとのことで身を起こしたカレルは、革張りの背もたれにどすんと寄りかかる。十歳の体躯にはやや大きい椅子だった。

 この応接室は本来ならカレルの為だけに用意されたものではなかった。当初は国王陛下と王子殿下が観劇の後、揃って茶の時間を過ごす予定だったが、執務が立て込んでいるという理由で国王は終幕の後に城へ帰ってしまい、立派な応接室はまるまるカレルのものとなった。
 国王は当然ながら多忙を極める日々を送っている。元より王子と顔を合わせる機会は乏しく、三度の食事ですら共にすることは年に数回あるかどうか。今日も滅多にない歓談の時間を失って、主はさぞがっかりしているのではないかとマリエは思っていたが、当のカレルはむしろのほほんと気楽なそぶりだ。
「父上がいると芝居の感想を細かく問われて、心にもないことを捻り出さねばならぬところだった。今日のはまたろくに頭に入ってこなかったからな、助かった」
 その口ぶりに無理をしている様子はなく、マリエも内心ほっとする。先程までまさに、主が寂しがっていたらどう慰めようかと頭を捻っていたところだったのだ。
「では殿下、お茶とお茶菓子でご一服いかがでしょうか」
「ああ、貰う」
 カレルが屈託なく頷く。
 茶菓子は城で作ってきた物を持参していた。冷めても味の落ちない焼き菓子は主の好みにも合ったようで、一口味わった後にはとびきりの笑顔が浮かんだ。
「美味い」
「光栄に存じます、殿下」
「うむ。お前の作るものが不味いはずもない」
 機嫌よく断言されて、マリエも思わず口元を綻ばせた。城勤めを始めてからもう二年になるが、ここ最近は特に目立った失敗もしていないし、相変わらず勉強にも励んでいる。菓子作りに関しては我ながら腕を上げたと感じていて、厨で焼きたての菓子を眺めていると空腹を覚えることさえあった。無論、主の為の菓子をくすねるような真似はしないが、マリエも甘い物には目がない。
「あの芝居ももう少し、美味いものであったらいいのだが」
 今も、焼き菓子を頬張るカレルを見守るうち、自然と喉を鳴らしてしまう。幸いにもカレルは近侍の挙動に気づかなかったようで、再び芝居への愚痴に戻る。
「大体、今日の芝居は髭面が多いのがいけない。連中、揃いも揃って大層な髭を生やしているから役柄がまるで覚えられぬのだ。髭は一人二人にしておいて貰わねば困る」
 国王やカレルが招かれるような芝居の演目は荘厳な史劇と決まっていて、髭の登場人物が多いのもそのせいなのだろう。何しろ歴史の表舞台に立つような偉い大人たちは皆、どういう訳か挙って立派な髭を蓄えているものだ。マリエも大人の顔を覚えるのは苦手なので、主の不満はいくらか理解出来た。
 とはいえ文句を唱えるカレルだって、いつかは白金色の髭を生やすようになるのかもしれない。あの色ならきっと目立つから、他の大人たちよりははるかに見分けがつきやすいはずだが――マリエは想像を巡らせてみようとしたものの、主の子供らしいぷくぷくとした頬や顎から思い浮かべるのは、まだ不可能だった。
「あと、もう少しわかりやすい話がいい。あんなに小難しい芝居を、皆はどうして興味深そうに観ていられるのか」
 そう不満げにしているのもカレルがたったの十歳だからで、大人たちにとっては小難しいといわれる史劇もきっと興味深いものなのだろう。マリエは知っている、町にはここのような立派な劇場から掘っ立ての芝居小屋、果ては辻芝居に至るまで様々な規模と形で芝居が催されているという。もしすべての芝居が難解なだけで、眠ってしまう方がましなくらいつまらないものだとしたら、そもそもそんなに流行っているはずがない。
「アロイスが言うにはな、本当なら町には堅苦しい歴史の話以外にもいろんな類の芝居があって、そういうものならもっと気楽に観ていられるそうなのだ」
「そうなのですか」
「しかし私は今までにそういう気楽な芝居とめぐりあったこともないし、毎度のように小難しいのを見せられている始末だ。そんな芝居が本当にあるものかどうか疑わしい。彼奴は私が子供だと思って、いい加減なことを吹き込んだのではないかと思っていたところだ」
 カレルが鼻の頭に皺を寄せる。近衛兵のアロイスがどういう経緯でその話を語ったかは不明だが、観劇を渋るカレルを宥めるつもりだったのかもしれないし、あるいは単に丸め込んだだけなのかもしれない。
 マリエにとっても小難しいにしろ、気楽なものにしろ、芝居自体が未知の存在。観てみないことにはどうとも思えない。
「わたくしは未だ観劇の機会を得ませんが、殿下のお好みに合うお芝居もどこかにはあるのかもしれませんね」
 控えめに答えれば、主は思い出したように目を瞠る。
「そうであったな。お前は芝居を観たことがないと聞いていた」
「はい、殿下。残念ながら……」
「残念どころか幸いではないか。退屈な思いをすることもなければ、あくびを噛み殺すのに骨を折ることもない。観たいなどと思わぬ方がお前の為だ」
 散々な物言いの後で、カレルはふと閃いた顔つきになる。こういう際の切り替えはとても鮮やかで、嬉々として話を振ってきた。
「――しかし、お前がどうしてもあの小難しいのを観てみたいと申すなら、私が口を利いてやってもいいぞ」
「えっ?」
「父上に話をして、お前も一緒に芝居を観られるようにしてやる。お前が一緒なら私の退屈も少しは紛れるだろうし、飽きたら話でもしていればいいのだからな。うむ、我ながら名案ではないか」
 思いついたことをまくしたてたカレルは一人悦に入る。だがマリエには到底受け入れがたい提案だった。
「と、とんでもないことでございます! 国王陛下にそのようなお話は、その、お止めください」
「なぜだ」
「なぜと仰いましても……殿下のお気持ちだけでもう十分でございますから」
 マリエからすれば国王は雲の上の人。同じ王族とはいえ、カレルと接するのとはまるで勝手の違う相手だ。その相手に自分の名前が、しかもとんでもなく分不相応な形で告げられることを考えただけで縮み上がりたくなる。
「何だ、つまらぬ」
 提案を蹴られた格好のカレルがそっぽを向く。しかし拗ねた表情は、焼き菓子を一つ口に放り込んだだけで呆気なく解けた。この主はものを食べる時、実に美味しそうな顔をしてくれる。近侍としては作り手冥利に尽きる。
 一方で、空腹の際には目の毒でもある。つられてひとりでに喉が鳴る。
 次の瞬間、カレルが尋ねてきた。
「腹が減っているのか」
 その質問に、マリエは酷く慌てた。
「い、いえあの、な、何でもございませんっ。大変失礼いたしました!」
 あたふたする近侍を注意深く検分した主は、やがて面白げに声を落とす。
「菓子を分けてやろうか」
 今度は慌てる余裕もなかった。
「幸いにして父上はもう帰ってしまったし、この部屋には私とお前の他にはおらぬ。兵たちは外にいるし、お前が菓子を一つ二つ食べてしまったところで見咎める者もおるまい」
 カレルの提案はいつだって唐突で、なのに時折魅力的だった。近侍としては断らなければならない事柄なのに、なぜだか心が揺らいでしまう。
「でも……」
 答える声が急に子供じみてしまったので、マリエはすぐ言い直した。
「お言葉ですが、誰かに見つかったら叱られてしまいます」
 もしもカレルから菓子を貰ったことが知れたら、確実に叱られる。特にマリエの厳しい母親の耳に入れば、平手を食らう程度では済まないだろう。他の城勤めの者たちでも決していい顔はしないはずだ。
「私がいいと言っている。誰にも話したりはしない」
 事もなげにカレルは応じ、その後で無邪気に付け加える。
「それに、私も一人で食べるよりはお前と一緒の方がいい」
 その口ぶりに寂しげな様子はない。
 言われた通り、マリエは確かに空腹だった。この応接室で主を待っている間も、城から持参した焼き菓子をずっと気にしていた。共に待っていた王の近侍はマリエよりもずっと大人で、生真面目に直立したまま控えていたので、マリエは主の前にいる時よりも恐縮しながら遠くに響く太鼓の音を聞いていた。早く主が戻ってきてくれたらいいのにと、焼き菓子を気にしながら何度も思った。空腹のあまり、いつからかしくしくする痛みを覚えて、だがその痛さはもっと別の感覚に似ているような気もした。
 カレルは笑顔で焼き菓子を一つ、差し出してきた。マリエは迷い、ためらい、おずおずと手を伸ばしかけたところで主がほっとしてみせたのに気づいて、意を決した。
 ただ、主が何と言っても誰かに見つかるのは怖かったから、受け取った焼き菓子は大急ぎで口の中に押し込む。
 当然、それをカレルに見咎められた。
「行儀が悪いぞ、マリエ。座ってから食べろといつも言っているのはお前の方ではないか。そこへ座れ」
 勧められたのはもう一脚の、革張りの椅子だ。本来は国王の為に用意されたその椅子に座る度胸まではなく、口の中が一杯のマリエは必死にかぶりだけ振った。
 するとカレルは呆れたように笑って、
「仕方のない奴だ。それなら椅子も半分分けてやる」
 大きな座面に余裕を持たせて座り直し、まだ菓子を飲み込めていない近侍を手招きした。マリエはまた迷ったりためらったりしたものの、行儀が悪いのも気になったし、何より主がそうして欲しいと望んでいるようだったから、結局はお呼ばれに与った。
「……ありがとうございます。大変、美味しゅうございました」
 やがて全部飲み込んでから、マリエは囁く声音で礼を述べた。
 カレルはすぐさま頷く。
「当然だ。お前の作るものが不味いはずがない」

 大きくて立派な椅子は、十二歳と十歳が二人で、並んで座るにはちょうどよかった。